2011年7月19日火曜日

文脈に助けられよう/いいから俺の話を聞いてくれ(1)

「文脈」と近く深くひとつになることを推奨したい!
それによって人生や、仕事は助けられるだろうと直感します。
ここでは「文脈」についての哲学をゲットするのを目的としたいです。

文脈って「意味ある流れ」のようなのと捉えてそんなに間違いじゃないはず。
一文字だけでは意味をなさなくとも、文章のように連なると意味が生まれる。
そういう流れ自体を指しているのが文脈。

私の文脈に関する思い出で、そこそこ自在に接続詞を使えるようになった頃のことがあります。
文章と文章との間に「だから」とか「したがって」とかを入れ込むことで、より長い流れが生まれ、私は論理的に話せるようになりました。論理的な話術というのは、ある程度の長さに、筋道が見えたらオッケーです。ここでポイントなのは「ある程度の長さに、筋道(流れ)が見えたらオッケー」なことです。
物語りも起承転結とある程度の長さと筋道があります。
また海にいる魚とパソコンを打つ私との間には、進化の過程という時間と筋道によって意味が生まれました。
3月11日の地震は過去の日本で起こった大地震とつながりを思い出させてくれましたし、
原発をめぐる組織の対応は、戦中の日本の組織の系譜は変わらずあるとも分かりました。
挙げればきりがなく、小さいところにも大きいところにも「文脈」は適用できます。

そういう文脈は一瞬や一点ではない性質上、意味を読み取るのに時間がかかります。
それゆえ時間の要素も多くあります。大なり小なりの文脈の世界で、人は住んでいて、そのなかで人生を送ります。
井上雄彦の「バカボンド」では沢庵和尚が宮本武蔵にむかって「天とつながりなく生きるのはただ辛い」的なセリフを言っていた覚えがあります。個人ではコントロールの出来ない大きな何か(天)、それとつながらず、私一人で生きていくのは大変である、と。そもそもは繋がって生まれてきたもので、素直に認めることの楽さについて話していたような。やばいうろ覚え過ぎる。でも天とつながってしまえばいい、という主旨で大丈夫だと思います。
それでつながることを阻害する自意識やら何やらから自由になるために武蔵は剣の道があって、沢庵和尚は仏の道がある。そのときの自由とは、天とつながっている状態での自由。
上手く前文とつなげられませんが、文脈と近く深くひとつになるポイントがそこにあるように思えます。
(今シリーズは、しっかりした定義より、個人の思ったことの強度を大事にする方針です)

それで私は美術を専門としています。
西洋現代美術では文脈というか「コンテクスト」を大事なルールとして据えています。
これまで私は、文脈が大事だよという形式的で記号的で卑屈な(そう見えたこともある)意見はあまり大切に聞いてませんでした。しかし「コンテクスト」を大事にして作品をつくっている人は、やはり作品が「立っている」ようにも最近見えてきました。これまでの系譜の力を借りて、次なるステージでのやりとり、という「前線」が見えているからなんだと思います。この戦うべき場所としての「前線」を摑むためにもやはり文脈は必要であり、なにより凄く面白い意味のはずです。


ひとまずここまで。
つづきはコメント欄で。まだ話したいことがあります!

お知らせ 「いいから俺の話を聞いてくれ」をスタートします。

こんにちは。
突然ですが新しいことを始めさせてもらいます!
それはこれまでの「問題集」の良いところを保持しつつ、個人の興味と関心を広く出力させるものです。※1

問題集は、良質の問題提起とそれに応答する面白いコメントの「連なり」が最大の魅力でした。これは一人で問題を抱えている状態よりも高い報酬感を得られます。知的に嬉しく興奮するという感じです。それでこれまでは「問いかけ」が軸の形式でしたが、それを各現場の前線から届けられる「探求すべき技術」「伝えるべき面白い知見」からのスタートにします。それを体現するシリーズのタイトルは「いいから俺の話を聞いてくれ」です!

この言葉は内田樹氏の近著『最終講義』から引用しました。 ※2
氏が哲学者エマニュエル・レヴィナスに会ったときに感じた “ 学者というのはこうでなければいかん ” の態度です。
でも私は学者ではない、というなかれ。
こういうのは「学者」に限らず、どの分野の前線にも共通でなければいけないと思います。わくわく、どきどき冒険をするのは学者だけのものではありませんし、発見したその宝物は他人にとっても宝物であって、しかも共有すると嬉しいという特性を持っています。その特性を味わうことの楽しさは “ 学者というのはこうでなければいかん ” の態度に通じるでしょう。

ということで始めます。※3
「いいから俺の話を聞いてくれ」シリーズ!
詳しい形はやりながら、活性化する方向へ、舵を切ります。ではひとつ宜しく御願いします。


※1 問題集は終わった訳ではなく、休火山なので、突然始まることもあります。
 

※2 ほんものの学者というのは「いいから俺の話を聞いてくれ」という人なんですよ。自分は哲学的な荒野をこれまで駆けめぐって、それなりに必死に道を切り拓いてきた。それは後続する君たちのためにやったことなんだ。だから俺の話を聞いて、それを理解して、俺の仕事を引き継げ、と。こっちにバシバシと「パス」を蹴り込んで来るわけです。こっちに受けとる技量があるかどうかなんて二の次で、とにかくそこに誰かがいたら「パス」を出す。僕はこのレヴィナスの「そこに誰かいたらとにかくパスを出す」というスタイルがほんとうに素晴らしいと思ったんです。
(内田樹『最終講義』pp.90-pp.91)

※3 1発目は蓮沼から始めます。本日中。

2011年6月27日月曜日

お知らせ

「くそ勉強」ブログは本日から2週間のお休みをいただきます。

「問題集」プロジェクト次回の更新は2011年7月11日(月)となります。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2011年6月20日月曜日

問題30 勉強会のバランス

林くんの問題を考えてる間に、順番がきてしまいました。
じっくり考えはじめると時間はどんどんたっていくし、ほかのことも考えてるしで、なかなか上手くバランスをとれていません。
そこで今回は、勉強会のバランスを問題にします。
勉強会(いまはこのブログなどが中心となっていますが)、みなさんは自分の活動とどのようにバランスをとってますか?

この前、太田くんが時間の使い方を問題にしていたので、そこにもみなの答えは含まれていると思うのですが、時間配分にプラスして集中配分についてきいてみたいです。

わたし自身のことをいえば、複数のことを同時に進めようとすると、必ずどこかで無理がでてきます。
いいや、複数のことをするのはまったく問題はないのです。

無理をしてると感じるのは、その複数のことが、ばらばらな目的になっているときなんじゃないかと思います。わたし自身の問題をいえば、自分の活動や考えには集中していても、それを勉強会にうまくフィードバックできないのは、そもそも勉強会自体、問題自体を「目的」としてしまっていたのではないかと思っています。当然ながら自分が自然に集中するものに従うと、勉強会へのバランスはちょっと減ってしまいます。それは別に悪いことではなくて、目的がおなじ方向を向いていれば、勉強会で得る報酬はもっと質が高くなると思います。

まえほど、このブログでの議論が活発でなくなった分、それぞれが活動に集中してるのはいいことだと思っていて、みなのくそ勉強はいい方向で継続しているんだと思います。だからこそ、それぞれにとっての勉強会のバランスも、その動きにあわせて変わってきているのではないかなと思い、聞いてみたいと思いました。

2011年6月13日月曜日

問題29 社会の構想

 今回の「問題」はシンプルです。「日本社会をどうしたいか」について考えたい。

 今回は、細かいアイディアではなく、その大元となる根本的なコンセプト、「社会理論」、「共同体の構想」を聞きたい。意識化して文章にしたことがあるかどうかはともかく、たとえば何かものを売る人なら「こういうものが売れる社会になってほしい」というようなかたちで、絵画や映画が好きな人なら「こういう絵/映画が生み出される/受け容れられる社会になってほしい」というようなかたちで、またデザインや編集をなりわいとする人は言うまでもなく、自分が理想とする社会像がどこかに育まれているはずです。

