新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年は身体中心の生活のリズムをつくっていきたいです。
身体を軽くして、フットワークよく動きたいです。
なので今年最初の問題は、健康について、とりわけ目についてです。
わたしたちは、本当によく目を使います。
仕事でもその他の時間もモニターを見ている時間が多い人はたくさんいると思います。
また、レーサーの動体視力とまでいかないまでも、情報をいかに早く読み取れるかどうかは、個々人の視覚の能力が少なからず影響しているでしょう。
目が疲れていると全身が疲れる。毎日だるく感じます。
反対に目が元気なことは、仕事がよくできること。
とにかく何につけても目に頼ることが圧倒的に多い。
目をすこやかに保つことは、いろいろ動く上で最重要課題ではないかと思います。
身体のリズムをつくること、と初めに書きましたが、「外部の刺激(モニターなど)と目」、「身体と目」の関係に解決法を見いだせないかなと考えています。
どうでしょう・・・
「刺激と目」に関しては、さまざまなモニター機器(電子書籍やスマートフォン、パソコン、TV・・・)が普及するにつれて、目の健康を科学する人がさまざまに研究を重ねていると思いますが、より重要なポイントになってくると思います。
ちなみに私自身は視力が非常に悪く乱視で、コンタクトレンズなしでは生活できません。
視力がいい人にとって、こうした問題は問題にならないのか、それも気になっています。
そこで、まずは皆さんの(モニターを見る時間が多いと見越して)目との付き合い方をきかせてほしいです。さらに目を快適に生活するにはどうしたらいいのか。
結構大事な問題だと思います。
今回もあまり問いの意味がわからないけど、ひとまず思ったことを答えます。(ちなみに、議題が曖昧になるのは「〜について」という漠然としたタイトルのせいでもあると思う。)
返信削除先日からの「時間の複数化」の話(http://tatsukihayashi.blogspot.com/2010/12/1_06.html)とも関係しますが、わたしは時間だけでなく空間を複数化することも大切だと考えています。また、それら二つはかなり近いことだと思ってもいます。
どういうことかというと、個人的には、同じ作業をするときでも、一日中家にこもるより、午前中を家で過ごしたら午後はカフェで過ごすとか、家とカフェと図書館をはしごするとか、複数の空間を渡り歩いてその都度短い時間を過ごす方が集中できるということです(誰にでもあてはまりはしないでしょう)。
それと同じように、目の使い方に関しても、パソコンばかりだといつの間にか思考回路がまわらなくなる、しかし本だけだといつか眠くなる、テレビは眠くならないけどだらだらしてしまう、などなど、目とメディアの関係はそれぞれ異なるので、それらの組み合わせ方を工夫し最適化することが必要だと思います。目はひとつの機能しか果たさないわけではないので、目の使用法を編集しカスタマイズすることができると思います。
目の使い方の複数化が重要なのは、目を能動的に使うためです。現代において、目は、刺激を受けるためというよりも、必要な情報をすばやく探す能動的な器官として重要になっています。目を能動的に働かせるためには、目を惰性で動かしてはならない。目を惰性で動かさないためには、目に常に同じ活動をさせず、能動と受動のリズムをつくって、とりわけ能動的に働くときにきちんと機能するよう、環境を整えてあげることが大事だと思います。
というわけで、わたしの「目との付き合い方」は、目をできるだけアクティブに使えるような環境(リズム)を整える、ということです。その際には目だけでなくからだ全部を移動させることが重要になります。パソコンを持たないで外に出るとか、テレビのない部屋に行くとか。
私は、目の快適さを気にしながら生活(あるいは仕事)をするということをあまりしたことがありません。目が疲れるというようなことをあまり感じたことがないからです。(もしかしたら、そんなに集中したことがないのか・・・)
返信削除しかし、目を、もう少し厳密に言うと目を通して見る景色の見え方を、自分の体のコンディションを測る指標にしています。
コンディションが良くないとき(多くの場合空腹なのですが、時に貧血だったりもします)、景色がぼやけて見えたり、視野の端っこで花びらのようなものが舞うように見えます。こういった現象が起きると、「今はコンディションが良くない」と判断して、回復を図ります。
反対に、景色がくっきりと見えるときは、「今日は調子がいい」と認識して、精神面からも自身を盛り上げアクティブに活動します。
僕の目との付き合い方はこんな感じです。
パソコンや携帯といったモニターが生活の道具になった人生において、目とどう付き合っていくか対策を持つべきだ!ということだよね。
返信削除それで僕は対策やケアをまったくしていない。
視力がいいわけではないけど、日常生活で困る機会が少ないため、ケアをする発想に至らない。
そういえば先日、好奇心で「蒸気でホットアイマスク」という商品を買ってみた。しかし、指定された10分の間アイマスクするのに飽きてしまって、すぐに止めてしまった。
つまり思っていたような刺激が味わえなくて、ケアのために10分もしている必要も感じなかったのです。
ケア以外で、目との付き合いを意識していることは「レンズの味わい」です。レンズってしみじみ味わい甲斐があると思うのです。光がレンズガラスを通過する、その道すがらに思いを寄せる。世の中にはたくさんのカメラレンズがあるじゃないですか。同じカメラでもレンズを換えると描写力や明るさなど特徴が違うので異なる見え方をします。映画に用いられるレンズはキレイで感嘆しますし、安物のレンズでも、そいつならではの良い風合いを感じることもあります。そういった、たくさんのカメラレンズの味わいを覚え、その上で自分のレンズを楽しむ…。私の目(レンズ)の付き合いはこんな感じです。
そう、私自身はこれからの生活、目の使い方の対策をしなければやっていけないと感じたので、目とどう付き合っているか問うたのでした。私は夕方過ぎると目が疲れて痛くなってくるのですが、長時間同じ場所で、同じものを集中して見ているために、目の運動ができていないのが原因かもしれない。目の環境をさまざまに変え、いろんなものを見ることは対策になりそうです。
返信削除目の役割をカメラのレンズで考えてみるのはとてもしっくりします。目も水晶体でレンズだから、目を活性化して健康にしておくことはレンズの精度やフォーカスを保つことともいえる。レンズだからこそ、使い方によってカスタマイズできる。
ものを見るとき、よく「フィルターを通して見る」という言い方をよくするけど、レンズというのはもっとカメラの本体、身体の中で剥がせない部分(つまり目)という感じがする。(そしてフィルターは時として「手法」とか「概念」とかともいえるのかな?)
レンズが光を通って像を伝えること、私にとってはそれは映画館のイマージと直結します。
目の時間と空間を制限し固定した状態をつくり、カメラのレンズ、制作者のフィルターごしの映像を各自のレンズで複数に体験させることが、映画館の役割のひとつとしてありそうです。現在さまざまなメディアやモニタがあるからこそ、よけいに映画館の空間と時間の中で、目(耳)から入ってくる体験が際立つ。
「目とメディア」から時間や空間を考えていて、映画の『マイノリティ・リポート』を思い出しました。映画の中で情報が目に見えて質感をもったものとして浮かんでいたり、目を交換して別人になったりするのですが、物理的な目そのものの役割と、さらに見ることと情報の編集のかけひきが繰り返されます。そんな中で本物を見極め、生き残るために必要なのは、全身の感覚でありました。
話がずいぶん飛んでしまいましたが、目を必要とするメディアには、目だけでなく体で対応しないといけないと思いました。
これで今回は終わり?
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