2011年4月25日月曜日

問題23 寝ること

おそらく人間は皆、一日の終わりに寝て、起きて、また新しい一日を迎えます。
生活におけるリズムを取っている重要な行為だと考えられます。
「問題19 リズムのつくり方」、「問題22 人生を楽しくする十ヶ条」ともつながってくる部分があるかもしれませんが、今回は「寝ること」について考えていきます。

「寝る」といっても、寝方にはいろいろあります。時間、回数、質、環境……。
寝方によって、体調への影響が変わってきたり、気分が変わったりし、寝る前後で変化が起きます。この「寝る」という行為をある程度コントロールすることで、自分の作りたいリズムや状態を手に入れることができると思います。

そこで、「寝る」ことについて、どのような工夫をしてその行為と付き合っているか発表し合って、それを共有することで、睡眠ともっとうまく付き合っていく方法を模索していきたいです。

まず、皆さんが「寝る」こととどのように付き合っているかを聞かせてください。

2011年4月18日月曜日

問題22 人生を楽しくする十ヶ条

「人生を楽しくする十ヶ条」とは幸せを得るための「工夫」です。

世界が大変なときでも、困難な状況下でも私たちは日常を送り続けます。
その日常に作用する「幸せになる工夫」は私たちを助けるはずです。

例えば批評家の小林秀雄は、午後になると一切の水分を絶つそうです。
それは大好きな晩酌をより楽しむための工夫です。
体をからからの状態にしておくことで、お酒をより美味しく楽しく味わったのです。
これは信念や思想とは違って、些細な話かもしれません。
しかしこの工夫を隅々に張り巡らせることで、日常はより送りやすく、よく生きやすくなるのではないでしょうか。
この問題にはまず日常というベースをしっかり送ろうという意図があります。

あなたの「十ヶ条」を教えてください。
ともあれ、まず10個!
そしてシェアしましょう。

2011年4月11日月曜日

問題21

考えています。

しばらくおまちください。

よろしくおねがいします。

・・・・・・


415日。(ふたりのコメントをもらってから追加しました)

問題をだそうとずっと考えているのだけど、悩んで5日もたってしまいました。
時間があきすぎてしまって、ごめんなさい。

わたしは地震以来、どうしても地震と原発のニュースばっかり気になってしまい、それにとらわれてしまっています。リズムの不調もそれだけのせいじゃないはずなのに、なんだかごっちゃになっていて、そしたらもともとあった大事に育くまれていた(?)自分の問題が、息を潜め始めて、声を殺すようになってきました。

ところでいま、なんだか体になじめないのは、いままでは個人的な問題や関心からものごとを考えられていたのが、大きな日本のかかえる問題がまるで自分の問題になってしまったこと。とうてい個人でかかえられるレベルでない大きな問題を、自分にかかってる問題のごとく気負っている、もしくは背負った気分になっていること。

こう書くと、自分でもちょっとおおげさすぎる気もするのですが、
それでも、この毎日で確かなのは、時間があっという間に過ぎ去るほど夢中であるということで、これはちょっとすごいことだと思う。

実は、この途方もない気分になる状況が、自分の問題ということでいいのか、
それとも、やっぱりまずは自分のリズムをたてなおしたほうがいいのか?

それにはどっちがいいという答えもないと思うけれど、体になじめないことを続けることは、やっぱりむずかしい。おかしなリズムだけになるのはきつい。

大事なことは、自分に密接した問題から、大きな問題ともつきあってくことだと思う。
でも、どうしてそれが単純にできないのかな?っていうことを問題として考えたいです。


ところで、そもそもの自分の問題ってなんだろう?ということもはっきりしてないね。わたしにとって自分に密接した問題は「リズムのつくり方」である気がします。しかし「リズムのつくり方」が、自分の中だけで解決する問題だと思っているわけではないです。だからこそ一緒にすすめていきたいなあと思いました。それから「想像の方法」について考えることも、とても大事な気がしているのでそっちも・・・。

なにが問題にしたいのかあいまいかもしれないけど(タイトルが思い浮かばない・・・)、みんながいまの状況をどんなふうに考えてるのかも聞いてみたいし、まず、ここまで書いてみます。

よろしくおねがいします。

2011年4月6日水曜日

問題20 想像の方法


渡ったことのない橋 まだ降りたことのないあの駅
聴いたことのないビート そして会ったことない人々
        (「5 cups」スチャダラパー/con10po)

知らない場所・時間・人。これらのものをぼくたちはどうやって想像しているのでしょうか。知らないものと自分との関係を想像する方法にぼくは興味があります。3.11を経験し、ぼくは、被災地や避難所生活のこと、この先の自分の生活のことを上手く想像できなくなってしまいました。多くの人もそうだと思います。今この状況の中で《想像の方法》を言語化することは、この先の未来にリアリティを持たせ、人々を力づけるために重要だと思っています。

「想像」とは、「もし~だったら」「私が~するとしたら」という、自分を主語にして〈未来〉〈仮定〉の世界を思い浮かべることだとぼくは考えています。例えば、今日のうれしいニュースに、友人に子どもが生まれたことがありました。twitterで知ったとき、ぼくは嬉しいと感じると同時に自分の子どもが生まれるときのことを想像していました。「もし、自分の子どもが生まれるとしたらどんな気分だろうか」「私が出産に立ち会うとしたらどんな状況だろうか」と、〈仮定〉の世界を思い浮かべました。もちろんぼくに子どもはいませんし、その予定もありません。しかし、友人のtweetを〈手がかり〉にして、自分に置き換えて想像します。そしてそのとき、友人の幸福感や子どもが生まれて不思議だと思う気持ちに共感するとともに自分も子どもがほしいと思うのでした。

しかし、ぼくは子どもを持つということの何を、何故、知っているのでしょうか。知らないのに想像できる。これには「想像」の素材となる3種類の〈経験〉があるだろうと考えています。1つは、ドラマや映画で登場人物に子どもが生まれる場面を見るような〈メディアの経験〉です。もう1つは両親や子どもを持つ友人から子どもが生まれたときの話を聞くような〈伝聞の経験〉です。もう1つは、自分自身の幼少期のことを思い浮かべることです。これは〈体験の経験〉と呼べるかも知れません。(そしてぼくは、これらはすべて現実であると信じています。)別の言い方をすれば、この友人の子どもが無事に生まれて嬉しいことへの共感は、tweetをトリガーに、見たこと、聞いたこと、知っていることの〈経験〉をコラージュしてつくり出した自分についての〈仮定〉のイメージであると言えるでしょう。「想像すること」と「思い出すこと」は似ているけれどちがいます。思い出すことは、〈経験〉を確かめることです。想像することは新しいイメージをつくることです。〈経験〉を〈手がかり〉に、コラージュによって新しいイメージをつくる。これが想像の方法であると考えています。(そしてその後には、〈想像〉を現実にする方法という〈未来〉に関する問題が待っています。)

では、問いです。ここでは、〈経験〉が〈想像〉の素材となると書きましたが、〈経験〉がなければ〈想像〉は不可能なのでしょうか。「未曾有」という言葉を聞き慣れてしまいましたが、映画の中で見たような信じられない世界が現実になったとき、私たちはその信じられないことをいかに現実として想像することができるのでしょうか。

みなさんの《想像の方法》を教えてください。