 1)個人が抱く理想像と、2)その理想像における個人の役割、の関係も重要なポイントですが、今回はひとまず、その社会(を実現する過程)で自分がどのような役割を果たすか、という問題は度外視してよいことにしましょう。「そんなこと言ってお前になにかできるの?」というツッコミはなし、ということです。「我々は夢を見ることを恐れてはなりません」、なんてね。

 そういうことは言葉で語れるものではなく、わたしにとっては作品としてしか表現できないものだ、という意見もあるかもしれない。しかしそれは両方必要わけだから、直接的な言葉は直接的な言葉でつくっていくべきだと考えます。

 今回は、場合によっては一人の参加者につき一回しか書きこまないくらいでもいいかなと思います。刺激の頻度よりも質を大切にして、できれば一度で語り切ってほしいと思います。複数回で「連載」してもいいけどね。お互いの質問等のやり取りは、もちろん自由にやりましょう。

**********

 さて、それではまずぼくから。

 ぼくは日本社会における「時間」の感覚がもっと豊かになってほしい。豊かな時間感覚をもつ社会にしたい。そのためには、死んだひとを大切にすること、そして自分の未来を自分で決めることが大事だと考えます。

 日本社会はいつからか、時間感覚が極めて貧弱な社会になってしまったと思う。たとえば、2回の原爆とその死者たち、被爆者/被曝者たちのことを忘れないことができていたら、原発のリスクを認識しつつそれを推進/看過することはできなかったのではなかろうか。

 戦争に至った原因をエネルギー政策に求め、それを繰り返さないために戦後は原子力発電を推進したというのは事実だろうけど、それは「今生きているひと」のための考え方。「今生きているひと」のために動くと、必ず現実的な利害関係が生まれ、権益が生じ、物事が本来の理念と離れたところで自動化されてゆく。そもそも、理念の中にもすでにさまざまな思惑が入り込む。また、何が決定されても常に反転されうる。それは現在も変わらない。

 他方、死んだひとは利害関係をもたず、次の選挙で投票もできない。あらゆる現実的な利害を離れた死者たちを媒介にすることでしか、共同体は成り立たないのではないかと思う。日本はさまざまな祭祀や能のような芸能において、「死者の側からものを見る」技術を伝統的に受け継いできた国。今回の震災では「復旧・復興」ばかりで、いまだ数も確定できない莫大な数の死んだひとたちをどう供養するか=これからの共同体の基盤になってもらうかという議論は聞かれない。それは死者が次の選挙で投票できないからだとぼくは思う。生きているひとしか投票できないから、生きているひとしか大事にされない。死んだひとよりも生き残っているひとのほうが多いから、生きているひとしか大事にされない。それでは利害争いが続くだけ。死んだひとに見せても恥ずかしくない世の中をつくるということが、日本でも可能な倫理ではないかと考える。

 ところで、「時間」は過去と現在だけでなく、未来をもっている。ぼくは「死者」=過去との関係を変えると同時に、未来との関係も変えなければならないと思う。

 たとえば、菅首相。彼が浜岡原発を止め、いわゆる「自然エネルギー」へのシフトを表明し、サミットで「2020年代の早い時期に『自然エネルギー』20%以上に」と宣言して支持されたけど、忘れてはいけないのは、彼は早ければあと1、2ヶ月、最長でもあと半年でいなくなる首相だということ。あと半年以内に権限も責任もすべて失うひとが、今後数年、あるいは数十年に影響を与える決定ができる(もしくは決定したような見せかけをつくれる)システムはおかしい。「2020年」なんて空虚にしか響かない。

 原発政策のように、「政治家の寿命」と「政策の寿命」という二つの時間が決定的にずれてしまう場合は、そのうちいなくなる政治家に決定を委ねてはならないと思う。その決定が政策として実現するときも、決定を下したときと同じ立場にある人間しか、そうした決定はできないと思う。そして国政においてそのような決定主体は「国民」しかありえないから、ぼくは日本でも国民投票が実現することを期待する。未来は、未来において責任をとることのできる主体が決定すべきだ。

 以上のように、ぼくは過去および未来との関係を再考、再構築したうえで、具体的で豊かな時間感覚をもつ日本社会にしたいと思う。

 そのチャンスはインターネットにあると思う。大雑把に言えばインターネットは過去と現在と未来が同時にあらわれてくる空間だ。インターネット空間を、死者と生者と未来の子供が混じり合う場、あるいはそれらの区別が融け合う場にすることが、社会の時間感覚にとってひとつの可能性ではないかと考える。

 最後に、自分の考えに含まれている問題点を自分で指摘する。

 1)死者は「悪用」できる。死者の声を「代弁する」とき、そこには「悪用」の可能性が生まれる。たとえば、「死者は原発に反対するはずだ」という理屈が成り立つとき、同様に「死者はアメリカに復讐するために日本が軍事大国になることを望んでいるはずだ」という理屈も原理的に成り立つ。すると、死者を基盤とするといっても、死者を基盤とするためのさらなる基盤が必要なのか、という議論になり、これは永遠にメタ化されてしまう。これにどう答えるか。

 2)結局のところ政治家や官僚やシステムをどこからどうやって変えればいいのか。

 以上、荒っぽい議論だが、ぼくの「時間社会論」の素描としたい。ご意見、ご感想ぜひください。

**********

 というわけで、文量はどうでもいいし、ぼくみたいに政治のこととか絡める必要はまったくないから、とにかく自分の専門分野を相手にするのではなく、「社会」みたいな大きな相手に向かって語る言葉を出してもらえたら嬉しいです。

 今回は盛り上がらなくてもいいと思う。じっくり練った「本気」を見たい。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。それではよろしく。

2011年6月6日月曜日

問題28 時間とうまく付き合う60の方法

 「時間」は誰でも平等に持っています。高校サッカー部時代に、私は「時間は有限、可能性は無限」という横断幕を見ながら3年間を過ごしました。そうです、時間は有限なのです。1日は24時間と決まっているし、生きているのだって長くてもあと数十年。でも使い方はそれぞれです。

 私が最近、時間について考えることを大きくまとめてしまうと、できるだけ有効に使って、できるだけ楽しんで、できるだけ成果を残したいということです。やりたいことが多ければ、限られた時間の中では全てをやりきることはできないかもしれません。でも、どう過ごすかは自分次第。日々、自身に問いかけながら時間の過ごし方を考えていますが、この機会に皆さんが考えていること、実践していることを共有して、これからの時間をより充実させていきたいです。また、ここで発表することによって自分自身の時間との付き合い方を再確認していくことができれば…と思います。

 まずは、時間に対して皆さんがどんなことを意識しているのか、挙げていただきたいです。目標はひとまず60個!(時間特有の60進法を意識しています。60個挙げて、1歩進みたい!)

 私は時間との付き合い方に満足できず、どうすればもっとうまく付き合えるのか考えることが多いです。最近は、いくつか進行しているプロジェクトと、自分の作品の制作、ドイツ語の勉強、そして普段のインプット、これらを限られた時間の中でどう進めていくか考えています。そんなことから今回の問題として提出させていただきました。

 それではよろしくお願いします!

2011年5月23日月曜日

問題27 「くそ勉強」の在り方

新参者のsukeです。

私は、大学ではオフィスデザインを通して、会社の方と一緒に「働き方」を考えていました。

この中で、「自分の環境を自分たちでつくる」ということに大きな価値を感じてきました。
環境は、自分に影響を与え、周囲にも影響を与え、自分の人生にも影響を与えます。
私は、環境がより良いものになれば、人生がより良くなると考えています。
そして、その環境は他人に勝手に作ってもらうものではなく、
自分がどう在りたいかを考え、周囲を巻き込み、自分たちで考えるべきだとも考えています。


そんな私は今、ブログのデザインを通して、「くそ勉強」の「在り方」を問い直したいと思います。


これまでの「くそ勉強」はどんな在り方をしてきた(している)と思いますか。
これからの「くそ勉強」はどこを目指し、どんな在り方をしていきたいと思いますか。

あなたは、これまでの「くそ勉強」にどう参加してきましたか。
あなたは、これからの「くそ勉強」にどう参加していきたいですか。

そのためには、何が余分で、何が足りないと思いますか。

助友という新しい人間が入ってきたことは、くそ勉強が変わる一つのチャンスだと思うのです。
今、「自分の環境を自分たちでつくる」ことを考えてみようではありませんか。

2011年5月16日月曜日

問題26 あなたの取材先を教えてください

あなたの取材先を教えてください。
取材先を持っていない方はぜひこの機会につくって教えてください。

取材とは自身の活動の糧になるようなことです。材料であり素材です。
ジャーナリストであれば直接被災地へ行き、その眼で原発を見に行くことがニュースをつくる素材になるでしょう。画家であれば取材対象はそのままモチーフになります。編集者はあの人はあそこへ、この人にあっちへと取材をさせようとするかもしれない。映画監督はテーマを探しに直感的に南米へ行ったりする…など など。

ここに出題する意図としては、問題を繰り返し考え続けていることで、問題に応答する技術が高められるように、人に説明できる、共有出来る取材先を複数持っておくことで「材料・素材」を取り出す技術が得られるのではないかと考えています。

そして「この時期、他人はどこへ行き、何を見聞きしたいのか」について興味があります。
みんなは何の素材を取りだそうとしているのかを知りたい。
例え専門が異なっても、何を知ろうとして、どう動こうとしているのかを共有することはたいへん刺激になることです。ここで影響し合って展開し、さらに新しい取材先を見つけたい! 

