2011年3月4日金曜日

問題17 言葉に窮する問題

言葉に窮する、言い淀む、詰まる…などが会話の中で発生することがあります。
そのときの「言えない」理由が、勉強不足や関心の無さなら問題はありません。
なぜならダメージが無いからです。

痛いのは、切実で未分化の状態、また理解が及ばない上の断絶の場合です。
逃げても芸を駆使しても、相手にも自分にも通用しないことがあり、言葉にできていないことは、やはり「言えない」のです。そしてその傷は深い。

しかも!相手に「甘い考え」とか「覚悟がない」とか言われると無条件で腹がたったりします。
こちらは難しい問題で弱っているのだがら、勘弁してくれとも思います。
勉強会とブログ問題集をやっていくなかで「言葉に窮する問題」が何度か登場しました。
個人の切実な問題であるから触れないというのもありですが、「くそ勉強会」にはがんがん掘っていく精神が在ります。この問題提起は意味のあるものになればと思います!

しかし、ここで個人の問題に焦点を当てることはしません。解決には具体的な取り組みが必要でしょう。
ここでは「丈夫」になるためのアイデアを持ち寄って、議論ができたらと思うのです。

今後幾度と無く顔を出すであろう問題に対して、これは「言葉に窮する問題」であると認識し、管理するだけでも楽になるし、対処もしやすいでしょう。また問題の由来を分析し、それを他人にも伝える言語化をすると解決の前進になるはずです。
また「勉強会」というシステムが、難問題に対して何らか寄与できるはずです。私にとって勉強会は、現実と理想の間のプラットフォームのようなイメージです。

「丈夫」になるためのアイデアとして、私の例を出しますと、
言葉に窮するのは、必要がないからだと考えています。
言っても詰まらないことだからこそ、詰まってしまう…

それで実は、私はどもりなんです。
今でこそ少なくなりましたが、幼い頃はそれはもうヒドかった。
どもりって最初の発話ができなくて、同じ音を何度も痙攣のように出してしまう。
いま思い返すと…どもるのは、あまり言う必要のないときなんですね。
無理すると緊張して、どもってしまう。
どもって苦労して話したところで、内容の意味よりも、発話の運動に人の目は行ってしまうのでやるせない。しかし、言いたいことがあるときは、ま、なんとかなるのです。

困ったのは国語の音読などです。学校の授業で、順番に読むのには参りました。
やべーここは発話出来ないわーと先に分かってしまうのです。で巡って、私の順番になってしまう。発話出来ないもんは出来ないのだから、仕方なく、「先生、声が出ません」と申告するのです。
すると先生は不思議な顔になります。
なぜなら「先生、声が出ません」と声を出しているから。
あと、自分の名前とかは発話しにくい。あまり言う必要を感じていないのです。

そこで私のアイデアですが、「言葉に窮するのは、必要がないから」の、
必要を感じていない私の判断は適当かどうか考えてもいいのです。
しかし、必要を感じていないことを、信念を曲げてもいいのか?については
ぐにゃぐにゃに曲げていいと思います。私はなにより皆と共通して喋りたかった。
がらっと変えるくらいじゃないと、言葉に窮する問題は解決しないと思うのです。

まずはこんな始まりから。

34 件のコメント:

  1.  始める前にひとつだけ! 一番大事な最後の部分、「必要を感じていないことを、信念を曲げてもいいのか?についてはぐにゃぐにゃに曲げていいと思います。私はなにより皆と共通して喋りたかった。がらっと変えるくらいじゃないと、言葉に窮する問題は解決しないと思うのです。」というところがよくわからなかった! 必要と感じてなくても、「必要じゃない」という信念を曲げてでも、言葉を使って喋った方がいい、ということ? ちょっとちがう?

     しかし「丈夫」になるためのアイデアというのはたいへんいいね。すばらしい。たしかにそういうのが楽しくてやってる面があるな。みんな丈夫になればいいんだな。個人が丈夫になるために勉強は存在するのかも。今回も書いて読んで丈夫になりましょう!

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  2. 蓮沼さんの「言葉に窮する問題」を読みながら、自分が言葉に窮した経験を思い出しました。

    小学校の頃の私は結構やんちゃで(でもなぜか勉強は得意!)、しょっちゅうけんかをしていました。けんかをすると、言いたい放題相手に攻撃的な言葉をぶつけていました。ところが、先生に見つかり起こられ始めると、何も言わなくなる癖がありました。そしてある時、先生に言われました。「あなたは自分の分が悪くなるとすぐ黙り込んで、本当にズルい!」と。今でも鮮明に覚えているのだから、かなりショックな言われっぷりだったのでしょう。(このときは、休み時間に一緒にサッカーをしていて、キーパーをやっていた子がへたくそで、その子が将来宇宙飛行士になりたいと言っていたから、「お前なんか宇宙行って死んじまえ」みたいなことを言って怒られました。)

    なぜショックが大きかったのか。それは、普段は調子よく好き放題しゃべりまくっているくせに、都合が悪くなるとしょぼんとしてしまう自分に気づいたからでしょう。

    それから少しずつ変わりました。分が悪くても、放棄せずにとりあえず何か言ってみて、それで駄目だったらまたそこから新しく言葉を発してみるようにしたのです。それが私の言葉に対する態度の礎になっている気がします。(そこからまたいろいろと変化をしていますが・・・)

