2011年1月31日月曜日

問題10 集団とどう付き合うか

集団とどう付き合うか。
「集団」といってもいろいろとありますが、
今回は、勉強会のようなものを取り上げたいです。
勉強会・・・、これもいろいろありますが、
ゼミなんかもその一つでしょう。

勉強会では、特定のテーマや方向性を持った人々が集まって、
報告をしたり、討論をしたりします。
勉強会には、メリットもデメリットもあるでしょう。
また、個があってこそ成り立つものであったりもするでしょう。
勉強会とどう付き合えば、充実した成果が得られるでしょうか?

そこで、皆さんが考える勉強会のメリットとデメリット、
そして具体的な勉強会との付き合い方における成功談や失敗談があれば教えてください。

私は、大学内のゼミに所属しています。
ゼミでは様々なタイプの人と共存していますが、
モチベーションや目的意識の差によっては、
「ゼミ」という形がうまく機能しないことがあると感じていました。
そこで、どのようにゼミと付き合えばより充実した時間を過ごせるのか、
こんなことを考えるに至ったのです。

2011年1月28日金曜日

問題9 素材の欲望

今回は素材と欲望について考えていきたいです。
私はつい先日、美術作品をつくろう!と思い立ったのですが、同時に妙な気持ちになりました。
それは形式的な「作品をつくる」という欲望が先立っていて、本当につくりたいのかと自問自答したときに、何に依って考えたらいいかわからなくなったからです。しまいには、つくりたい欲望はそこまでない!と気づきました。

順序がおかしかったかなと分析したときに、「欲望とは素材と出会って生まれる」のではないかと思いついたのです。
なにかひっかかる風景を見つけたので、それが何かを捉えたいがために絵を描く、という流れが私には好ましく思えるのです。世界の構造はどうなっているのかを絵画の手段を用いて解明してみたら、遠近法という一点から世界が始まる発見があったように。
たくさんの作品群、形式的な決まり、画家という職業、これらが先例として豊富にあるので、ついつい流れてしまうのです。
そのため、この問題集を使って、素材と欲望について考えることで、さらなる自分のブラッシュアップを図ろうと思います。
つきましてはみなさんの、具体的な事例を聞かせてくれたらと思います。

で、なんの事例かと言いますと…どんな素材を持っているかです。
素材とは料理人にとっては野菜やお肉、映画監督にとっては脚本と役者、画家にとっては人物や風景、翻訳家にとっては外国の小説、編集者にとっては作家…などなど、もとになる材料です。いまの説明も形式的な立ち位置から見た素材でしたね。
今回強調したいのは、恋愛をしたいから可愛い子を探すのではなく、あっ!と驚く可愛い子に遭遇してしまったためにお付き合いしたい!と欲望を持つ方の流れです。

私の例で言えば、公園に住まう鳩の群れにいつも変な気持ちを抱いていたのです。鳥だけに浮世離れしているが、やけに土着的だ…アイツらなんかオカシイと思っている最中に、当時好きな子に「鳩ってオカシイね」と告げられたことが契機となって(やっぱ何かあるぜ)、私の中でいろいろ繋がって、鳩が素材として遭遇するにいたったのです。そして、鳩を密着取材したいと欲望を持つようになり、ときには捕獲したり、絵を描いたり、付き合うことになりました。私にとって素材とは、不思議さ奇妙さの質感を捉えたい欲望に基づいてあるようです。

議論というか、まずは発表として、みなさんの素材話があれば聞かせてください。
そして、あなたにとっての素材とは何であるか。

2011年1月24日月曜日

問題8 3D から考える

3D映像が流行っています。

3D映画に始まり、テレビ、家庭用ビデオカメラ、ニンテンドーDS、携帯電話などの商品がぞくぞくと作られています。大流行というわけではないかもしれませんが、家庭用にというのが目を引きます。近年になってどっと3D映像が身近な技術として売りだされているのはどうしてなのでしょう?

3Dの歴史は古く、18世紀のファンタスマゴリアや、立体写真の流行など、人々は昔からそれに親しんでいたわけだけれど、いままでは娯楽のひとつ、驚きの見世物という特別なものでした。映画史上でも3D映画は何度か試みられていますが(リュミエール兄弟やヒッチコックも3D映画をつくっていた)、現れては消えていったのも、これまでの映画を刷新するほどではなく、新しい技術、見せ方のひとつにとどまっていたからでしょう。
しかしそれ以上に続かなかった一番の理由は、目が疲れて耐えられないというのと、それほど必然がなかったことだと思います。

3D映像は、今の時点では「身体の機能を制限する」ことで成り立つ技術です。眼鏡のあるなしにかかわらず視線の角度や姿勢などを拘束し、身体は自由ではありません。
こちらを動けない状態にするという代償によって、動きのある立体の「像」を得る。
わたしはインターネットと少し似ていると思いました。ネットでも画面の前にいることが条件で操作する体の状態はある程度拘束されますが、その先に広がるものは全世界であり、そこで活動(仕事)する自分の「分身」が存在しています。実の身体を伴ってはいないものの、実感としてはかなり自分に近いものになってきています。
『アバター』で描かれていたような「分身」、自分の身体の一部と引換にしたもうひとつの「実体」です。そうした生活の変化が3Dへの抵抗感をなくしたのではないかと考えました。

しかしそれでも身近に扱える商品となって、今後の生活を可能性を秘めているのか?
いまはそこまで想像できず、やはり疲れそうと思ってしまいます。

みなさんは3Dは今後スタンダードな技術になると思いますか?
3Dに関心がなくても、ネット上での活動と自分自身の体そのもの(疲労とか現実に向き合える時間とか)の関係について考えてみたことはあるでしょうか?