これまでの取材先も、これからの取材先も教えてください。

問題 1〜25

2010年12月20日からスタートした「問題集」は25問目をむかえました。
目標は問題 100です! これからも末永くお付き合い下さい!
ちなみに本日は26問目が提出されます。のちほどまた。
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問題1 記録について 22 コメント

問題2 クリスマスはどう過ごすか 7 コメント

問題3 年末をどう過ごすか 13 コメント

問題4 目について 5 コメント

問題5 映画はなぜ120分なのか 20 コメント

問題6 編集(の)可能性とは何か 19 コメント

問題7 移動中の時間は何をすべきか 10 コメント

問題8 3D から考える 5 コメント

問題9 素材の欲望 3 コメント

問題10 集団とどう付き合うか 4 コメント

問題11 何か困っていませんか 6 コメント


問題12 歴史の勉強 6 コメント

問題13 素材と付き合う技術 19 コメント

問題14 肩書きをどうするか 10 コメント

問題15 何を共有できるか 3 コメント

問題16 拠点となるところ 24 コメント


問題17 言葉に窮する問題 35 コメント


問題18 勝利の方程式 9 コメント

問題19 リズムのつくり方 21 コメント

問題20 想像の方法 4 コメント


問題21   4 コメント

問題22 人生を楽しくする十ヶ条 23 コメント

問題23 寝ること 6 コメント

問題24 「声」を増やす 51 コメント

問題25 わたしは日本人です。 21 コメント

2011年5月10日火曜日

問題25 わたしは日本人です。

今回は前の問題をちょっとひきつぎ、「日本人として」問題をもう少し掘り下げてみたいです。

昨日まで2週間メキシコに行っていました。そこで「わたしは日本人です」とよく言いました。
外国に行くと、当然ながら日本にいるときよりも、「日本人」であることを意識させられます。異国の地での自分の気持ちの距離というよりも、まず周りから見て「異邦人」「日本人」だからです。

「わたしは日本人です」と言いながら、そういえば「日本人であること」、ナショナリティってなんだろう?、当たり前に日本で生まれたけれど、それってなんか意味あるのかな?私には意味なくても他の人には意味あるのかな?などとぼんやり考えていました。

ところで前の問題で、太田くんが「それほど「日本人であること」にしばられてない」というようなことを書いていたけれど、わたしにもそういう実感があります。理由のひとつには、映画や写真のような「媒介のあるイメージ」や小説のような「物語」といったモノを相手にしているということがあります。(あとはネットにもさまざまな場を媒介に、自分のプラットフォームをつくって展開を広げられるという、国境のない世界があると思います。)
異国でナショナリティの壁があったとしても、そうした共有できるイメージや言語、または専門性があれば、「人種をこえた」、「わたし個人」と「相手個人」とのつきあいは、自然にはじめることができます。さらに自分の言葉があればあるほど、より深い展開が拡がることでしょう。

しかし一方で、実際には「日本人であること」に、思った以上にしばられています。

外国に行けば、まず見た目がそうであるのだから、否が応でも、わたし個人の人間や性格や関心を伝えるまえに、そこから始まる。
日本人として守らなければいけない法律なんかもある。
ふだんの映画の保存の仕事でも、映画すべてではなくて、中でも「日本映画」の保存に特化している。アーカイブというのが、場所の属性が重要なことも理由だけど、私がメキシコ人だったら、日本映画が一番好きでも、メキシコの映画を保存する可能性は高くなると思います。

場所との関係が、ナショナリティというひとの属性に関わっていることは大事なことだと思います。(そもそも、なぜ異国に惹かれて訪れるのか、それはそのナショナリティに惹かれ、接してみたいというのが一番の目的です。)


だから、ナショナリティをもっていることそれ自体に意味があると考えてみるというか、意味づけて持っておいてもいいなと思いました。
きっと「日本人」であることは、想像以上に自分に関係していると思ったからです。
蓮沼くんが書いていた「ローカルからユニバーサル」という普遍性という発想も考えるきっかけになりました。

うまく言えないのですが、無意識でも意識的でもいいので、わたしの、日本人であるというナショナリティをもっと楽しめないものか?という問をなげてみます。

まずはじめとして、自分が「日本人」を理由として得てきたと思うこと、自分の分野で日本に特化していること、自分が日本を語るとしたら何を語るか?など聞いてみたいです。

2011年5月2日月曜日

問題24 「声」を増やす

 そろそろ誰でも書きやすい「問題」を設定してこのブログを盛り上げたいところですが、やはりちょっと違った角度から。

 例のごとく地震と津波と原発ですが、この2ヶ月のあいだにわたしが実感したことのひとつは、「日本ではほとんど誰も正面きった質問をしない」ということでした。どういうことかというと、つまり突然「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」とか、「画家として津波をどう考えるか」とか、あるいは「映画保存技師として一連の出来事をどう見ているか」とか、誰も聞かないわけです。聞いてこないわけです。正面から立場を問い、大きなことを語るよう求める動きは、とても少なかったし、今も少ないと思います。

 ところが、逆方向は溢れている。逆方向というのは、「アーティストとしてできることをやりたい」とか、「自分の生活の中で役に立てることを続けたい」とかです。

 「大きなことを語れ」と求めるひとは少なく、「小さなことをします」と言うひとは多い。外側から「問い」にさらされることは少なく、内側で自分のテリトリーを再確認する言動は多い(敢えていじわるな言い方をしますが)。

 これはちょっと「災害の過ごし方」としてもったいないのではないかと思います。せっかくだからもっと揺さぶられたり、場合によっては立場を問われたり、大きなことを語ったりした方がよい経験になるのではないか。これまで存在しなかった接続が生まれるのではないか。そう思います。

 そこで。外側から問いが来ないなら、自分で自分に問いを立てようと考えました。「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」と自分で聞いて自分で答えるわけです。またこういう場所で枠組みをつくって問いを立ててもらえばいいと思いました。それを今回やってみたい。

 ポイントは、「複数」の問いを立てることだと思います。「〜として…する」が陥りやすい罠は、自分で自分を限定してしまうことです。でも人間は複数的な存在なので、たとえばぼくは今回のカタストロフィを「翻訳者として」「クライスト研究者として」「父親として」「猫と暮らす者として」「日本人として」「新潟県出身者として」等々、いろいろなふうに考えることができるわけです。そしてそういう複数性にこそ、さまざまな困難と可能性の両方が含まれていると思います。

 こういう自分自身のチェック機関のような働きを「声」と呼んでみました。個人、組織、社会、国家、どのレベルでも、根本をきちんと問い直す「声」が不足している気がします。大企業や国家機構だけでなく、やっぱり個人にも「声」が不足しているのだと思います。自分に対して、あるいは他人に対して、今回のような枠組みを利用して直球の問いを立ててみたい(直球じゃなくてもいいんだけど)。ただ、こういう問題だからこそ、変に深刻にならず、気楽にやりたいと思います。深刻さは思考を停止させます。外から見てイタイやりとりにならないよう気をつけましょう。