    それで、私が出す丈夫になるためのアイデアは、分が悪い言葉でもとりあえず発してみるということです。分が悪い言葉を発して、ギッタギタにされても、発することによる失敗に対する耐性を身につけ、もっとポコポコポコポコ言葉を出せるような力を身につけるのです。

    まずは。

    でも、私自身には林さんから問題16で指摘されたような癖が確かにあって、それはそれでまた別の問題として抱えているのです。

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  3. >必要と感じてなくても、「必要じゃない」という信念を曲げてでも、言葉を使って喋った方がいい、ということ? ちょっとちがう?

    そういうことです。
    必要と感じてなくても、詰まらなくても、喋ったほうがいいと思ったのです。
    それは言葉に窮したくなかったからです。窮するのがつらかった。

    私が話す必要を感じなかったために
    「みんなと会話をする」という素晴らしい世界を味わえなかったんだ…とも思うのです。

    学校が面白くなかったから、話したいとも思わなかったけれども、話さないままだと、さらに詰まらなくなる。その状況を打破するには、変革を必要としたのです。ん、なんか、かわいそうな子どもだったな…。

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  4.  早くも太田くんの「逆襲」を受けることができて、たいへん刺激的だ。楽しい。

     この問題はなかなかいいね。蓮沼少年の記憶がひとの記憶を喚起するのかな。

     わたしは明日書きます! しばし続けていてください!

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  5. 大田くんのいいコメント。

    >ギッタギタにされても、発することによる失敗に対する耐性を身につけ、もっとポコポコポコポコ言葉を出せるような力を身につけるのです。

    痛いけど、丈夫になるね。
    頭が良い人、才能がある人は散見するけど、
    頭が良くて丈夫な人、才能があって丈夫な人は少ないよね。
    なにはともあれ、丈夫になりましょう。

    >キーパーをやっていた子がへたくそで、その子が将来宇宙飛行士になりたいと言っていたから、「お前なんか宇宙行って死んじまえ」

    この下りがいい。むちゃくちゃだね!

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  6. さっそく言葉に窮しているのですが、・・・とりあえず発してみます。

    わたしはどもりはしなかったけど、言いたいことをはっきり言えない性格でした。でしたでなくて、いまもそうです。結果、回りくどくなり、誤解を生み、伝わらないこともしばしばです。言って簡単に解決することも言えないでつらいこともありました。言いたいことがちゃんと言えないくせに、あきらめが悪いのもやっかいです。(でもそれがかすかな「丈夫」さにつながっているかも・・・)

    必要だと感じないときも、会話を続けたら、面白いことが起こる経験はよくあります。「会話」の楽しみは、自分のまったくの予想外の方向に向かうことで、必要じゃないという態度には、自分の想定範囲内で物事を完結させているおそれがあります。
    一方で、自分がどうでもよさげな話題ほど、柔軟に頭軽く、会話を楽しむことができたりします。身近な出来事を話すときとか、極端にいえば言葉遊びをして笑い転げているときとか。楽しいということは、どうでもいいことではなくて、必要なのでしょう。そんなところにヒントがあるのかもしれません。

    いま、なにも浮かびませんが、丈夫になるためのアイデア、続けて考えます。
    ひとまず出かけます。

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  7.  「言葉に関する幼年時代の痛い思い出」大会になりつつあるね。わたしのエントリーはまたのちほど。これから自動車教習に行くもので。

     それにしても、自分の意見を言うときのゴーダはあまり明るくないね! 好きな映画の話をするときはとても明るいのにね!

     なんか、「このひと、嫌でお腹痛いのを我慢してがんばってるのかな」っていう感じがするね! 実際、自分の意見を言うときにお腹が痛くなったりするのかな?

     そしてお腹が痛くてもひとは言葉を発するべきなのだろうか? 一般化できない話だとは思うけど。蓮沼先生、どうなんだろう?

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  8. 臼井です。コメントします。

    この間の勉強会では林さんからの指摘に、まさに「言葉に窮し」ていましたねー。

    ちょっと違うかも知れませんが、ある提案に対して意見を求められて、その提案に違和感を感じているとき、言葉に窮します。

    その時、「よくないと思う」「なんか違う気がする」と発言して、否定の意志だけを示してしまうのは安易だなと、最近思っています。否定したり、拒んだりすることは、どんなときも簡単なのです。「これは〇〇ということ?」「××という言葉はこういう解釈でいいの?」と質問と確認をして少し間を空けると、広がりが生まれるなぁと感じています。自分が言葉に窮した時も、そうしてもらえると助かるなと。

    郷田さんのいう「必要だと感じないときも、会話を続けたら…」というところ、質問をすることで会話は続くし、展開もしますよね。

    というわけで、ぼくの「丈夫」になるための方法のアイデアは、「質問をする」あるいは「確認をする」です。

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  9.  まあ、お腹痛いのって、実際にはやらないまま、「嫌だな」って思ってるだけのときが一番痛いんだよね。思い切ってやってみて、やり終わると、たいがい腹痛はいつのまにか消えていて、「ああやっぱりまだお腹痛い、やっぱりやらなきゃよかった」っていうのはほとんどないんだろうな。

     まだまとまったことを書いてないけど、あとで書きます!