もっとひろく技術と身体の折り合いで可能になることの話でもかまいません。





2011年1月14日金曜日

問題7 移動中の時間は何をすべきか

 目的地に向かって電車に乗る。まわりを見渡すと、眠っている人や音楽を聞いている人、本を読んでいる人・・・と色々な人がいます。が、何だかそれも見慣れたものばかりの気がします。電車の中では、優先席があったり、女性専用車があったり、あるいは携帯電話はマナーモードにして通話は控えるというルールがあったりと、何かと制限もあります。

 移動というのは、ほぼ毎日付き纏うもので、個人差はあるにせよ、かなりの時間を移動に使っているかと思います。この移動の時間を効率よく使うことで、何か変わってくるのではないかと思うのです。

 そこで今回は移動中の時間の使い方を考えてみたいです。まずは、普段、移動中は何を考え、どう過ごしているか聞かせてください。また、移動中に感じる問題意識もあれば、ぜひ教えていただきたいです。問題意識の中から、移動中の時間を有効に使う方法を見出して、さらにそれを実践していければと思っています。よろしくお願いします。

* 問題7では、問題の議論から実践まで含めたいと考えています。

* 林さんは今、私たちが普段体験できない環境にいらっしゃるので、それも議論に加味していただきたいです。

2011年1月10日月曜日

問題6 編集(の)可能性とは何か

 前回の問題(の一部分)を転回させる議論にしたいと思います。

 議題は「編集」です。前回の議論で、蓮沼くんは映画体験を原則として編集可能なものと捉えていたように思う。つまり、自分の映画体験をつくるのは自分でしかないのだから、寝てもいいし一部を見て満足してもいい、というように。経験は客観的なものではない。自分の経験を編集するのは自分である。

 ぼくは映画と社会の関係を編集可能なものとして捉えました。つまり、今後も変更しうるものとして。社会における映画の存在様態は絶対的なものではない。社会を編集するのは社会の成員である。

 ところで、太田くんは編集者です。ゴーダは映画を撮るなら編集もすることになるでしょう。蓮沼くんは本づくりの経験があったり、記録写真という「編集」の仕事をしています。みんな編集に関わっている。

 そこでまずはざっくり聞きたい。1)あなたにとって「編集」とはどのようなものであるか(どういう作業か、何が重要か等々、答え方自由)。そして、2)あなたの「編集」に対する考え方を、あなたの専門領域以外でも役立つ態度に転化することは可能か。可能だとすれば、それはどのようなものになるか。

 「編集」や「カスタマイズ」によって「わたし」を複数化し、「わたし」の「時間」を複数化することが重要だとぼくは主張している(「時間の複数化」および「軽さについて」)のですが、そのとき「編集」と言ったり「カスタマイズ」と言ったり「デザイン」と言ったりして、わりと適当に言葉を使ってきました。自分の考えをブラッシュアップするためにも、ここで「編集」について議論できればと思います。「編集」の可能性とは何か、あるいは物事の「編集可能性」とは何か。ぼく自身も問題意識が曖昧ですが、議論していく中で明確にしていきたいと思います。

2011年1月7日金曜日

問題5 映画はなぜ120分なのか

映画の上映時間は、120分前後が圧倒的に多いです。
どうしてなんでしょう。
私は予告が好きで、動画サイトでよく見ます。その映画の魅力はときに予告編の方がよく表現されていると思うときがあります。

ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール・ソシアリスム』の予告編は、実際に上映される102分を数分に早送りにしたものです。
先日、『ゴダール・ソシアリスム』を映画館で見た際、40分くらい寝てしまいました。
しかし、充分に満足する内容でした。

私は疑問に思うのです。
映画の2時間は長い。 
もっと短くてもいいのではないでしょうか?

2011年1月4日火曜日

問題4 目について

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

今年は身体中心の生活のリズムをつくっていきたいです。
身体を軽くして、フットワークよく動きたいです。

なので今年最初の問題は、健康について、とりわけ目についてです。
わたしたちは、本当によく目を使います。
仕事でもその他の時間もモニターを見ている時間が多い人はたくさんいると思います。
また、レーサーの動体視力とまでいかないまでも、情報をいかに早く読み取れるかどうかは、個々人の視覚の能力が少なからず影響しているでしょう。

目が疲れていると全身が疲れる。毎日だるく感じます。
反対に目が元気なことは、仕事がよくできること。
とにかく何につけても目に頼ることが圧倒的に多い。
目をすこやかに保つことは、いろいろ動く上で最重要課題ではないかと思います。

身体のリズムをつくること、と初めに書きましたが、「外部の刺激(モニターなど)と目」、「身体と目」の関係に解決法を見いだせないかなと考えています。
どうでしょう・・・

「刺激と目」に関しては、さまざまなモニター機器(電子書籍やスマートフォン、パソコン、TV・・・)が普及するにつれて、目の健康を科学する人がさまざまに研究を重ねていると思いますが、より重要なポイントになってくると思います。

ちなみに私自身は視力が非常に悪く乱視で、コンタクトレンズなしでは生活できません。
視力がいい人にとって、こうした問題は問題にならないのか、それも気になっています。

そこで、まずは皆さんの(モニターを見る時間が多いと見越して)目との付き合い方をきかせてほしいです。さらに目を快適に生活するにはどうしたらいいのか。
結構大事な問題だと思います。