2011年3月28日月曜日

問題19 リズムのつくり方

 今回は、前回の太田くんの問題「勝利の方程式」を引き継ぐテーマ設定にしたいと思います。タイトルは「リズムのつくり方」です。

 前回の問題では、「流れのつくり方」が話題になりました。いつもどおり、特に結論はついてませんが、実質的には蓮沼くんのコメントに議論が集約されていたと思います。つまり、「小さなこと/一歩を大事にすること」、そしてそれによって「問題をクリアにしていくこと」。

 ではその「小さな一歩」とは何か? 一人一人にとって具体的にどういう作業なのか? どうすれば「小さな一歩」を積み重ねて、「問題をクリアにしていくこと」ができるのか? それを「リズムのつくり方」という観点で捉えてみたいと思います。

 特に付言するまでもなく、今現在、リズムを崩しているひとは、ぼく自身を含めてたくさんいると思います。リズムを崩すことが必ずしも悪いことだとは思いません。ひとがリズムを崩すときは、やはり必要があって崩しているのだと思います。ただ、そろそろ自分のリズムを更新したいと思っているひとも多いのではないでしょうか。ひとのやり方を真似したからといって、すぐにいいリズムができるとは限らないでしょう。しかし、おそらく「どうすればリズムをつくれるのか」ということを他人と話し合うこと自体が、個々人にとってリズムをつくっていく作業そのものになるのではないか。そう考えています。

 というわけで、この問題提起自体がぼくの「リズムのつくり方」の「小さな一歩」です。ほかにもいくつか思い付くことはあります(「朝から家を出る」「日記を書く」など)が、それらの具体的な紹介(なぜそれをするか、どこがいいか)はコメント欄でするとして、まずは問題提起だけにしておきたいと思います。

 ひとが毎日の生活のなかで、どんな「小さな一歩」を積み重ねてリズムをつくっているのか、ぼくはとても興味があります。たぶん興味のあるひとは多いと思います。個々人のやり方を紹介し合いながら、お互いに「リズムのつくり方」のヒントを得たり、あるいは「リズム」なるものについての理解を深めることができればと思います。

 最近は太田、郷田、蓮沼、林だけでなく、臼井くんがコメントを書いてくれて、別の動きが出てきて、とても楽しく思っています。あらためて確認しておくと、このブログは原則として実名で参加してもらえればコメントは自由です。短い意見でも質問でも、ひっかかったひとは残してみてください。

 それでは今回もよろしくおねがいします。

林立騎

21 件のコメント:

  1. 太田のリズムの作り方。

    1. 外に出る。
    リズムが悪くなっている時、私は自然と家に籠り始めます。籠っていると波が単調になり弱くなり、鬱状態になります。鬱状態になるとまたさらに籠り始めて、悪循環に陥ります。リズムを作るには、まずこの状態を打破しなければならないので外に出ます。
    自分で鬱になり始めていることに気づき、無理矢理外に出ることもあれば、何かの都合で嫌々外に出ることもありますが、外に出ると、家にはない刺激が待っていて、それをきっかけにリズムを作ります。良いリズムができているときは、あまり家に帰ってこなくなります。

    2. 人と話す。
    外に出て、大抵いつもリズムを取り戻すきっかけになるのが、人と話すことです。最近の活動を聞いてみたり、あるいは何でもないような話をするだけでもリズムができてきます。何せ、籠っているときはほとんど喋らなくなりますから。

    3. 道具を買う。
    新しく道具を買います。ペンでも紙でも何でも良いのですが、新しく道具を買うと、その道具を使いたいが為に動き始めます。動き始めたらこっちのものです。

    4. 流れに流されてみる。
    リズムが良いときにはそんなに気が向かないものでも、リズムが悪いときに流れに流されてみると、そこで動く感触を思い出してリズムを取り戻します。もちろん、そこに行くまでは気が向かないのですが、終わってみると普段にはない達成感を味わいます。よくあるのはアルバイトや何らかの仕事です。

    5. 海外に出る。
    これはお金も時間もかかる究極の技です。確実に新鮮なリズムを作れます。しかし問題があります。帰国後、そのリズムをうまく持ち込めないことがあるのです。税関で引っかかるのでしょうか。私は先日、ヨーロッパで新しいリズムを手に入れて帰ってきたはずなのですが、国内への持ち込みに失敗して、ひどい病気のようになりました。昨日手術をして、今リハビリ中です。