 自分にも、他人にも、シンプルな問いを立てて、正面から答えてみたい。なんか盛り上がらない気がしてならないけど、どうにかして面白くしてください。とりあえずリリースするので、すぐに始めてもらってもいいし、今回の問題設定自体について感想をもらってもいいと思います。今回はとにかく盛り上がる気がしないので、みなさんの力にかかっています。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。よろしく。

2011年4月25日月曜日

問題23 寝ること

おそらく人間は皆、一日の終わりに寝て、起きて、また新しい一日を迎えます。
生活におけるリズムを取っている重要な行為だと考えられます。
「問題19 リズムのつくり方」、「問題22 人生を楽しくする十ヶ条」ともつながってくる部分があるかもしれませんが、今回は「寝ること」について考えていきます。

「寝る」といっても、寝方にはいろいろあります。時間、回数、質、環境……。
寝方によって、体調への影響が変わってきたり、気分が変わったりし、寝る前後で変化が起きます。この「寝る」という行為をある程度コントロールすることで、自分の作りたいリズムや状態を手に入れることができると思います。

そこで、「寝る」ことについて、どのような工夫をしてその行為と付き合っているか発表し合って、それを共有することで、睡眠ともっとうまく付き合っていく方法を模索していきたいです。

まず、皆さんが「寝る」こととどのように付き合っているかを聞かせてください。

2011年4月18日月曜日

問題22 人生を楽しくする十ヶ条

「人生を楽しくする十ヶ条」とは幸せを得るための「工夫」です。

世界が大変なときでも、困難な状況下でも私たちは日常を送り続けます。
その日常に作用する「幸せになる工夫」は私たちを助けるはずです。

例えば批評家の小林秀雄は、午後になると一切の水分を絶つそうです。
それは大好きな晩酌をより楽しむための工夫です。
体をからからの状態にしておくことで、お酒をより美味しく楽しく味わったのです。
これは信念や思想とは違って、些細な話かもしれません。
しかしこの工夫を隅々に張り巡らせることで、日常はより送りやすく、よく生きやすくなるのではないでしょうか。
この問題にはまず日常というベースをしっかり送ろうという意図があります。

あなたの「十ヶ条」を教えてください。
ともあれ、まず10個!
そしてシェアしましょう。

2011年4月11日月曜日

問題21

考えています。

しばらくおまちください。

よろしくおねがいします。

・・・・・・


415日。(ふたりのコメントをもらってから追加しました)

問題をだそうとずっと考えているのだけど、悩んで5日もたってしまいました。
時間があきすぎてしまって、ごめんなさい。

わたしは地震以来、どうしても地震と原発のニュースばっかり気になってしまい、それにとらわれてしまっています。リズムの不調もそれだけのせいじゃないはずなのに、なんだかごっちゃになっていて、そしたらもともとあった大事に育くまれていた(?)自分の問題が、息を潜め始めて、声を殺すようになってきました。

ところでいま、なんだか体になじめないのは、いままでは個人的な問題や関心からものごとを考えられていたのが、大きな日本のかかえる問題がまるで自分の問題になってしまったこと。とうてい個人でかかえられるレベルでない大きな問題を、自分にかかってる問題のごとく気負っている、もしくは背負った気分になっていること。

こう書くと、自分でもちょっとおおげさすぎる気もするのですが、
それでも、この毎日で確かなのは、時間があっという間に過ぎ去るほど夢中であるということで、これはちょっとすごいことだと思う。

実は、この途方もない気分になる状況が、自分の問題ということでいいのか、
それとも、やっぱりまずは自分のリズムをたてなおしたほうがいいのか?

それにはどっちがいいという答えもないと思うけれど、体になじめないことを続けることは、やっぱりむずかしい。おかしなリズムだけになるのはきつい。

大事なことは、自分に密接した問題から、大きな問題ともつきあってくことだと思う。
でも、どうしてそれが単純にできないのかな?っていうことを問題として考えたいです。


ところで、そもそもの自分の問題ってなんだろう?ということもはっきりしてないね。わたしにとって自分に密接した問題は「リズムのつくり方」である気がします。しかし「リズムのつくり方」が、自分の中だけで解決する問題だと思っているわけではないです。だからこそ一緒にすすめていきたいなあと思いました。それから「想像の方法」について考えることも、とても大事な気がしているのでそっちも・・・。

なにが問題にしたいのかあいまいかもしれないけど(タイトルが思い浮かばない・・・)、みんながいまの状況をどんなふうに考えてるのかも聞いてみたいし、まず、ここまで書いてみます。

よろしくおねがいします。

2011年4月6日水曜日

問題20 想像の方法


渡ったことのない橋 まだ降りたことのないあの駅
聴いたことのないビート そして会ったことない人々
        (「5 cups」スチャダラパー/con10po)

知らない場所・時間・人。これらのものをぼくたちはどうやって想像しているのでしょうか。知らないものと自分との関係を想像する方法にぼくは興味があります。3.11を経験し、ぼくは、被災地や避難所生活のこと、この先の自分の生活のことを上手く想像できなくなってしまいました。多くの人もそうだと思います。今この状況の中で《想像の方法》を言語化することは、この先の未来にリアリティを持たせ、人々を力づけるために重要だと思っています。

「想像」とは、「もし~だったら」「私が~するとしたら」という、自分を主語にして〈未来〉〈仮定〉の世界を思い浮かべることだとぼくは考えています。例えば、今日のうれしいニュースに、友人に子どもが生まれたことがありました。twitterで知ったとき、ぼくは嬉しいと感じると同時に自分の子どもが生まれるときのことを想像していました。「もし、自分の子どもが生まれるとしたらどんな気分だろうか」「私が出産に立ち会うとしたらどんな状況だろうか」と、〈仮定〉の世界を思い浮かべました。もちろんぼくに子どもはいませんし、その予定もありません。しかし、友人のtweetを〈手がかり〉にして、自分に置き換えて想像します。そしてそのとき、友人の幸福感や子どもが生まれて不思議だと思う気持ちに共感するとともに自分も子どもがほしいと思うのでした。

しかし、ぼくは子どもを持つということの何を、何故、知っているのでしょうか。知らないのに想像できる。これには「想像」の素材となる3種類の〈経験〉があるだろうと考えています。1つは、ドラマや映画で登場人物に子どもが生まれる場面を見るような〈メディアの経験〉です。もう1つは両親や子どもを持つ友人から子どもが生まれたときの話を聞くような〈伝聞の経験〉です。もう1つは、自分自身の幼少期のことを思い浮かべることです。これは〈体験の経験〉と呼べるかも知れません。(そしてぼくは、これらはすべて現実であると信じています。)別の言い方をすれば、この友人の子どもが無事に生まれて嬉しいことへの共感は、tweetをトリガーに、見たこと、聞いたこと、知っていることの〈経験〉をコラージュしてつくり出した自分についての〈仮定〉のイメージであると言えるでしょう。「想像すること」と「思い出すこと」は似ているけれどちがいます。思い出すことは、〈経験〉を確かめることです。想像することは新しいイメージをつくることです。〈経験〉を〈手がかり〉に、コラージュによって新しいイメージをつくる。これが想像の方法であると考えています。(そしてその後には、〈想像〉を現実にする方法という〈未来〉に関する問題が待っています。)

では、問いです。ここでは、〈経験〉が〈想像〉の素材となると書きましたが、〈経験〉がなければ〈想像〉は不可能なのでしょうか。「未曾有」という言葉を聞き慣れてしまいましたが、映画の中で見たような信じられない世界が現実になったとき、私たちはその信じられないことをいかに現実として想像することができるのでしょうか。

みなさんの《想像の方法》を教えてください。

2011年3月28日月曜日

問題19 リズムのつくり方

 今回は、前回の太田くんの問題「勝利の方程式」を引き継ぐテーマ設定にしたいと思います。タイトルは「リズムのつくり方」です。

 前回の問題では、「流れのつくり方」が話題になりました。いつもどおり、特に結論はついてませんが、実質的には蓮沼くんのコメントに議論が集約されていたと思います。つまり、「小さなこと/一歩を大事にすること」、そしてそれによって「問題をクリアにしていくこと」。

