渡ったことのない橋 まだ降りたことのないあの駅
聴いたことのないビート そして会ったことない人々
(「5 cups」スチャダラパー/con10po)
知らない場所・時間・人。これらのものをぼくたちはどうやって想像しているのでしょうか。知らないものと自分との関係を想像する方法にぼくは興味があります。3.11を経験し、ぼくは、被災地や避難所生活のこと、この先の自分の生活のことを上手く想像できなくなってしまいました。多くの人もそうだと思います。今この状況の中で《想像の方法》を言語化することは、この先の未来にリアリティを持たせ、人々を力づけるために重要だと思っています。
「想像」とは、「もし~だったら」「私が~するとしたら」という、自分を主語にして〈未来〉〈仮定〉の世界を思い浮かべることだとぼくは考えています。例えば、今日のうれしいニュースに、友人に子どもが生まれたことがありました。twitterで知ったとき、ぼくは嬉しいと感じると同時に自分の子どもが生まれるときのことを想像していました。「もし、自分の子どもが生まれるとしたらどんな気分だろうか」「私が出産に立ち会うとしたらどんな状況だろうか」と、〈仮定〉の世界を思い浮かべました。もちろんぼくに子どもはいませんし、その予定もありません。しかし、友人のtweetを〈手がかり〉にして、自分に置き換えて想像します。そしてそのとき、友人の幸福感や子どもが生まれて不思議だと思う気持ちに共感するとともに自分も子どもがほしいと思うのでした。
しかし、ぼくは子どもを持つということの何を、何故、知っているのでしょうか。知らないのに想像できる。これには「想像」の素材となる3種類の〈経験〉があるだろうと考えています。1つは、ドラマや映画で登場人物に子どもが生まれる場面を見るような〈メディアの経験〉です。もう1つは両親や子どもを持つ友人から子どもが生まれたときの話を聞くような〈伝聞の経験〉です。もう1つは、自分自身の幼少期のことを思い浮かべることです。これは〈体験の経験〉と呼べるかも知れません。(そしてぼくは、これらはすべて現実であると信じています。)別の言い方をすれば、この友人の子どもが無事に生まれて嬉しいことへの共感は、tweetをトリガーに、見たこと、聞いたこと、知っていることの〈経験〉をコラージュしてつくり出した自分についての〈仮定〉のイメージであると言えるでしょう。「想像すること」と「思い出すこと」は似ているけれどちがいます。思い出すことは、〈経験〉を確かめることです。想像することは新しいイメージをつくることです。〈経験〉を〈手がかり〉に、コラージュによって新しいイメージをつくる。これが想像の方法であると考えています。(そしてその後には、〈想像〉を現実にする方法という〈未来〉に関する問題が待っています。)
では、問いです。ここでは、〈経験〉が〈想像〉の素材となると書きましたが、〈経験〉がなければ〈想像〉は不可能なのでしょうか。「未曾有」という言葉を聞き慣れてしまいましたが、映画の中で見たような信じられない世界が現実になったとき、私たちはその信じられないことをいかに現実として想像することができるのでしょうか。
みなさんの《想像の方法》を教えてください。
みなさんの《想像の方法》を教えてください。
自分のことを書く前に一つ質問したいです。
返信削除そもそも臼井くんはなぜ「想像」に興味があるのでしょうか? 「被災地や避難所生活のこと、この先の自分の生活のことを上手く想像できなくなってしまいました」という事態にひっかかりや問題意識を抱えていることはわかる。では「想像できない」ことのどこが、どう、なぜ問題なのだろう?