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  10. 「お腹いたい」について、私はお腹が痛いと感じたら、そのときに痛みの原因に対処するようにしています。
    林さんが言ったように、思い切ってやってみると意外と大したことないということがよくあるからということと、腹痛から目を背けると、次にその腹痛が起きたときはもっと痛くなるからです。背けている間にどんどん悪化するのです。
    だから、痛みが軽いうちに、痛みの中枢に思い切ってアタックするようにしています。

    昔は、毎週スイミングスクールの1時間前に必ずお腹が痛くなって、母を困らせました。

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  11.  ドイツに1年間留学して(もう7年もたってしまった)、思ったように話せないこと、話せないことを誤魔化せないこと、話せないと単純に馬鹿だと思われて終わりになることがどれくらいむかつき、そこからどう復讐を始めたかという経験を書くこともできそうだけど、それをやってもすでに蓮沼くんや太田くんが書いてくれたことと実質的に同じ結論に至りそうなのでやめます。

     この問題に関しては、「みんなと会話をする」ことにどれほどの価値を置くかが一つの分水嶺だよね。正直、「会話に興味がないひとも興味をもつべきだ、その方が人生が豊かになる」とわたしは断言することができません。ひとそれぞれです。

     ただ、言語でやり取りをすることは、人間にとって、物事との関係性の基本にあると思います。わたしは、もう亡くなってしまった西岡常一という宮大工さんの言葉がとても好きですが(『木に学べ』とか面白い)、彼に典型的にあらわれているように、職人でも一流のひとは多弁だし、言葉がとても上手です。映画の世界でも批評家から優れた作家が出ていますね。技術が高いひとほど言葉ができるし、言葉ができるひとほど高い技術を身につけられる。わたしは基本的にこれが真理だと思います。人間が言葉で学び、記憶し、伝える以上、当然だと思います。

     日本ではとかく「無口だけど結果は残す」と「口は達者だけど口ほどの事はない」の両極にひとの評価が振れて、当然前者が圧倒的に好かれるわけですが、これは変です。わたしが経験してきた西欧の価値は「口が達者で結果を残す」で、わたしもこれが最も役立つと思います。TEDを見てもわかります。物事の価値を言葉で伝えることができなければ、支持されないし、広がらないし、もったいない。「いつか誰かがわかってくれる」は何か別のコンプレックスを隠すエクスキューズにすぎないと思います。なんか書きながら少しずつ熱くなってきました。

     蓮沼くんは「信念を曲げてでも話したほうがいい」と言いました。わたしが付け加えるとすれば、一度決めたら続けるべきだ、ということです。つまり、「信念を曲げてでも話す」という信念を選択したら、それは貫く、ということです。いろんな信念、いろんな方針を行ったり来たりするのがもっともよくない。もちろんどんな信念でも変えるべきときはあるでしょう。しかしその見極めを誤ってはいけない。わたしは言葉を選択した人間の一人です。

     要約すると、わたしの考えは、高い技術を獲得したりひとに何らかの価値を伝えるためには言葉が不可欠だから、そういうことに興味があるひとは言葉にこだわるしかない。どんなにつらくてもそういう仕組みなんだから、あきらめて自分のほうが「丈夫」になってトレーニングを続けるしかない。そういうことです。

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  12.  ところで、勝間和代氏は以下のように言ってますね。誰でもできるかはともかく、参考になる部分はあると思います。太田くんのコメントとかなりつながるし、「丈夫」ということの話にもなっています。「ロジックエンジン」て何かわからなかったけど…。

    ーーーーー

    http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/private/2011/03/post-9248.html

    失敗をしたということは

    ・自分の状況判断がまちがっている
    ・自分の予測がまちがっている
    ・自分のスキルが不足している

    ということの複合要因ですから、自分のロジックエンジンの修正をかけることができますし、次に同じ失敗をしないためには何を訂正すべきなのか、ということを素早く学ぶことができます。

    また、失敗を恐れてチャレンジをしないと、絶対に成功しないわけですから、わたしはそれを「100%の失敗」と呼んでいます。成功確率が0%なことに加えて、学びも0なのですから、これ以上、悪い結果はあり得ません。

    そしてある意味、失敗慣れしてきますと、失敗に対する耐性が出てきて、あれ、また失敗しちゃった、まぁいいか、といったような「メンタル・タフネス」も身についてきます。

    何かできることがある、チャレンジできる、そのような機会は次にもう一度訪れるかどうかまったくわからないのですから、なにもしないこと(=100%の失敗、学びなし)を選ぶよりは、何かやってみて、うまくいったらいったでいいし、失敗したらそこから学ぶ、そのことだけを繰り返していることで、けっこう、人生って幸せになるのではないかなぁ、と思います。

    じゃんけん、じゃんけん、またじゃんけん、です。勝率ではなく、勝ち星を目指しましょう!!