    6. 結局は自覚すること。
    ここまで書いてきましたが、結局は自分がリズムを崩していることを自覚することをきっかけに、自分が持っているリズムの作り方を実践して、リズムを取り戻します。何だか簡単なようですが、リズムを崩しているときにはなかなかそのことに気づけずに泥沼にはまっていくことが多いのです。

    ひとまず、パッと思いついたところまで・・・。

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  2.  いやあ、ぼく自身と太田くんのリズムのつくり方がかなり似ていてびっくりしました。ほかのひとはどうなんだろう…。

     ぼくものちほど、もう少し違った視点から書きたいと思います。ひとまず、リズミカルに書きだしてくれてありがとう!

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  3.  わたしは特に宗教的な生活を送っていないし、いかなる宗教についてもきちんと勉強したことがないのですが、リズムを崩すといつも、宗教に従って生活しているひとのことを考えます。

     たとえば、ストレスやら何やらで暴飲暴食してしまったあと。わたしは、後悔しつつ、「もし『暴飲暴食すべからず』みたいな戒律に従って生きていたら、こんな無駄なことしなくて済んだのかな」と思います。以前、ユダヤ教の「十分の一税」のことを本で読みました。彼らは全財産の十分の一を喜捨しなければならないそうです。そしてどんなに金銭的に苦しんでいても、「今回はこっそりなしにしちゃう」とか「半年延ばしてもらう」ということをしないらしい。その理由に驚きました。「自分の財産の十分の一は、もともと神様のものなのだ。だから、もし納めなければ、自分は神様から泥棒をしたことになる」というロジックなのだそうです。

     「リズム」と深い関係をもっているのは、「わたし」の量ではないでしょうか。あらゆることをその都度「わたし」が決定すると、リズムはなかなか安定しません。「わたし」の状態は不安定で、場当たりの対応をしてしまうからです。たとえば、ユダヤ教の「十分の一税」と同じように、「毎月給料の十分の一を貯金しよう」と「わたし」だけで決めても、月末にお金が足りなくなったら、「今月だけは例外」といってやっぱり使ってしまうでしょう。同じ行為でも「わたし」の量が多いときにはリズムになりづらい。あるいは、お腹が空いているときにはたくさん食べ、空かないときには食べない、その判断は常に「わたし」がする、という生活はなかなかリズムを生まない。他方で、毎日7時・12時・19時に必ずお茶碗2杯食べなければいけないと決まっていたら、それはリズムを生むでしょう。

     宗教は、生活のリズムを部分的に「わたし」から切り離し、誰か・何かに移譲することではないでしょうか。あるいは農業者と比較してもいいかもしれません。一日中いつしてもよいオフィスワークと違って、朝にしかできないこと、午後にしかできないことがある農業者の生活は、仕事のリズムづくりが、「わたし」から自然へと移譲されていると捉えることができるでしょう。

     要するにシステムです。システムがリズムを生む。しかし「わたし」にしか通用しないシステムというのは非常に脆弱で(よく言えばあまりに柔軟で)、「わたし」だけでは強固なシステムをつくることが難しい。ここにポイントがあるのではないでしょうか。宗教に関してわたしが感心するのは、それが「考えなくていいことを考えない」ためのシステムであると思えることです。「生活の知恵」みたいなものを体系化して、「それはもう答えあるんだ。こうすればいい。考える必要ない。リズムにしてしまえ。ほかにもっと大事なことがあるから、思考と行動はそっちに集中させろ」と言ってるように思えるのです。

     この議論の流れからいうと、可能性としては、1)システムの構築を工夫する。特に「わたし」の減らし方、という観点から。2)上記の議論はそもそも間違っている。問題はシステムではない。という二つが見えてくると思います。どちらにしてもわたしにはまだ名案は浮かんでませんが…。

     具体的な「リズムのつくり方」を書くつもりだったのに、ふたたび理論的な話になってしまいました。これに反応をもらえても嬉しいし、引き続き太田くんのように具体例を挙げるのもいいと思います。わたしもあとでもっと具体的なことも書きます。

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  4. 明日の朝までには投稿します!
    ポイントは「集中」の時間かなぁと思っていますが、リズムって自覚するのが難しい。