 ではその「小さな一歩」とは何か? 一人一人にとって具体的にどういう作業なのか? どうすれば「小さな一歩」を積み重ねて、「問題をクリアにしていくこと」ができるのか? それを「リズムのつくり方」という観点で捉えてみたいと思います。

 特に付言するまでもなく、今現在、リズムを崩しているひとは、ぼく自身を含めてたくさんいると思います。リズムを崩すことが必ずしも悪いことだとは思いません。ひとがリズムを崩すときは、やはり必要があって崩しているのだと思います。ただ、そろそろ自分のリズムを更新したいと思っているひとも多いのではないでしょうか。ひとのやり方を真似したからといって、すぐにいいリズムができるとは限らないでしょう。しかし、おそらく「どうすればリズムをつくれるのか」ということを他人と話し合うこと自体が、個々人にとってリズムをつくっていく作業そのものになるのではないか。そう考えています。

 というわけで、この問題提起自体がぼくの「リズムのつくり方」の「小さな一歩」です。ほかにもいくつか思い付くことはあります(「朝から家を出る」「日記を書く」など)が、それらの具体的な紹介(なぜそれをするか、どこがいいか)はコメント欄でするとして、まずは問題提起だけにしておきたいと思います。

 ひとが毎日の生活のなかで、どんな「小さな一歩」を積み重ねてリズムをつくっているのか、ぼくはとても興味があります。たぶん興味のあるひとは多いと思います。個々人のやり方を紹介し合いながら、お互いに「リズムのつくり方」のヒントを得たり、あるいは「リズム」なるものについての理解を深めることができればと思います。

 最近は太田、郷田、蓮沼、林だけでなく、臼井くんがコメントを書いてくれて、別の動きが出てきて、とても楽しく思っています。あらためて確認しておくと、このブログは原則として実名で参加してもらえればコメントは自由です。短い意見でも質問でも、ひっかかったひとは残してみてください。

 それでは今回もよろしくおねがいします。

林立騎

臼井くんがコメントを募集中

 この「くそ勉強」ブログでも何度か発言してくれているアーティスト・イン・児童館の臼井くんが、『アーティスト・イン・児童館 コンセプトブック』の原稿に関してコメントを募集しています

 すでに蓮沼くんはコメントしたようです。ぼくもします。

 「くそ勉強」ブログをご覧のみなさんもぜひどうぞ。

2011年3月22日火曜日

問題18 勝利の方程式

予定されていたスケジュールより1日投稿が遅れてしまって申し訳ございません。

勝利の方程式。今回はこれについて考えたいと思います。

自らの経験の中から得た勝利の方程式のようなものが、皆さんの中に何かしらあるのではないかと思います。手に入れた、あるいは作り上げた必勝法を、何か他のものに応用できるようになると、それは強力な武器になり得ます。
この勝利の方程式は、自らの経験の中から生まれている分、自身の中ではよく理解できていて、活用の仕方もよくわかっていますが、これを人に伝えようとするとなかなか難しい。表面的には理解してもらえても、本質的なところで理解してもらうのはそう簡単なものではないように感じます。
しかしながらこれを共有できると、武器を増やすことが出来て、戦闘能力が高まります。

そこでまず皆さんがどんな経験の中から、どんな勝利の方程式を手に入れたのか、そしてそれをどう活用しているのか具体的に聞かせていただきたいです。
武器の共有というような話は、このブログでも以前されていましたが、経験から生まれた貴重な勝利の方程式に的を絞って、その共有する方法について考えていきたいと思っています。

2011年3月4日金曜日

問題17 言葉に窮する問題

言葉に窮する、言い淀む、詰まる…などが会話の中で発生することがあります。
そのときの「言えない」理由が、勉強不足や関心の無さなら問題はありません。
なぜならダメージが無いからです。

痛いのは、切実で未分化の状態、また理解が及ばない上の断絶の場合です。
逃げても芸を駆使しても、相手にも自分にも通用しないことがあり、言葉にできていないことは、やはり「言えない」のです。そしてその傷は深い。

しかも!相手に「甘い考え」とか「覚悟がない」とか言われると無条件で腹がたったりします。
こちらは難しい問題で弱っているのだがら、勘弁してくれとも思います。
勉強会とブログ問題集をやっていくなかで「言葉に窮する問題」が何度か登場しました。
個人の切実な問題であるから触れないというのもありですが、「くそ勉強会」にはがんがん掘っていく精神が在ります。この問題提起は意味のあるものになればと思います!

しかし、ここで個人の問題に焦点を当てることはしません。解決には具体的な取り組みが必要でしょう。
ここでは「丈夫」になるためのアイデアを持ち寄って、議論ができたらと思うのです。

今後幾度と無く顔を出すであろう問題に対して、これは「言葉に窮する問題」であると認識し、管理するだけでも楽になるし、対処もしやすいでしょう。また問題の由来を分析し、それを他人にも伝える言語化をすると解決の前進になるはずです。
また「勉強会」というシステムが、難問題に対して何らか寄与できるはずです。私にとって勉強会は、現実と理想の間のプラットフォームのようなイメージです。

「丈夫」になるためのアイデアとして、私の例を出しますと、
言葉に窮するのは、必要がないからだと考えています。
言っても詰まらないことだからこそ、詰まってしまう…

それで実は、私はどもりなんです。
今でこそ少なくなりましたが、幼い頃はそれはもうヒドかった。
どもりって最初の発話ができなくて、同じ音を何度も痙攣のように出してしまう。
いま思い返すと…どもるのは、あまり言う必要のないときなんですね。
無理すると緊張して、どもってしまう。
どもって苦労して話したところで、内容の意味よりも、発話の運動に人の目は行ってしまうのでやるせない。しかし、言いたいことがあるときは、ま、なんとかなるのです。

困ったのは国語の音読などです。学校の授業で、順番に読むのには参りました。
やべーここは発話出来ないわーと先に分かってしまうのです。で巡って、私の順番になってしまう。発話出来ないもんは出来ないのだから、仕方なく、「先生、声が出ません」と申告するのです。
すると先生は不思議な顔になります。
なぜなら「先生、声が出ません」と声を出しているから。
あと、自分の名前とかは発話しにくい。あまり言う必要を感じていないのです。

そこで私のアイデアですが、「言葉に窮するのは、必要がないから」の、
必要を感じていない私の判断は適当かどうか考えてもいいのです。
しかし、必要を感じていないことを、信念を曲げてもいいのか?については
ぐにゃぐにゃに曲げていいと思います。私はなにより皆と共通して喋りたかった。
がらっと変えるくらいじゃないと、言葉に窮する問題は解決しないと思うのです。

まずはこんな始まりから。

2011年2月28日月曜日

問題16 拠点となるところ

今回は「拠点」について考えたいです。
実は、今回の問題集のテーマを考えていて、自分のいまの関心のテーマは「旅」や「移動」だったのでその話をふりたいと考えていました。しかし、場所の移動について考えているうちに、「自分の拠点」について気になりはじめました。なぜ「移動」や「旅」に惹かれるのか。そのことを考える前に、違う場所に行く前の「いまの場所」とはなんだろうかと思いました。旅や移動が、いま戻ってくる拠点が前提にあっての行動なのか、違う拠点を探してのことなのか、それはどちらもありえるでしょう。とにかく、いま自分がいる「拠点」というのがそれぞれあると思います。

私自身は、いま拠点となっているのはおそらく仕事で、そこを拠点としながら、勉強をしたり他のことを考えたりしている。勉強会も映像を撮ろうとするのも、仕事という拠点を中心に考える。そうすると時間とか体力とか考えて行動するようになることが弊害になったりすることもある。自然と自分の一番重点をおくものに寄り添って拠点はできていくのかもしれないけれど、複数の活動をひとつに絞るのは難しい。でも「拠点」のおきかた次第で、やれることの幅が拡がるかもしれないと考えます。場所でも時間でも工夫の余地がある。

「拠点」となるところ、作業場、家族、ネット、会社、学校、共同体、自宅の部屋、さまざまに考えられますが、今回はそれぞれの拠点についての考えを聞かせてください。いま自分にはこういう拠点がある、これからこんな拠点で活動したいと考える、ここを拠点にやると他の活動もうまくいくと思う、理想の拠点はこんなところ。などです。たとえば蓮沼くんはアトリエを借りて制作をしている、林くんはネットで発信をしている、太田くんも新たな拠点をつくろうとしている、そんなそれぞれの活動の具体的な実感も交えてほしいとおもいます。