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  13.  ところで、臼井くん来ないねえ…。参戦してくれたら面白いんだけど。

     それと、ゴーダは「言いたいことをはっきり言えない性格でした。でしたでなくて、いまもそうです」と書いていたけど、今回もそれはどうしてか、それをどう思っていて、今後どう付き合うかは何も言わないね。しかし読んでるひとが興味ある部分、ひとにも役立つ部分はそういうところじゃないかな? 前も「映画を語る必要はない」と書いて書きっぱなしだったよね…。せっかくそこまで言ったんだからもっときちんと教えてよ、という感じがするんだけどな。どうでしょう。

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  14. 面白い!
    いいコメント!
    楽しくなってきた!

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  15.  ところで太田くんの「痛みが軽いうちに、痛みの中枢に思い切ってアタックする」というのは非常に大事なことだよね。「丈夫」になるためには思い切って早めに動くということ。わたしもそう思います。全然実践できてないけど…。

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  16. 言いたいことをはっきり言えないのをどうするか、ということですが、言うように努力してる、としか答えようがないです。しかし「はっきり言えない」というのが「言わない」ということではないので、言いたいことがあれば言葉が拙くても伝わります。

    「言う必要がないとき」「言いたいことがないとき」は問題ですが、相手といるときならば、沈黙からもなにか会話がはじまり、意味の有ることに発展することもあります。

    問題は「書く」言葉です。私にとって「口から発する言葉」と「書く言葉」はちがいます。ブログの議論も話すように書ければいいのだけど、どうしても時間がかかってしまってそれがうまくできない。書くことと口で発することには、やはり違いを感じてしまうんです。「書く必要」が、言葉のトレーニングという必要でしかないと、なにも言いたいことがなく、言葉に窮してしまいます。議論のための議論はできなくて、書くために書くというのもつらいです。
    書かれたものは、話すよりももっと言葉が強い意味をもってくるとおもいます。「話す」に比べて「書く」対話に限っては、より確固たる「いう必要」が必要に思います。

    でも、時間がかかることは、もう少しなんとかしたいと思っています・・・
    言葉にしようともがく時間を、さっと議論に投げ込めればいいのですが。。

    それから、問題16の応えでもありますが、ものをつくるとき、言葉は必要です。「映画に映画で応答する」「映画は語る必要がない」というのはつくるプロセスのことではないです。映画はひとりで作れるものではないから、つくるために一緒につくる人たちに伝える言葉は必要です。現場での対話は延々とあります。ただし出来た映画自体が勝負するものは、言葉ではないと思うということです。

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  17.  さて。

     まず、この場では個人的なやりとりをする必要はない、ということは再確認しておいていいと思う。何のことかというと、ゴーダは個人的な弁明をする必要はない、ということです。逆に言えば、個人的なことばかり強調するのはあまりいいことでないと思う。ゴーダ自身も楽しくないだろうし。たしかにわたしは、ゴーダがどう考えているかを質問したけど、それは「努力している」とか「つらい」とか言ってほしいわけじゃなくて、今の議論を発展させる考え、わたしを含む他のひとたちにとっても役立ちそうな考えがゴーダにあれば、それを紹介してほしいという意味なわけです。40年前の左翼みたいなやり取りをしたいわけじゃないのです。だから、自分を守る暗い言葉ではなく、欲望と意志に生み出される前向きな言葉を読みたいと思いました。

     「書く」と「話す」は違うという問題提起が出ていたけど、わたしの見解はこうです。そりゃたしかに違う。当然です。でもつながってます。そしてどちらが技術やコミュニケーションの基礎かというと、書き言葉です。論理も知識も技術も文字によって伝えられてきました。「書く」ことにおいてロジックを組み立て、内容を整理し、伝わりやすさに留意できなければ、基本的に複雑なことは話せません。わたしは、書いたものは意味不明だけど話してみると簡潔明瞭というひとを知りません。いないと思います。口頭でのコミュニケーションは普通はそれほど高度な論理と内容の濃縮を必要としないため、ほとんどの場合に「なんとなく」で処理できるというだけです。

     何についてもそうですが、「必要」よりも「欲望」が問題で、書くことに対する欲望がなければやっぱり書けないと思います。それは仕方ないです。ただそのコストを考えなければならない。経済学には「機会費用」という概念があります。あなたが日曜日に家で3時間昼寝をしたとする。もちろん現実的には1円も使わないわけですが、経済学的には「時給1500円で働くこともできたのに、3時間寝ていたのだから、この昼寝によってあなたは4500円を支払った」と考えます。これが「機会費用」です。稼がない時間はすべて失っている時間だと考えます。これは問題ある概念ですが、便利なときもあって、「書かない」ことは何か別のものを失い、支払っていることになる、という認識をもつこともできると思います。つまり、もし書いていたら身についたであろう技術、知識、現実的な物事の進行、生まれたかもしれないひととのつながり、ひととの応答、これは書かないあいだに常に失われていると考えることもできるのです。それを自覚した上で、やっぱり書く気にならないなら、書かない人生を選択していいし、するべきでしょう。