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  5. 「わたし」の量というのを林さんのコメントで見て、あぁなるほどと思いました。確かにリズムを考える上で重要な鍵を握っていそうです。

    それで私の場合は、「わたし」というのはどうしても存在してしまうから、その存在を生かした形でリズムを作ろうとすることがよくあります。
    具体的に説明すると、食欲をよく利用します。
    一連の作業や仕事をする中で、食事の時間はわかりやすい休憩時間です。そして私は食べることが大好き。だから「これが終わったら食事」と決めて、そこに向かって勢いをつけます。そして、そのノルマを達成したとき、食事の後の時間になるべくゆとりを持たせたいからという理由で、食事の前のノルマを追加します。場合によりますが、これを何度か繰り返して、食前に最初のノルマよりも幾らかプラスしたものを完了させます。
    そうすると精神的にも充実したお食事タイムが過ごせるのです。
    さて食後。食前に良いペースで進んでいたので、それを失わないようにとまた良いペースで進められます。

    このような感じで、「わたし」(今回の場合は、食欲)の存在を生かして、リズムを作り出す方法をよく使っています。

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  6. リズムのつくり方…。

    リズムって周期的な反復があり、一度乗っかったら、そのまま流れられますね。
    これは未来のアクセントをある程度予測しているのです。
    次は何時くるのか、それがある程度分かる。そうでないと拍子はとれない。
    つまり、ある程度安定している必要がある。

    そして震災と原発によってどうなるか分からない状態になった。ある程度の予測ができなくなった。
    地震に対して備えを怠っていたのは私だけではなく、多くの人も政府もそうでした。
    そんな中では私の安定もはかれない。
    リズム/調子はだめになってしまった。

    予測できなくなった状態から、どうやって次の流れをつくるのか…。
    今回の問題は 「問題16 拠点となるところ」で議論された内容と重なる部分がありますね。
    私は「日々の習慣」に拠点を見つけると書きました。

    いまのところ私がリズムについて思うポイントは、「予測」「集中」「日々の習慣」です。

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  7. ポイントの「集中」について。
    我を忘れるほどの集中ってあるよね。
    集中によって充実した時間は、もろもろの事象といい関係を築いている気にさせてくれる。関係がもてると客観的にわたしを実感できる。それはひとつの安定づくりにもなる。

    一方、同じように夢中になるのは「快楽」。しかし快楽ばかり追いかけると…きっとみんな思い当たるでしょう、その後がしんどい。頭が重い。どうやら、快楽の夢中は中毒になり、日々のリズムとは一緒にはやっていけないようです。ベースは生命維持ですから、へんな偏りはおかしくなる。

    ある宗教の戒律が禁欲的なのは、林くんがコメントするように生活のシステムの知恵ですね。効率がいいルール。

    そしてこの林くんのコメント、これ納得。
    >「わたし」の量が多いときにはリズムになりづらい。あるいは、お腹が空いているときにはたくさん食べ、空かないときには食べない、その判断は常に「わたし」がする、という生活はなかなかリズムを生まない。

    太田くんのリズム1〜6は「客観」を得るための行動に思えます。食事報酬もわたしを客観している節がある。

    快楽を求める自由な「わたし」の量を減らすこと、
    環境の中にいる「わたし」を「客観視」することは
    リズムづくりにとてもよさそう。
    そもそもが野山で暮らしていたように、システムに依拠する「わたし」は自然でしょう。

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  8.  システムに依拠するのが「自然」なんだというのはすばらしいね。ほんとそうだと思う。システムを離れた自由はない。

     いろいろ考えているけどまとまらないので、明日くらいにはどうにかします。蓮沼くんが「客観視」という言葉を使ったのがけっこう響いている。ぼくは「声」みたいなものがポイントなんじゃないかと思う。

     でも一方で、「客観視」を生むための「声」が、結局は「わたし」のものにすぎなければ、やっぱりそこで生まれるリズムはどうしようもなくもろいのではないかと思ってしまう。要するに、リズムを生むための、ステップを踏むための「音楽」は誰が鳴らすのか、ということ。宗教や農業はある種の「音楽」。それに合わせて踊ることができる。一方で、「わたし」がみずから「音楽」を奏でながら同時にステップを踏んで踊るのは、やっぱりとてもたいへん。