2011年2月19日土曜日

お知らせ

「くそ勉強会」のお知らせ

日程:2011年2月21日(月)
時間:19:00〜
場所:水道アトリエ
発表者:臼井隆志、太田泰友、郷田真理子、蓮沼昌宏、林立騎

2011年2月18日金曜日

問題15 何を共有できるか

 いま、『シェア』という本をたいへん面白く読んでいます。

 ここ数年、世界中でさまざまな物・場所・人・技術を「シェア」する取り組みが起こっているそうです。いらなくなった服の交換、自動車や自転車の共有、工具を揃えた作業スペースの共有など、具体的な事例が本の中で無数に報告されています。わたし自身に身近なところで言えば、ツイッターも情報のシェアとして捉えることができるし、このブログのコンセプトも意見交換を小さな輪で閉じるのではなく、より広く「シェア」することでアイディアを発展させていこうというものでした。

 21世紀になって人類が飛躍的に善良になったということは考えられません。たしかに環境問題や食の安全に対する関心は高まっていて、それが「信頼できる範囲でのシェア」を促している面はあると思いますが、おもに「シェア」を支えているのは思想ではなく技術でしょう。つまり、これまでであればシェアしたいと思う人がいてもそのための「コスト」(金銭的、時間的、心理的コスト)が高すぎてシェアできなかったことが、今では情報技術(ネット環境や携帯デバイス)の発達によってその「コスト」が劇的に下がり、人々がごく自然にシェアを始められるようになった、ということです。ここまでは前提。

 もう一つのポイントは「近さ」だと思います。これも「善良さ」とはあまり関係のないことです。どういうことかと言うと、私見では、ひとは「どのみちもともとやろうと思っていたこと」に関して、特にシェアへと動いていきます。どのみち赤ちゃんの服は誰かにあげようと思っていた→それならネットでほしがるひとにあげよう、とか、どのみち作業スペースが必要だと思っていた→それならひとと共同で使おう、とか、どのみちバカンス中は誰かに家を貸そうと思っていた→それなら世界中の旅行者に利用してもらおう、とか、そういうことです。「もう一歩」進むことができるのは、身近なことに関してのみです。いくら高尚な思想でも、それが「遠い」ものならひとを動かすことはできません。

 この本を読み始める一ヶ月くらい前から、わたしは自分がネットでしている情報収集の一部をツイッターで発信し始めていました。それは「これを役立ててほしい」とかそういうことよりも(そうした気持ちが全くないわけではないですが)、どのみち情報収集はするし、しかもたまたまReederという非常に便利なアプリケーションを知ってまさに「コスト」(時間的・心理的コスト)が著しく下がった時期だったので、「発信してもしなくてもほとんど変わらない→じゃあ発信したほうが自分にも他人にも利益がありそうだ」ということで始めたのでした。これは先日の「問題13」のあとの議論とも関係していて、「たくさん映画を観てきたのだから映画評をネット上でアップしてほしい。あなたの知見をシェアさせてほしい」と言っても、相手がもともと映画評を書いていないのであれば、その一歩を踏み出すことに対するコストはとても大きく、いくら「シェア」のコストが低くてもそう簡単ではないのかもしれません。

 長くなってすみません。こうした「シェア」の現状とそれに対するわたしの意見を前提として、まず、1)「シェア」にどのような可能性を認めるか/認めないか、さらに、2)どのようなものをシェアしたいか、これについては、2−1)「シェアさせてほしい」という他人に対する欲望/必要と、2−2)「シェアしてもらってかまわない」という自分の能力/習慣/所有物の両面で議論できればいいと思います。2に関してはわたしもさらに書きたいことがありますが、長くなったのでこのあたりまでを問題提起として、あとは議論で続けていきたいと思います。よろしくお願いします。

林立騎

2011年2月14日月曜日

問題14 肩書きをどうするか

名刺等、自分を紹介するときに必ずといっていいほど付きまとう「肩書き」。
自分のことを他所で誰かが紹介してくれるときにも必要になってきます。
またネットワーク上で、自分をどう名乗るかは重要なポイントだと考えられます。
(一方で、肩書きなんて必要ないという意見もあるかと思います。)

そこで今回は、肩書きを考えてみたいと思います。今まで使ってきた肩書きを見直してみませんか?
まず、現在の肩書きを教えてください。そして肩書きを通して得た経験があれば教えてください。
そこから自己を紹介することについて発展させていき、新たな肩書きが必要となれば考えていく場にしたいと思います。

私は、学生ですが、「編集者」という肩書きを使っていました。
が、最近、新たな肩書きを自身に装着しました。それは、private press planner です。
では皆さん、よろしくお願いします。

スティーブ・ジョブス

スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞

2011年2月11日金曜日

問題13 素材と付き合う技術

『問題9素材の欲望』では様々なヒントを持ったコメントが提出されました。
「素材と出会って初めて、欲望が生まれるのではないか」という仮説のもと、あなたにとっての素材を発表してもらいました。そのコメントの中で一番の収穫は「わからないが惹かれる」という共通ではないでしょうか。例を挙げると…

「わたしがハインリヒ・フォン・クライストの作品を好むのは、意味不明でわからないからです」(林君)
「人も環境も生活も、未体験の領域は非常に刺激的なものなんだと実感しました」(太田君)
「自分とはまったく違うものなのになぜか惹かれる気になる」(郷田さん)
「公園に住まう鳩の群れにいつも変な気持ちを抱いていたのです」(蓮沼)

これらのコメントで説明される素材とは「意味不明」で「自分とはまったく違うもの」で「未体験の領域」で「変な気持ち」を抱いています。ここで共通して言えそうなのは、正体が分からない、だからこそ惹かれる素材なのだ、ということではないでしょうか。クラスの気になる子は恋愛対象になりえますが、その逆は恋愛対象にはなりえない…と。お付き合いしたいという欲求は、相手を知りたいがため。では何を知りたいのか、実はそれが問題だと思うのです。ただし、そこへ行き着くまでは時間がかかります。

「素材と出会う」のステップは経過したとします。
次のステップは、どうやってその素材と付き合っていくかです。
付き合うというのは=時間がかかるようです。

あの万有引力の法則を発見したニュートンさんは「りんごは落ちるのに、なぜ月は落ちないのか」と疑問に思ったそうです。これは始まりの素材との出会いです。それにしても「月」と「リンゴ」を同列して疑問に思うこと自体が凄まじいですね。そこから、考え続けて/付き合い続けて、月は落ち続けていることを発見したのです。リンゴと同様に落ち続けているが、地球も円運動をし続けているので、いつまで経っても落ちてこないのだ。と、知り得たのです。すごい話です。

出会った時、素材は素材に過ぎません。
ものにするためには、知り得るためには、付き合わないとならないようです。
そこで素材と付き合う術を持っているなら、それぞれの専門立場から意見交換しませんか。
ものにするためには、どんな技術を用いていますか?
専門性ゆえ容易には真似できないまでも、技にこめられた秘密に触れるだけで良い触媒になり得るのではないでしょうか。

まず、私から披露しますと、それは“ものをよく見続ける”ことです。
私は絵画を専門にしています。絵を描くということは対象をよく観察する必要があります。
そして精密に描写するなら数時間を要します。
まず普段の生活で、同じ素材(モチーフ)を何時間も観るなんてことないでしょう。
しかもそれを紙に記録していく。そんな過程をずっと過ごしていくと、ある瞬間、ものがよく見えるようになるのです。素材の細かいところまでピントがあって、まざまざとした質感を伴って見えてくるのです。この体験に比べたら普段のものを見るというのは、記号的に見ているに過ぎません。
ガラスのビンという記号的にモノを見る場合と、素材の質感をまざまざと感じながらビンという意味を再構築して見る場合は、報酬の度合いが異なります。このようにして見て描いた場合は、作品としてもいい結果を持ちます。

この技術のいいところは、じっくりと見ることで、観念的に見ている素材を一度解体させることです。なにか不思議な素材があるとしたら、何時間もそれを見ることで、その不思議さの秘密を知り得ることができるかもしれません。