     ま、ともかく、こういう場を生産的にするためには、まずは「攻防」でなく「攻攻」にするというか、全員が基本的に自分の欲望と意志に基づいた前向きな言葉を放つ、というのが有効だと思います。誰もが向上したい、もっと面白いことがしたい、楽しい人生を生きたいと思うでしょう。その欲望と意志を毎回の「問題」と結びつけたら、自然と明るくからっとした議論が生まれてくると思います。

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  18.  蓮沼先生の登場はまだか…。

     一般的なことばかり書いて具体的には何も提案できてなかったけど、「言葉に窮する問題」を解決したいときには、どこから手をつけたらいいんだろうね。話すことからか、書くことからか。あるいは読むことや聞くことがいいときもあるのか。

     個人的にはツイッターやブログって楽なツールだと思う。ネットにつながれば他に何の準備もいらない。お金もかからない。誰かが変な絡み方してきても無視すればいい。毎日続けると自分の書いたものが自然に蓄積されて、自分がデータベース化され、それを検索すると思わぬアイディアに至ることがある(素材は自分自身なのに)。ログをつくるって面白い。成長度みたいなものの可視化にもなる。

     特にツイッターは、世界中でいま動いていることに参加できて、ひとと会話したり情報をやり取りできるのが単純に楽しい。個人的には自分の欲望が素直に反応してしまうプラットフォームです。自分の欲望、無意識が欲する場所でトレーニングを続けるのが重要なんだろうね。タイムラインやツイートを「編集」する作業ってわたしは大好きです。

     枠組みのしっかりした議論をたくさんこなすっていうのもいいことだと思うけど(欧米の学校教育ってそれだよね)、相手が必要だから難しい面もある。あと、やっぱりインプットだけしていてもアウトプットができるようになるとは思えないな。

     丈夫になるための具体的トレーニング法まで蓮沼くんが議論するつもりだったのかどうかわからないけど、ちょっと書いてみました。好きなことと目的意識を結びつけるのがポイントだよね。わたし自身もまだまだカスタマイズしていきたいと思っています。

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  19. 具体的トレーニング法まで議論したいね!

    このブログには載っていないことなんだけど、
    いま、郷田さんと林くんがメール上で「プライド」について話し合っているんです。

    その内容をざっくりいうと…
    プライドが高いと自負心から、感情的に「なにくそ」となり、言葉に窮することがあるんじゃないかと。

    たしかに!…とわたしは思いました。
    例えばある人が私はいい絵が描けると自負心を持っている。
    しかし他人から「この線はないんじゃない?」とか「あんまりやる気がなかったの?」とか「もっと丁寧にやりなよ」とかコメントされたら、んん…!と口ごもってしまう。

    なぜ口ごもるのかといえば「俺が追求したいのはそういうポイントではない!」とか「そこは大した問題ではない」とか「もっと成功した箇所を見てくれ」とかを思うのだけど、相手はそう思ってくれていないのだから、そう話してもしょうがない…そんな思考手順があると思います。

    話してもしようがない…と思う根拠はおそらく
    「私にしか通用しないことは、相手にとって意味が無い」ということでしょう。
    ここで「私にしか通用しない」のは、言葉でも感覚でも何でもあてはまるはず。

    しかし「しようがない」で終わりたくないので
    ここで議論をしているのです。

    どこを重点にトレーニングするかで言えば、
    「どうやら私にしか通用していない言葉/感覚を、相手にとっても意味を為す」というポイントではないでしょうか。

    …また後ほどつづけます。

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  20. >「どうやら私にしか通用していない言葉/感覚を、相手にとっても意味を為す」というポイント

    この問題集ブログでいいのは、通用していないポイントを指摘してもらえることだね。

    ただ議論の場で、「そうだな」と納得して、「そうだね、そうする」と答えたら議論は終わってしまうし、プライドや心が傷つき奮起するには時間がかかる。これはどうしたらいいのだろう。何が通用してないのか考えるから自分には役に立っているのだけど・・・

    そこで「どうやら私にしか通用していない言葉/感覚を、相手にとっても意味を為す」言葉にするトレーニングについて。
    その「相手」について、これはひとつでないのがいいなと思いました。相手が何かというよりトレーニングの場所の数というか。
    自分の欲望や無意識を素直に開放できる場所(なんとなく気持ちが自由なイメージ、相手のことは半分くらい考える)、勝負して言葉にして果敢に挑む場所(はっきりとした目的と相手がいる場所)、自分の言葉をじっくり生成する場所(でも一番おおきな「相手」を相手にする)、あともうひとつくらい。。

    つまりは、「私にしか通用していない言葉/感覚」を残しておく場所があればこそ、通用していない相手に対して自分を見つめ直して自分が変わったり反論できるだけの余裕が生まれるのではないかと考えました。拠点の話も、それに近かったかも。
    (しかしこれはみなに当てはまることではないと思います。実際にトレーニングでなく実践している人のほうが多いから。「書く」ことや「言葉」に自らずいぶん壁をつくってしまったわたし自身はそこから始めたほうがいいかなと思うだけです。)