     蓮沼くんの言うとおり、「関係」が大事なのは確かだと思う。太田くんが最初に挙げてくれた具体例も全て「関係」をつくるということ。だから「関係性の中で生きていく枠組み」みたいなものが重要なんだろうな…。

     しかしあまり抽象的になりすぎるのはやめよう! とりあえずぼくの生活で大切なのは、1)食べ過ぎない、2)家を出る、3)全力疾走し過ぎない、ということです。いきなり具体的に言ってみた。あと、リズムが崩れてくると、必要もないのにやたらツイッターをチェックしたり、そこまで読みたくない本や漫画を手に取ったり、あまりお腹が空いてないのに食べたりする。「時間」を潰そうとする。あるいは「時間」を何かに委ねてしまう。そしてアウトプットが減る。これが始まるとまずい。

     みんなリズムを崩したくないのに崩すわけだから、「リズムのつくり方」という話題はなかなか難しい。けどだからこそ今までは知らなかったようなレベルまで考えや動きを進めたいです。「関係性の中で生きていく枠組み」を、あんまりロマンチックな感じでうっとりせず、つくっていくことはできるのだろうか。

     結局はいわゆる「社会的動物」とかいって、人間は他の人間や様々な物事とともにしか生きていけないよね、そういうキズナが失われているからリズム狂っちゃうよね、みたいな話になるのだろうか…。それは嫌だな…。そういうのとはちがう「関係性」や「システム」のなかで生きたい。

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  9. 参加が遅れました。

    いま、リズムをくずしています。
    でも、ひきこもっていたり、やる気がなかったり、ふさぎこんでいるというのとは違います。毎日仕事に行くし、人にも会うし、送別会が多かったり、それぞれは楽しい時間を過ごしています。でも、ひとりで過ごしているとき、家に帰ったとき、とたんにお腹は痛く気持ち悪くなり、不整脈やじんましんがでたり、金縛りにあったりしてしまう。つまり体調が悪くなります。地震や原発のことがあってから10日間くらいたって、いつもどおり過ごしているけど、なんだか体と行動が分離している感じです。

    もちろんわたしは被災者でもなんでもないし、こういうことを言って、同情されたいとかそっとしておいてほしいというわけでもありません。でも、多くの人がリズムを崩すことに、かすかな罪悪感みたいなものも感じていて、静かに、個々人で、なんとかリズムを取り戻そうとしているような気がするのです。表面に表せない静かな葛藤をそれぞれがしているというか・・・だから人と会って話せば、自粛してもしょうがないから、私達はできることや今までどおりの生活を続けようという、ポジティブな話になる。そういう話をすると元気になるし、自分にもそれしかないと思う。でも、一方で体は正直だし、今までどおりと同じような方法で考えることはできないのです。

    リズムの作り方、わたしも皆がコメントしたのと同じようなことが有効だと思います。
    ただ、依拠したい「システム」が、いまはとてもとても揺らいでいる。
    どんなシステムに共鳴して、わたし自身がリズムをつくっていくのか、予測できません。
    おそらくこれからは、小さい個人のレベルから大きなレベルの物事にいたるまで、修正し続けることになりそうで、これまでどおりの個人の「リズムの作り方」だけではきっと太刀打ち出来ないことがでてくるでしょう。

    わたしはリズムを崩していると書きました、それでリズムをつくりたいと思っているのだけど、いままでどおりのやりかたで「わたしのリズム」を取り戻すだけでは、たぶん満足できません。いまは自分が予測できる枠組みにもどらなくてもいいと感じています。

    だからどうするということなのですが、わたしはとりあえず「健康」を維持すること、リズムを崩していないと自分に嘘をつくのはやめようというのがひとつ。それから大きく変わった「揺らいでいる、予測できない状況」に生物的に順応する術を身につけようと思いました。(順応するといっても、体がつらいから体だけは正常でいたいだけで、精神的にこの状況に慣れようという意味ではないです)

    長くなった上に、まだ自分自身が迷っている状態だけど、
    まずはリズムをつくる前提として、「わたし」をこの状況と分離させないこと、でも身体は丈夫になること。そんなことを考えました。

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  10. それで具体的にどうしようと考えると、林くんがいったように「時間」をつぶそうとする行動が大変多いことに気づきます。