こんな具合で、あなたの素材との付き合う術があれば、聞かせてください。

2011年2月7日月曜日

問題12 歴史の勉強

先日から毎日エジプトの報道を追っていて、遠く日本に住む私ですが、なにか変わるときの振動を感じていました。地球規模ではおなじ人間として、興奮が伝わってきて、ぞくぞくとしていました。

それで、こんどこそ歴史を勉強したいと思いました。
今回は、歴史の勉強のすすめかたをみなさんに相談したいです。
どんなふうにしたら、知識だけでなく、今生きてる世界に繋げられるか、楽しく勉強できるか知恵を貸してください。

歴史といっても幅広いのですが、世界史、それから日本史(とくに近現代史)を勉強しようと思ってます。前にも世界史を勉強しようと思って、高校生の教科書を読み始めたのですが、言葉の知識だけで、流れとかを感じられなかった。きっと自分が本気で必要としないとだめなのです。
今まで歴史を、自分を介して得ることができたと感じたのは、旅先の国でその場所にいたとき。衝撃をうけた作品、絵や小説や映画の世界をもっと知ろうとしたとき。そんなときはいまの自分の世界と、歴史と、場所とが近づき、なるほど!!という興奮を得ます。

しかしそうそう旅行して現地に行けるわけではないので、そんな経験を踏まえて、歴史の勉強の仕方を少し考えてみました。
1.英語の勉強と対応させる。(文章や英語の歴史の本などを参照する)
2.人に対して授業をする。(絵や映画をつかって自分の視点をからめる)
3.ニュースで気になったものから、深く知っていく。
4.歴史や場所をテーマにした架空の小説(またはシナリオ)を書く。
5.その時代のひとの「声」から資料をあつめ、想像する。(4と対応)

などです。

みなさんは歴史を勉強するとなったら、どんなふうに勉強するでしょうか?
または、もっと効率よくできるものなのでしょうか?
漠然と方法を考えていましたが、できれば、「テーマの絞り方」や「切り口」の点でも、意見ももらえたらうれしいです。



2011年2月4日金曜日

問題11 何か困っていませんか

 先ほど帰国の機上で映画「ソーシャル・ネットワーク」を見ました。感じるところの多い映画で、今日見られてよかったです。

 フェースブックの発端は私的な問題の解決にありました。私的な興味の発展が今のエジプトにまでつながる数億人規模のネットワークをつくりだし、公的な領域での影響力を拡大しています。

 私的で具体的な問題に解決策を与えること。しかもそれを自分だけが享受できるようにするのではなく、「ついでに」他の人にも役立つ形にして公開・共有すること。それが一つのポイントです。(また、アイディアと技術が同一人物の中に共存することという、同様に大事な第二のポイントを感じましたが、それはまたいつか扱います。)私的な問題の解決をシェアする(=公共化する)インフラが準備されたことで、私的/公的という境界線はますます見直しを求められていると思います。

 そこで、今回はやや趣向を変えて、解決したい私的問題をシェアしてみたい。ベタベタした「わたし」の問題を開陳するのではなく、いつもの議論のように理論的なものともやや異なる、ひとに相談し共有したら何かいいアイディアが出てくるかもしれない現実的問題を提起してみましょう。そしてそれぞれ何か意見・アドバイス・提案できるようなことがあれば、それをコメントしあいたいと思います。

 まずはわたしからいくつか。

1)妊婦に対する失業保険制度にとても困っています。妊娠が理由で退職した場合、失業保険が給付されるのは出産が済んで6ヶ月後からだそうです。つまり、妊娠6ヶ月で退職したとすると、退職から1年ほどは失業保険の給付を受けられません。失業保険が「求職中かつ就業能力のある失業者に対する保険給付」であるというのがその理由のようですが、わたしに言わせれば「職を離れて経済的困難にある者を支援すること」が本来の趣旨であるべきです。にもかかわらず、妊娠・出差期間という普段よりも(あるいは「普通の失業者」よりも)さらに多くの経済的負担を強いられる場合に、よりによってまったく支援を受けられない。これは大変おかしなことと思い、とても困っています。ただし、制度を変えたとしても困難は残ります。というのも、失業保険受給者は毎月管轄の部署に手続きに行かなければいけないのですが、例えば里帰り出産の場合、出産の前後2〜3ヶ月を郷里で過ごすため、手続きに出向くこともできないわけです。これには大変困っています。

2)引越しが困難です。「ソーシャル・ネットワーク」を見ていても感じたけれど、何かアイディアやプロジェクトを思いついたときに友人や相談相手が近くにいるというのはとても大切で、今からでもそういう環境をもちたいと思います。しかし「東京」と呼ばれる地域は広すぎるし、敷金礼金といったシステムも含め引越しにはかなりのお金がかかる。それでも「環境」をいかに整えるかはやはり重視したい。もしかしたらこの「東京」で物理的な近さを求めるのは最初から諦めて、インターネット等を使った別の「近さ」の構築により注力すべきなのかな、とも思います。とはいえ、4月に子供が生まれたら子育ても手伝ってほしいので(実際親族が近くにいないのだからその方向しかないと思う)、物理的な近さも必要なのですが…。現実的な問題です。

3)文房具をつくることってできるのでしょうか?

 「私的問題」の紹介と、他の人の問題への意見は分けて書きこんでくれたらいいと思います。

 今回はいつもより気軽にやりましょう! 単純な問題、思いつき、半分冗談、なんでもいいと思います。

2011年1月31日月曜日

問題10 集団とどう付き合うか

集団とどう付き合うか。
「集団」といってもいろいろとありますが、
今回は、勉強会のようなものを取り上げたいです。
勉強会・・・、これもいろいろありますが、
ゼミなんかもその一つでしょう。

勉強会では、特定のテーマや方向性を持った人々が集まって、
報告をしたり、討論をしたりします。
勉強会には、メリットもデメリットもあるでしょう。
また、個があってこそ成り立つものであったりもするでしょう。
勉強会とどう付き合えば、充実した成果が得られるでしょうか?

そこで、皆さんが考える勉強会のメリットとデメリット、
そして具体的な勉強会との付き合い方における成功談や失敗談があれば教えてください。

私は、大学内のゼミに所属しています。
ゼミでは様々なタイプの人と共存していますが、
モチベーションや目的意識の差によっては、
「ゼミ」という形がうまく機能しないことがあると感じていました。
そこで、どのようにゼミと付き合えばより充実した時間を過ごせるのか、
こんなことを考えるに至ったのです。

2011年1月28日金曜日

問題9 素材の欲望

今回は素材と欲望について考えていきたいです。
私はつい先日、美術作品をつくろう!と思い立ったのですが、同時に妙な気持ちになりました。
それは形式的な「作品をつくる」という欲望が先立っていて、本当につくりたいのかと自問自答したときに、何に依って考えたらいいかわからなくなったからです。しまいには、つくりたい欲望はそこまでない!と気づきました。

順序がおかしかったかなと分析したときに、「欲望とは素材と出会って生まれる」のではないかと思いついたのです。
なにかひっかかる風景を見つけたので、それが何かを捉えたいがために絵を描く、という流れが私には好ましく思えるのです。世界の構造はどうなっているのかを絵画の手段を用いて解明してみたら、遠近法という一点から世界が始まる発見があったように。
たくさんの作品群、形式的な決まり、画家という職業、これらが先例として豊富にあるので、ついつい流れてしまうのです。
そのため、この問題集を使って、素材と欲望について考えることで、さらなる自分のブラッシュアップを図ろうと思います。
つきましてはみなさんの、具体的な事例を聞かせてくれたらと思います。

で、なんの事例かと言いますと…どんな素材を持っているかです。
素材とは料理人にとっては野菜やお肉、映画監督にとっては脚本と役者、画家にとっては人物や風景、翻訳家にとっては外国の小説、編集者にとっては作家…などなど、もとになる材料です。いまの説明も形式的な立ち位置から見た素材でしたね。
今回強調したいのは、恋愛をしたいから可愛い子を探すのではなく、あっ!と驚く可愛い子に遭遇してしまったためにお付き合いしたい!と欲望を持つ方の流れです。

私の例で言えば、公園に住まう鳩の群れにいつも変な気持ちを抱いていたのです。鳥だけに浮世離れしているが、やけに土着的だ…アイツらなんかオカシイと思っている最中に、当時好きな子に「鳩ってオカシイね」と告げられたことが契機となって(やっぱ何かあるぜ)、私の中でいろいろ繋がって、鳩が素材として遭遇するにいたったのです。そして、鳩を密着取材したいと欲望を持つようになり、ときには捕獲したり、絵を描いたり、付き合うことになりました。私にとって素材とは、不思議さ奇妙さの質感を捉えたい欲望に基づいてあるようです。

議論というか、まずは発表として、みなさんの素材話があれば聞かせてください。
そして、あなたにとっての素材とは何であるか。

2011年1月24日月曜日

問題8 3D から考える

3D映像が流行っています。

3D映画に始まり、テレビ、家庭用ビデオカメラ、ニンテンドーDS、携帯電話などの商品がぞくぞくと作られています。大流行というわけではないかもしれませんが、家庭用にというのが目を引きます。近年になってどっと3D映像が身近な技術として売りだされているのはどうしてなのでしょう?