    余裕がないと、たぶん、お腹いたくなる。

    ひとまずは。

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  21. >自分の欲望や無意識を素直に開放できる場所(なんとなく気持ちが自由なイメージ、相手のことは半分くらい考える)、勝負して言葉にして果敢に挑む場所(はっきりとした目的と相手がいる場所)、自分の言葉をじっくり生成する場所(でも一番おおきな「相手」を相手にする)、あともうひとつくらい。。

    それらはそれぞれ、どこ/何のこと? 具体的にどこで何をすること? 理論的にはわかるけど、現実的にはよくわからない…。

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  22.  それと、前のコメントでゴーダ自身が書いた「書く」と「話す」は違うという問題はどうなったのだろう。けっこう重要そうだったよね。そのことを含めて具体的なトレーニングの場を考えているのだろうけど…。議論の中で生じた(生じさせようとした)応答をスルーしちゃうのは全体としてもったいないと思います。

     さらに、

    >「そうだな」と納得して、「そうだね、そうする」と答えたら議論は終わってしまう

    しかし蓮沼くんも太田くんもわたしも毎回そんなふうに議論を終わらせているつもりはないと思う。複数の参考例がまわりにあると思います! 簡単に言えば、ひとの面白い部分と自分の面白い部分を反応させて第三のものをつくっていくこと。するとその第三のもの自体もひとにさらなる反応を引き起こさせる。その連鎖が楽しいし、役立つ。それが応答ということではないでしょうか。

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  23. 林くんが引用した勝間氏の、
    _______________
    失敗をしたということは
    ・自分の状況判断がまちがっている
    ・自分の予測がまちがっている
    ・自分のスキルが不足している
    _______________

    これはとても効果的に思えます。
    大事なのはいろんな方面からせめて行くことでしょうね。
    あの手この手で検討していかないと難問には太刀打ち出来ないし、偏った考え、見落としているポイントを見つけるのに良い。

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  24. 「私にしか通用しない言葉を、相手にとっても意味を為す」には、あの手この手で攻めて行くのがいい。

    ということは「私の複数化」について考え進めてもいいね。あの私、この私の登場。あの私が破れても、この私がいれば致命的なダメージは避けられますね。

    ________________________
    現代生活の課題は、「時間」を複数化することである。それは「わたし」を複数化することでもある。
    引用『林立騎 ハヤシヤ』
    http://tatsukihayashi.blogspot.com/2010/12/1_06.html

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  25. 「言葉に窮する問題」に対して、丈夫なるために「あの私、この私」の登場が効果的だとすると…

    ツイッター、ブログ、メール、フェイスブックなどいろんな「場所」を使うのはありだね。
    あと論文の作法もとても役立つと思います。理論をすすめるには、まず主語と述語をしっかりさせないとならない。話し言葉だけだと日本語って不思議な柔らかさがあるので、たまに主体と客体が入れ替わったりするしね。

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  26.  今後の議論の流れについて、二つ提案があります。

    1)ゴーダのまわりにできている問題を面白く役立つものにする。
    2)しかし「言葉に窮する問題」をそこに留めず、拡げる。

    どうでしょう。同意してもらえるかどうかはともかく、順番に説明します。

     まず1。これまでの流れを整理すると、「分が悪い言葉でもとりあえず発してみるということです」(太田)「必要と感じてなくても、詰まらなくても、喋ったほうがいいと思ったのです」(蓮沼)「高い技術を獲得したりひとに何らかの価値を伝えるためには言葉が不可欠だから、そういうことに興味があるひとは言葉にこだわるしかない」(林)「なにもしないこと(=100%の失敗、学びなし)を選ぶよりは、何かやってみて、うまくいったらいったでいいし、失敗したらそこから学ぶ」(勝間)という、「きっといいことあるからやってみよう」路線が一方にあり、他方に「「書く必要」が、言葉のトレーニングという必要でしかないと、なにも言いたいことがなく、言葉に窮してしまいます」「議論の場で、「そうだな」と納得して、「そうだね、そうする」と答えたら議論は終わってしまうし、プライドや心が傷つき奮起するには時間がかかる。これはどうしたらいいのだろう」(郷田)という、「語る欲望がありません」路線がある、と大別されると思います。

     語る欲望がなければ具体的なトレーニング法を論じても効果は低い。そこで問題は、語る欲望は人為的に高められるのだろうか?ということです。そもそもいかにして語る欲望は湧き出るのか? たとえば蓮沼くんが「喋ったほうがいいと思った」のはなぜか。太田くんが「分が悪い言葉でもとりあえず発してみる」気になったのはどうしてか。ここがゴーダには未体験ポイントなのではないでしょうか。蓮沼くんが指摘していた「いろんな方面から攻める」や「わたしの複数化」も応用できるかもしれない。どこか欲望が湧き出る特定の「角度」を見つけることができるのかもしれません。「何も言いたくない」と「何か言いたい」は実は紙一重、反転可能なのではないかとわたしは思うのです。

     逆に言えば、どうしてゴーダには語る欲望がないのかが気になります。それは全然「普通」のことではないと思います。むしろ特殊なことです。ゴーダなりの理論をぜひ聞いてみたい。この「なぜ欲望があるのか/ないのか」というメタレベルを議論すると有益なのではないでしょうか。このタイミングで太田くんが旅立ってしまったことは議論にとっては残念ですが…。