    >> しかしあまり抽象的になりすぎるのはやめよう! とりあえずぼくの生活で大切なのは、1)食べ過ぎない、2)家を出る、3)全力疾走し過ぎない、ということです。いきなり具体的に言ってみた。あと、リズムが崩れてくると、必要もないのにやたらツイッターをチェックしたり、そこまで読みたくない本や漫画を手に取ったり、あまりお腹が空いてないのに食べたりする。「時間」を潰そうとする。あるいは「時間」を何かに委ねてしまう。そしてアウトプットが減る。これが始まるとまずい。

    まさに、インプットの洪水状態になること。
    まず、これを「意図的に」「禁欲的に」回避するのは自分にとって有効だと思いました。

    おもいきってしばらく、インプットをすべてなくしてみようかしら・・・
    それで体力つける運動などをして健康体になって。
    そしたら新たなリズムでうごきだすかも、どうかな。。

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  11.  ゴーダのコメント、すごいね。本気で考えたり苦しんだりしたことというのはすごいものだ。力があるね。ここからどう話を動かせるか、考えたいです。

     ただ、「おもいきってしばらく、インプットをすべてなくしてみようかしら・・・それで体力つける運動などをして健康体になって」というのは、どうだろう。「大鉈を振るう」ことがリズムを崩したときの処方箋になるのかどうか。ぼくはどちらかというと懐疑的です。だいたいきみ、運動とかしないじゃないか…。

     むしろゴーダ自身が言ってる「順応」こそヒントなのではないか。順応って、手順と流れを踏まえて、少しずつ「わたし」と「環境」の関係性を動かしていくことのように思う。

     「わたし」にはどうしようもないリズムの崩れはやっぱり強大。それを一刀両断にやっつけるのは難しい。やっつけられるくらいならそもそも長くリズムを崩したりしないものね。きっと崩れたリズムそのものさえ利用しながら、自分の「時間」を更新していくことが必要なのだと思う。

     抽象的なことしか言えないのが非常に情けないけれども!

    http://tatsukihayashi.blogspot.com/2011/03/6.html

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  12.  リズムと言えば、少し話題はそれるけど、この「問題集プロジェクト」、地震以前は週に二回新しい「問題」をつくっていたわけですが、今後当分は週に一回(月曜日)の問題提出で続けよう。こっちのほうが議論のリズムをつくりやすい。当初の目標「2011年中に100問議論」は達成できないかもしれないけど、まあかまわんでしょう。

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  13. いろんな長さのリズムを考えてありだと思う。
    昼と夜があれば、365日もある。
    自転もあれば公転もある。
    一年の単位で考えれば、余暇で温泉へ行くのもいい。

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  14. >ただ、依拠したい「システム」が、いまはとてもとても揺らいでいる。

    郷田さんのこのコメントはそのとおりだね。

    ↓そしてひとまずはこれだね。

    >まずはリズムをつくる前提として、「わたし」をこの状況と分離させないこと、でも身体は丈夫になること。

    追い込まれて弱ってしまったけど、死なないための手段という実感がある。しかしスポーツや運動って余剰な感じがするけどどうかな。追い込まれたら必要なことしか出来ないのでは?

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  15. 私のリズムの取り方として「移動」が要点にあります。

    それは「習慣」を行うために移動することです。
    システムのあるところへ移動するのです。

    例えば、
    ・寝るために布団に入る。
    ・歯を磨くために洗面所へ行く。
    ・集中するためには机に向かう。
    ・用を足しにトイレに入る。
    ・キッチンで火を使う。
    ・食卓でご飯を食べる。
    ・居間で休憩する。
    などなど。

    これは「家」だけではなく「旅館」「仕事場」などでもトレースして使用します。

    昔、何日も上野公園に通って、長い時間滞在していたときも「よく過ごす」ために「習慣」をトレースしていました。なんの境界線もない場所に対して、ここは休憩に最適、とかを決めていました。それで落ちつくのです。今にして思えば、あれはシステム作成でした。

    震災で困ったことの一つは「移動」がしづらくなったこと。電車に乗って考えることも、カフェでパソコンを開くことも、アトリエで制作することも、スーパーで買い物をすることも難しくなった。友達にも会いにくくなった。

    新しいシステム作成が目下必要です。

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  16. (前書き:非常に長くなった。覚悟して読んでください。)