きっと「この先の未来にリアリティを持たせ、人々を力づけるために重要だと思っています」というのが一つのポイントなのでしょう。それにしても、「想像」が「未来にリアリティを持たせる」ことはどうして重要なのだろう。また、「想像」と「人びとを力づける」ことはどんなふうに結びつくのだろう。
臼井くんの文章を読んだ人はなんとなくそれらの理由を予感できると思いますが、議論の土台がきっちりしていたほうがぼくはやりやすいので、あえて突っ込んで聞いてみました。どうでしょうか。
この質問に返事が来る前に議論を始められる人はガンガン始めていいと思います。このコメントに遠慮はしないでください。
思いついたことを二つ。
返信削除まず「経験」と「想像」を合わせて聞くと「個体発生は系統発生を繰り返す」というドイツの生物学・解剖学者エルンスト・ヘッケルの言葉を思い出します。これは反復説と呼ばれ、動物の発生過程はそれまでの進化の過程を辿るといったようなものです。例えばひとの胚は魚類→両生類→爬虫類→哺乳類の特徴を胎内で現します。そしてゴールである霊長類・ひとまで行き着きます。哺乳類からさらに進化した動物であれば、ひとも発生過程のひとつになるかもしれません。
解剖学者の三木成夫も「反復説」についての研究を行っていました。
「胎児は、受胎の日から指折り数えて三〇日を過ぎてから僅か一週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の上陸誌を夢のごとくに再現する。」三木成夫『胎児の世界』中央公論新社
三木成夫は発生の過程を「胎児の夢」と言い表しました。夢って無意識の勝手にみる想像とはいえないでしょうか。
すると臼井くんの想像の定義は意識バージョンといえるかも。
「「想像」とは、「もし~だったら」「私が~するとしたら」という、自分を主語にして〈未来〉〈仮定〉の世界を思い浮かべることだとぼくは考えています」
想像に種類があるとしら「胎児の夢」には私という個体ではなく、生物の想像を思わせます。という話はどうでしょうか?
もう一つは林くんの息子が生まれた4月5日に、私はお通夜に参列していました。参列しているときに林くんから電話がかかってきて、猫の世話のことや出産について会話をした。この世に姿を現したばかりの赤ん坊と姿を無くそうとしている大学の先生。
この二つの出来事について「想像」をすると、赤ん坊はすこし想像できる。私は両親を知っているし、出産予定日もだいぶ前から聞いていたし、どうやら奥さん似らしいとも聞いていたから想像できたのだと思う。過程を踏まえていたのだ。
しかし事故で突然亡くなった先生は急すぎて想像できなかった。
「3.11を経験し、ぼくは、被災地や避難所生活のこと、この先の自分の生活のことを上手く想像できなくなってしまいました」
臼井くんのこの記述とつなげると、突然すぎることは想像できないのではないか、と思います。
もしくは想像の必要がないのでは?
そこで聞きたいことが一つ。
臼井くんの想像する必要はなんですか?
自分がどのようにして「想像」しているか、いろいろなシーンを考えてみました。
返信削除それで、「経験」が無くても何らかの「想像」はしていることに気づきました。では「経験」がないのにどうやって「想像」するのか。ある事象を「想像」するのに、その事象とは直接的には結びついていない「経験」を用います。(ただし、このときの「想像」の精度は低くなる可能性があります。)
あれ、結局「経験」を使っている!?
こう考えてくると、「想像」できないことなんて無いのではないかと思ってしまいます。
想像の方法、というものは思い浮かばないのですが、
返信削除わたしにとって「いい想像」は、「創造」に結びついています。
たとえば小説を読んで、ある描写に出会ったとする。
そのとき、わたしは自然と想像し、その想像力が「創造」へ向かってゆきます。
臼井君がいう、新しいイメージをつくる、というのに似ているけれども、「経験」がなければ「想像」は不可能だとは思わないです。
ただ、「経験」という言葉だとうまく言い表せなくて、「経験」から、というよりは「記憶」から作り出すというほうが、自分にとってはしっくり来ます。言葉の問題ではないかもしれませんが、メディアや伝聞は見たり聞いたりしているだけでやっぱり「経験」というより「記憶」に関与することという気がしています。
「記憶」は、経験していないこと、他人のことでも、並列に並べられるところがあるので、「想像」には大いに役にたつし、「創造」につながる幅もそれだけひろがると思います。
これは知らないものと自分とを関係づけるという意味での「想像」とはちょっとちがうかもしれません。
ただ、わたし自身は、知らないものごとにであったとき、「想像」することで、自分と関係づけたり、仮定しようとすることがあまりないのです。(したところで想像が想像通りだったことがあまりない)
それで、地震や原発、被災地や避難所生活のことを「想像できる」ことが果たして役に立つのかが、いまいちピンときません。もちろん、知らずにいたり見ないでいることをしたいともあまり思わないし、自分の問題でもあると感じます。
わたしもなんだかぼんやりしたことを書いてますが、蓮沼くんとおなじく、「想像の必要」について、掘り下げて聞いてみたいです。