     ちなみにわたし自身が書いたり話したりする欲望があるのは、たぶんひととのやりとりから何かを学ぶのが好きであることや、何か変身願望/移動願望みたいなのがあって、常に変わりたい、動きたいと思っていて、そのためのツールとしてもっとも効果的なのが考えて書くことだったのが理由です。ただし、書くことの重要性や楽しさに気付いたのは比較的遅い。読んだり見たりする受動的経験のほうが自分が変わるとずっと思ってました。しかし違いますね。アウトプットするために必死で考えて書くことの方が強力です。

     また長くなってしまったけど、さらっと軽やかに議論を進められるといいと思います。第二点(「「言葉に窮する問題」をそこに留めず、拡げる」)についてはまたあとで書きます。

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  27. 2)「言葉に窮する問題」を拡げる

     これに関してはわたしも明確な問題意識ができているわけではないのですが、自分たちの過去の経験を語り合い、すでに行っている実践を紹介するだけではちょっともったいないと思いました。

     以前から何度か話したり書いたりしてますが、抽象的な空中戦を繰り広げるための言葉ではなく、「物事を具体的に進める言葉」「理念や価値をかたちにする言葉」「アイディアをサービスやお金につなげる言葉」「問題を解決する言葉」といったものが必要で、少なくともわたしはその点に関してとても言葉に窮しています。

     これは文系理系を問わず、日本の教育の問題でもあるでしょう。極端なことを言えば、この言葉をもたないから多くのひとがサラリーマンにならなければいけないのではないでしょうか。この言葉を鍛えることは、「身を立てる」ことや「時間をつくる」ことそのものに直結していると思います。

     わたしはこの言葉をとても鍛えたいです。どんな鍛え方があるでしょうか?

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  28. 二本立ての提案、賛成。

    まず、私個人の「喋ったほうがいいと思った」のは、
    格好良く言えば「普遍」に至りたかった。
    10代の実感としては「みんなと同じステージ」に行きたかった感じ。
    みんなが言葉を使ってやり取りをしているであろう、あのステージへ参加したいと欲望したのです。

    しかし、みんながやり取りしている憧れの世界も、けっこう底の抜けた世界であったのね。
    括弧付のステージだったのか…と分かったのは20歳から。

    そして私が抱えている「伝わらない」困難さも、どうも大勢が同様に抱えていることも知った。
    私はまずルールでつまずいていたが、もうひとつの「伝わらない」がある。
    それは、そもそも相手と私は違うということ。原理的に異なるので、分かり合えることはないということ。
    やはり底が抜けていた。

    そうなっていくと「普遍」「同じ」ってなんだろう? まったく困ってしまった。
    そして通常のやり取りでは意味を為さないのなら「超越」するしかないね、と思うようになる。
    その「超越」によっていろいろ無視をしてみる。すると削がれた先で何か「秘密」がでてくるんじゃないかと。それは「原点」のようなものでもあり、そこから「やり取り」がスタートできるんじゃないかと希望を持つ…。きっとその秘密の実感に「普遍」「共通」があるんだろうな。

    最後は試みの話になってしまった。

    しかし、あの手この手で攻めて、充実した関係を築きたいくらい、言葉って魅力なんだと思う。

    このブログもコメントのやり取りが中心だしね。

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  29. 続き:やり取りについて

    言いたいことは、言っているうちに生まれてくるもの。語ることがないからって悩まなくてもいいと思う。
    たしかに考えがないと話せないだろうが、「やり取り」自体が目的化してもいいのではないかな。
    やっぱり何と言っても好きな人と「やり取り」をすることこそ喜びがあるのでしょう。と私は考えますぜ。

    例えば、私には尊敬する師匠がいます。
    師匠に会いに行く前はドキドキします。
    そしてどーしても話したい。どーしても「やり取り」を成立させたい。
    そのとき頭フル回転です。相手はレベルが高いから、ヘタな話、詰まらない話には応答しない。
    何を伝えるのか、どう伝えるのかを必死で考えます。そのときの本気度っていったらもう。
    いいやり取りのため、深く近く「相手」について考えます。
    それで得る報酬は凄まじいですね。
    師匠ではなくて、好きな女の子/男の子でもいい。嫌われるかもしれないリスクがあるからこそ、
    また好かれたいという欲望があるからこそ必死で「やり取り」について考えるのでしょうね。

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  30. 2)「言葉に窮する問題」を拡げる

    「拡げる」って表現いいね。

    >「物事を具体的に進める言葉」「理念や価値をかたちにする言葉」「アイディアをサービスやお金につなげる言葉」「問題を解決する言葉」といったものが必要で、少なくともわたしはその点に関してとても言葉に窮しています。

    この林くんのコメントを読んで思いついたのが一つ。前回の問題16で投稿した「衣食足りて礼節を知る」。これは、ざっくりいうと環境があって初めて考えることができるということ…。