     蓮沼くんのは「移動」=「習慣」ということか。複数のモードを「切り替えていくこと」自体がリズムになるんだね。ぼくも「時間の複数化」ということで似たようなことを考えた。リズムが崩れると、いろんな部分と機能をそなえていた建造物が地震でひとまとまりの瓦礫になってしまうように、全部がぐしゃっと一緒くたになる。なんか平面的になる。それをあらたに空間化して、立体的な「動き」をつくりだすことが必要ということではないか。

     ただ、「予測できない状況になった」というのはぼくは違和感がある。だってこれまでも別に予測なんてしてなかった。習慣という慣性で動いていただけ。むしろ重要なのは、「なにが起こっても反応できるようにならないとな」という考え方が広まっていることではないか。個人、家族、企業、地域、国家等々、さまざまなレベルで「設計思想」や「安全設計」の再考が重要になる。

     そのときの対応としては、1)すぐれたシステムを構築する、2)柔軟な対応力を準備する、という二つがすぐに考えられる。しかしこれは「あれかこれか」ではなく、両者を組み合わせたほうがいい。つまり、一番下の基礎には「安全設計」されたシステム、その上に柔軟性。

     「安全設計」という分野では、「壊れたときに安全であること」が重要らしい。これはたいへん面白い。壊れたときにこそ安全で、そこからシステムの細部を復旧させることのできる基礎を考え直すこと。個人レベルではいろんな実践が考えられると思う。ぼくにとっては走ることが重要。夜走ってから寝ると次の日寝覚めがよくて、スタートダッシュがきく。これがリズムづくりにいい影響をもつ。

     「安全設計」された基礎の上は、もう柔軟性でいくしかない。災害や不幸は個々人の想像力を超えるということが地震と原発で明らかになった。対応力、現場力みたいなものが大事。ジャンルや専門性に依存しない「反応する力」。マニュアル主義の決定的な終焉(のはずだけど、どうも続いているらしい)。

     ぼくが今回思ったのは、「人間と動物のハイブリッド具合を考え直さないといけないな」ということ。人間も動物ですが、今後の成り行きを支配しようとしたり、予測してなかった事態が生じると反応よりも不安や怒りになったりと、まあいろいろただの動物ではない。過去・現在・未来があるからかな。動物はもう少し現在勝負。今必要な行動をする。蓮沼くんが「追い込まれたら必要なことしか出来ない」と言ってたけど、動物はまさに「必要なことしかしない」わけで、その意味では人間ももう少し動物化する必要があるのではないか。近いところ、小さなところ、今必要なところから自分が動き、ものごとを動かしていく。前回臼井くんが言っていたことだね。ずっと先の未来を支配することは不可能だから、基礎だけちゃんとつくったら、あとはその場の柔軟性で対応する。それが今後必要な「人間と動物のハイブリッド具合」だと思う。

     リズムを「流れ」という言葉で考えるなら、「流れ」をつくる力ばかり強化するのではなく、現在の「流れ」に対応する構えをつくっていく、ということ。これは二度と地震や津波や原発事故が起こらなくても役立つ。

     こうした「安全設計+柔軟性」が自分や社会にそなわっているのか、それをチェックする機関も必要。動物と違ってどうしても意志でつくり、維持する必要があるから。個人レベルではぼくはそれを「声」と名付ける。リズムが崩れるときに一番まずいのは、自分の中から自分の「声」が失われること。思考停止におちいること。社会も同じではないか。「声」が失われて思考停止におちいると、リズムは惰性と化し、「安全設計+柔軟性」が機能しているかどうかのチェックは不可能になる。

     ゴーダが「これまでどおりの個人の「リズムの作り方」だけではきっと太刀打ち出来ない」と書いた。個人ではどうにもならないことがあるというのは、たしかにそのとおりだと思う。ただ、「リズムの既製品」に頼るのも難しい。複雑で多様な時代だから、たった一人の自分に完璧にフィットするシステムが外でつくられているわけがない。新興宗教やら何やらの誘いが出てくるのはそこだと思うけど、ぼくはそういうものは信じられない。だから、「安全設計」としての基礎は、外側の助けを借りながら自分(たち)でつくるしかない。それは楽しい作業でもあると思う。「外側」にもいろいろある。自分の好きな小説、映画、音楽や、影響を受けた思想、理論。スポーツや食事や飲酒。ネット上に存在するさまざまなサービスを利用してもいいし、地域のコミュニティで活動したり、パートナーや家族をもつこともリズムの基礎をつくる。ひとに迷惑かけなければ新興宗教やナショナリズムでも別にいいと思う。ぼくは地震の数日後にはやっぱりクライストを翻訳していたし、村上春樹の小説を読んでいた。今は走っている。誰がなんと思おうと、自分にとっての「安全基地」があることが重要。