3Dの歴史は古く、18世紀のファンタスマゴリアや、立体写真の流行など、人々は昔からそれに親しんでいたわけだけれど、いままでは娯楽のひとつ、驚きの見世物という特別なものでした。映画史上でも3D映画は何度か試みられていますが(リュミエール兄弟やヒッチコックも3D映画をつくっていた)、現れては消えていったのも、これまでの映画を刷新するほどではなく、新しい技術、見せ方のひとつにとどまっていたからでしょう。
しかしそれ以上に続かなかった一番の理由は、目が疲れて耐えられないというのと、それほど必然がなかったことだと思います。

3D映像は、今の時点では「身体の機能を制限する」ことで成り立つ技術です。眼鏡のあるなしにかかわらず視線の角度や姿勢などを拘束し、身体は自由ではありません。
こちらを動けない状態にするという代償によって、動きのある立体の「像」を得る。
わたしはインターネットと少し似ていると思いました。ネットでも画面の前にいることが条件で操作する体の状態はある程度拘束されますが、その先に広がるものは全世界であり、そこで活動(仕事)する自分の「分身」が存在しています。実の身体を伴ってはいないものの、実感としてはかなり自分に近いものになってきています。
『アバター』で描かれていたような「分身」、自分の身体の一部と引換にしたもうひとつの「実体」です。そうした生活の変化が3Dへの抵抗感をなくしたのではないかと考えました。

しかしそれでも身近に扱える商品となって、今後の生活を可能性を秘めているのか?
いまはそこまで想像できず、やはり疲れそうと思ってしまいます。

みなさんは3Dは今後スタンダードな技術になると思いますか?
3Dに関心がなくても、ネット上での活動と自分自身の体そのもの(疲労とか現実に向き合える時間とか)の関係について考えてみたことはあるでしょうか?

もっとひろく技術と身体の折り合いで可能になることの話でもかまいません。





2011年1月14日金曜日

問題7 移動中の時間は何をすべきか

 目的地に向かって電車に乗る。まわりを見渡すと、眠っている人や音楽を聞いている人、本を読んでいる人・・・と色々な人がいます。が、何だかそれも見慣れたものばかりの気がします。電車の中では、優先席があったり、女性専用車があったり、あるいは携帯電話はマナーモードにして通話は控えるというルールがあったりと、何かと制限もあります。

 移動というのは、ほぼ毎日付き纏うもので、個人差はあるにせよ、かなりの時間を移動に使っているかと思います。この移動の時間を効率よく使うことで、何か変わってくるのではないかと思うのです。

 そこで今回は移動中の時間の使い方を考えてみたいです。まずは、普段、移動中は何を考え、どう過ごしているか聞かせてください。また、移動中に感じる問題意識もあれば、ぜひ教えていただきたいです。問題意識の中から、移動中の時間を有効に使う方法を見出して、さらにそれを実践していければと思っています。よろしくお願いします。

* 問題7では、問題の議論から実践まで含めたいと考えています。

* 林さんは今、私たちが普段体験できない環境にいらっしゃるので、それも議論に加味していただきたいです。

2011年1月10日月曜日

問題6 編集(の)可能性とは何か

 前回の問題(の一部分)を転回させる議論にしたいと思います。

 議題は「編集」です。前回の議論で、蓮沼くんは映画体験を原則として編集可能なものと捉えていたように思う。つまり、自分の映画体験をつくるのは自分でしかないのだから、寝てもいいし一部を見て満足してもいい、というように。経験は客観的なものではない。自分の経験を編集するのは自分である。

 ぼくは映画と社会の関係を編集可能なものとして捉えました。つまり、今後も変更しうるものとして。社会における映画の存在様態は絶対的なものではない。社会を編集するのは社会の成員である。

 ところで、太田くんは編集者です。ゴーダは映画を撮るなら編集もすることになるでしょう。蓮沼くんは本づくりの経験があったり、記録写真という「編集」の仕事をしています。みんな編集に関わっている。

 そこでまずはざっくり聞きたい。1)あなたにとって「編集」とはどのようなものであるか(どういう作業か、何が重要か等々、答え方自由)。そして、2)あなたの「編集」に対する考え方を、あなたの専門領域以外でも役立つ態度に転化することは可能か。可能だとすれば、それはどのようなものになるか。

 「編集」や「カスタマイズ」によって「わたし」を複数化し、「わたし」の「時間」を複数化することが重要だとぼくは主張している(「時間の複数化」および「軽さについて」)のですが、そのとき「編集」と言ったり「カスタマイズ」と言ったり「デザイン」と言ったりして、わりと適当に言葉を使ってきました。自分の考えをブラッシュアップするためにも、ここで「編集」について議論できればと思います。「編集」の可能性とは何か、あるいは物事の「編集可能性」とは何か。ぼく自身も問題意識が曖昧ですが、議論していく中で明確にしていきたいと思います。

2011年1月7日金曜日

問題5 映画はなぜ120分なのか

映画の上映時間は、120分前後が圧倒的に多いです。
どうしてなんでしょう。
私は予告が好きで、動画サイトでよく見ます。その映画の魅力はときに予告編の方がよく表現されていると思うときがあります。

ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール・ソシアリスム』の予告編は、実際に上映される102分を数分に早送りにしたものです。
先日、『ゴダール・ソシアリスム』を映画館で見た際、40分くらい寝てしまいました。
しかし、充分に満足する内容でした。

私は疑問に思うのです。
映画の2時間は長い。 
もっと短くてもいいのではないでしょうか?

2011年1月4日火曜日

問題4 目について

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

今年は身体中心の生活のリズムをつくっていきたいです。
身体を軽くして、フットワークよく動きたいです。

なので今年最初の問題は、健康について、とりわけ目についてです。
わたしたちは、本当によく目を使います。
仕事でもその他の時間もモニターを見ている時間が多い人はたくさんいると思います。
また、レーサーの動体視力とまでいかないまでも、情報をいかに早く読み取れるかどうかは、個々人の視覚の能力が少なからず影響しているでしょう。

目が疲れていると全身が疲れる。毎日だるく感じます。
反対に目が元気なことは、仕事がよくできること。
とにかく何につけても目に頼ることが圧倒的に多い。
目をすこやかに保つことは、いろいろ動く上で最重要課題ではないかと思います。

身体のリズムをつくること、と初めに書きましたが、「外部の刺激(モニターなど)と目」、「身体と目」の関係に解決法を見いだせないかなと考えています。
どうでしょう・・・

「刺激と目」に関しては、さまざまなモニター機器(電子書籍やスマートフォン、パソコン、TV・・・)が普及するにつれて、目の健康を科学する人がさまざまに研究を重ねていると思いますが、より重要なポイントになってくると思います。

ちなみに私自身は視力が非常に悪く乱視で、コンタクトレンズなしでは生活できません。
視力がいい人にとって、こうした問題は問題にならないのか、それも気になっています。

そこで、まずは皆さんの(モニターを見る時間が多いと見越して)目との付き合い方をきかせてほしいです。さらに目を快適に生活するにはどうしたらいいのか。
結構大事な問題だと思います。