    この考えを借りると、もし「アイディアをサービスやお金につなげる言葉」をつくりたいのなら、それを実行している現場に行く、取材する。もっといえば現場をつくってしまう。そして、その現場から「言葉」がつくれるようになる…。

    この発想は自由で夢見がちなものですが、
    まず現場に自分が立てるかどうか、その差は大きいのではないでしょうか。

    私の今「窮する問題」は後ほど…

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  31. >もし「アイディアをサービスやお金につなげる言葉」をつくりたいのなら、それを実行している現場に行く、取材する。もっといえば現場をつくってしまう。そして、その現場から「言葉」がつくれるようになる…。

     ほんとそうなんだよね。頭でっかちに脳だけ使っていても仕方なくて、からだが動けば頭はついてくるのでしょう。「まず現場に自分が立てるかどうか」というのはまったくそのとおりだ。じゃあどうやって現場に立つか、どの現場に立つか、どこからアクセスするか、ということで、これもきっといろいろあるんだけど、やはり自分のからだが向かおうとする道筋に反応するといいのだろうね。

     ちょっと宗教っぽい、あるいは井上雄彦「バガボンド」的な話だけど。

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  32. >どこか欲望が湧き出る特定の「角度」を見つけることができるのかもしれません。「何も言いたくない」と「何か言いたい」は実は紙一重、反転可能なのではないかとわたしは思うのです。

    「紙一重」という言葉でわかってきました。たぶん「語りたくない」「言葉にならない」ことだからこそ「語る欲望」が潜んでいるはず。なぜなら言葉にならないことほど大事なことだから。

    ちょっとちがうかもわかりませんが、こんなことがあります。たとえばものすごい映画や本に出会ったとき、なにも言えず、ただただ興奮して歩き続けるというような経験。そんなとき、ごうごうと燃えたぎりながら、「とやかく何も言う必要はない」「全身でうけとめた」「この前と後ではちがう」と感じていながら、しばらくして落ち着いてくると、「このすごい体験を誰かに話したい」、「わたしもこれになんとか応えたい(こんなものがつくりたい)」と思いはじめてきます。

    この時に同時に生まれる「これを誰かに話したい」と「これに応えたい」、どちらも正直な気持ちです。
    「誰かに話したい」というのは、とても素直な自然な欲望、「こんなところがよかった、あなたの意見も聞いてみたい、もっと理解を深めてみたい、とにかく私はこれがいいと思っているのと知ってほしい」などの気持ちがあります。

    一方で「これに応えたい」というのは、その映画なり本そのものが、自分の「相手」となっていて、欲望というよりも野望にも近い、人生をかけた大きな目標のようなものに集約されていきます。これも大事なことですが、その気持だけに傾いていくと、理想や探求や野望との、時間をかけた内部の闘いがはじまってしまい、外部や現在のわたしを置き去りにしてしまいがちです。その溝が深まるほど、もうひとつの欲望は時間切れとなってしまいます。

    しかしこのふたつの欲望は、本当は助けあうべきものなのだと思いました。「応える行為」が、たとえば「つくって誰かにみてもらう」ことにあるとしたら、その「誰か」、「自分以外の誰か」に、自分にしか通用しない感性をぶつけてみるということでもある。さらに「つくって見てもらう」には、自分だけでは満足できない、おおきな「語りたい欲望」が潜んでいる。

    「誰かに話したい」という気持ちで言葉を口にしていくのは、その大きな目標を育てるためのことだと考えます。この欲望のいいところは鮮度がいいこと。鮮度がいい時に人に話すほど、収穫は大きいです。(みながネットのツールを活用する理由はそれがひとつあるのか、と思いました。「書きたい」、ひとりごとでもいいから出したい、さらにやりとりの可能性もある、ということですね)
    ごった煮の頭の中を、ひとに説明することで整理されて、新たな発見をする、流れをみつけることができるというのは何度も経験があります。

    「誰かに話したい」は、鮮度が大切です。時間が切れたら、もうそれは欲望でなくなってしまいます。
    「語る欲望」はあったけれども、時間がたって、なくなってしまう・・・
    しかしこの「欲望」にこそ、いちばん大事な「言いたいこと」「得たこと」がひそんでいることは、なんとなくわかる。

    だから「語る欲望」のチャンスを逃さないようにするために、「語る欲望の鮮度を保った状態で人に話す」。話す相手がいない場合は「書く」。

    「語る欲望」が、欲望がないのでなく時間切れという理由だとすれば、わたしにもトレーニングの可能性があり、それは自分にとって役に立つものになると思います。

    まずは「語る欲望」について思ったことをかきました。

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  33. これからは機会を逃さずに発信していこうと。話したいことは話す。では言葉に窮するようなときはどうしますか?郷田さん、

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  34. >「語る欲望」のチャンスを逃さないようにするために、「語る欲望の鮮度を保った状態で人に話す」。話す相手がいない場合は「書く」。

    うん。そこで、いくつか前のコメントで質問したとおり、どこで何をするのだろう? 「すぐに発信した方がいい」という命題は、理論的に理解されたときよりも現実的に実行されたときに意味をもつと思う。そのままの勢いで、どうするのか、何を始めるのか、この場でスタートを切ればいいのではないかと思いました!

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