     「安全設計+柔軟性」。これがぼくの暫定的な根本思想です。また何かあったら変わるだろうけど、それはそれでよい。

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  17. この問題はまだ続けていきましょう。
    のちほど、また。

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  18.  これは続けたいね。

     ぼくももっとみなさんの考えややり方をききたいです。

     どうぞよろしく。

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  19.  わたしは語学を仕事にしてますが、語学学習では「走りながら考える」ことが重要だと思う。効果のないエクササイズを必死にやるのでもなく、しかし効果的な方法ばかり考えていてエクササイズをしないのでもなく、「走りながら考える」こと。これはリズムの問題とも関連しそう。「走りながら考える」は「必死に動いているのに自分の中に声がある」と言ってもいい。

     動くか止まるか、考えるか行動するか、二者択一ではなく。前に蓮沼くんが、物をめちゃくちゃよく見ると物との関係が変わって作品をつくることができる、みたいな話をしてくれた。見るはつくるとイコールじゃないけど、無関係でもない。同じように、走るから考えることができる、考えるから走ることができる、走りながら考えることができる、これは実際誰にでも起こりうること。だから、こういう状態をどうすればつくれるかということを大切にしてもよいのではないか。

     インプットするからアウトプットすることができる、アウトプットするからインプットが充実する、「走りながら考える」よい循環ができる。そんな循環をつくれたら、「発展としてのリズム」って感じで、よくないですか。

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  20. リズムについて書きたいトピックは諸々あるのだけど、
    なかなかリズムに乗って書けないな。
    いや、乗っているのだけど、すぐ目が暗くなるというか。
    まだ「よく乗れない」状態です。

    そうそう、リズムって乗物だと思うのです。
    それは時々刻々と進むもので、強弱があり、間があり、繰り返す。
    その乗物は造れないし、止められない。
    身近な例では心臓がある。

    生きたカエルから心臓だけを取り出して、それを机に置く。
    すると止まらずにどくどく動くのである。
    数十分は動き続ける。
    心臓は自律した運動機能があるのだ。

    呼吸器は「エラ」から「肺」に進化したのが最近なので(他の臓器とくらべて)、
    息を止めるとかができる。意識でコントロール可能。

    そんな肺にくらべて他のリズムはコントロールはムリ。
    でも美味しいものを食べたら気分が上がったり、嬉しい発見があったら調子が上がる。
    そういった働きかけはできる。

    でもいつも感動できるわけではないので、
    日常の繰り返す所作にアクセントを託してありだと考えている。

    批評家の小林秀雄は煙草をやめたところ原稿がまったく書けなくなった。
    それまで煙草に火を付けて一服することが、原稿を書くリズム/間のひとつを担っていたため、
    禁煙したら調子が目茶苦茶になった。
    書けるようになるまで四ヶ月もかかったという。

    文豪が禁煙しただけで文字を書けなくなった…と思う無かれ。
    それだけリズムが大切ということなのだ。
    林くんが「走る」というのは、欠かせないのだと思う。それが日々行い続けるとそれが安全基地になる。

    そしてリズムのために「小さな一歩」をやり切ることが大切のはず。
    だらだら、なあなあにしないことがポイント。
    走りきる、コーヒーを飲む、本を読む、他にもいろいろあるけど、小さな成功体験でアクセントを置いていく。そうやって要所要所リズムの流れを確かめていくのが有用に感じる。

    まだ考えます。

    このブログと勉強会は一つのリズム/安全基地になるのではないかな。

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  21. これはこれで新しい「問題」になるくらいのことだけど、林くんがコメントしてくれた「声」はもっと知りたいし、考えたいね。

    >自分の中から自分の「声」が失われること。思考停止におちいること。社会も同じではないか。「声」が失われて思考停止におちいると、リズムは惰性と化し、「安全設計+柔軟性」が機能しているかどうかのチェックは不可能になる。

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