2011年2月28日月曜日

問題16 拠点となるところ

今回は「拠点」について考えたいです。
実は、今回の問題集のテーマを考えていて、自分のいまの関心のテーマは「旅」や「移動」だったのでその話をふりたいと考えていました。しかし、場所の移動について考えているうちに、「自分の拠点」について気になりはじめました。なぜ「移動」や「旅」に惹かれるのか。そのことを考える前に、違う場所に行く前の「いまの場所」とはなんだろうかと思いました。旅や移動が、いま戻ってくる拠点が前提にあっての行動なのか、違う拠点を探してのことなのか、それはどちらもありえるでしょう。とにかく、いま自分がいる「拠点」というのがそれぞれあると思います。

私自身は、いま拠点となっているのはおそらく仕事で、そこを拠点としながら、勉強をしたり他のことを考えたりしている。勉強会も映像を撮ろうとするのも、仕事という拠点を中心に考える。そうすると時間とか体力とか考えて行動するようになることが弊害になったりすることもある。自然と自分の一番重点をおくものに寄り添って拠点はできていくのかもしれないけれど、複数の活動をひとつに絞るのは難しい。でも「拠点」のおきかた次第で、やれることの幅が拡がるかもしれないと考えます。場所でも時間でも工夫の余地がある。

「拠点」となるところ、作業場、家族、ネット、会社、学校、共同体、自宅の部屋、さまざまに考えられますが、今回はそれぞれの拠点についての考えを聞かせてください。いま自分にはこういう拠点がある、これからこんな拠点で活動したいと考える、ここを拠点にやると他の活動もうまくいくと思う、理想の拠点はこんなところ。などです。たとえば蓮沼くんはアトリエを借りて制作をしている、林くんはネットで発信をしている、太田くんも新たな拠点をつくろうとしている、そんなそれぞれの活動の具体的な実感も交えてほしいとおもいます。

24 件のコメント:

  1.  一番の拠点は家庭。あとは複数。

     けどこれは感覚的な回答です。というのも「拠点」という言葉でゴーダが何を意味しているのか定義が曖昧だから、あまりうまく答えられない。プラトンの著作のどれかでソクラテスが「まずは言葉を定義しよう。そしてそれから議論しよう」と言ってました。

     ただ、今書いたことと矛盾するようだけど、言葉の定義が曖昧なせいで「何を書いたらいいのかわからない」というよりも、いまいち「何かを書きたい気持ちにさせる問いになってない」という感じなのかもしれない。もちろんいつもの自分の問題設定にも跳ね返るツッコミだけどね。お互い批評しあって変えていけばいいと思う。

     問題を提起するとき、どこに時間と体力をかけて「何かを書きたい気持ちにさせる」文章をつくるか、これは難しいけどとても重要だと思う。そこにひとつの「時間」をつくって、そのなかでひとを動かさなければ、議論は始まらないし発展しないから。そこでは自分の問題意識だけでなく、やはり「他者性」とか「巻き込む技術」とか「楽しませる姿勢」とか、有り様はいろいろでシリアスなものもユーモラスなものもあるだろうけど、常に「自分が今やろうとしていることはひとを動かすだろうか」という問いかけが必要なのだろうね。

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  2. 私の今の拠点は、学生、編集者、Private Press Plannerという3つの立場が考えられます。場所で考えると、大学や家を作業する中心としていて、これも拠点になると思います。

    複数の拠点を組み合わせて有効に使うことは良いと思っていますが、その実現のためには、いろいろな拠点を、拠点として使ってみながら経験していくことが必要になってくると考えています。

    また、東京にいると、どの都道府県の出身かといった話題によく接しますが、「地元」も拠点として考えられるのでは・・・とかと、これを書きながら考えています。

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  3.  太田くんの「拠点」というのは「活動」ということ?

     「拠点」の意味がもう少し輪郭をとらないと、「複数の拠点を組み合わせて有効に使うことは良いと思っていますが、その実現のためには、いろいろな拠点を、拠点として使ってみながら経験していくことが必要になってくると考えています」というのも曖昧な、一般論的な感じを受けてしまうんだけど、どうだろう?

     「拠点」って面白いと思うんです。直観的に。だからこそ議論の質を上げていきたい。

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  4. 〉太田くんの「拠点」というのは「活動」ということ?

    ある立場から何かにアプローチする原点を「拠点」として考えました。

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  5. 〉「拠点」の意味がもう少し輪郭をとらないと、「複数の拠点を組み合わせて有効に使うことは良いと思っていますが、その実現のためには、いろいろな拠点を、拠点として使ってみながら経験していくことが必要になってくると考えています」というのも曖昧な、一般論的な感じを受けてしまうんだけど、どうだろう?

    これについては、上で挙げた「拠点」を複数持つことによって、物事に対するアプローチの仕方を選べたり、組み合わせたり出来るようになる!という考えでした。

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  6.  「ある立場から何かにアプローチする原点」か…。でもそうすると「じゃあ原点って何?」という話になるかもね。

     ただ太田くんは、「複数持つことによって、物事に対するアプローチの仕方を選べたり、組み合わせたり出来るようになる」というその複数性、「拠点の複数性」みたいなものを大事にしているんだなということはわかって、そっちの方が大事だね。

     と同時に、ぼく自身は、茂木さんが「安全基地」と呼ぶような、かなり信頼できる特別な「拠点」が一つあることも重要だと思います。「とりあえずそこからなら安心して物事を始められる」という場所を誰でも必要とするのではないだろうか。

     ひとまずゴーダの登場を待ちたい。もうちょっと議論を転がしたいね。

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  7. わたし自身は、移動や旅を意識して始めて、自分の「拠点」はなんだったろう?と考えました。なので「拠点」を、「いまの場所」「なにかするときの出発地点」というような意味でとらえています。場所は、家や職場といった文字通りの「場」であり、出発地点は「いまの自分自身」という意味をもっています。
    もちろん原点なのですが、さらに「いま」「現在」というのがともなった場所を「拠点」と呼んでいて、イメージとしてはアクティブで、血がかよっている、生活がある場所と考えています。

    そのとき旅や移動は「拠点」の外部(周辺)の運動。拠点を豊かにしたり、拠点を変えることができる切り札のようにも見えてきます。
    それでもまずは「拠点」。「拠点」像の輪郭をつくりたい。
    わたしは「家」とか「部屋」に近い、自分を守れる場所と、さらに「仕事場」「秘密基地」「司令部」みたいな勝負かけられる道具が揃っている場所を理想として思い描きましたが、具体的にまだよくわからない。

    考えを整理すると、初めにわたしが書いた、「仕事を拠点として」、というのはちょっと単純すぎて言い表せていなかったなと思えてきました。しかし、自分の身近な具体的な場所について、その「拠点らしさ」を見出すことは必要な気がする。組み合わせるにも。

    そういう具体例はありますか?いまいる場所の拠点らしさのようなもの。

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  8.  正直、全然わからない! わからなくて笑った! これを読んでくれているひとたちや、蓮沼くんや太田くんには伝わったのだろうか…。わたしはとりあえず議論がもう少し輪郭をとらないと何を考えようにもちょっと難しいかも。話がさらに進むことを期待。

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  9. >これを読んでくれているひとたちや、蓮沼くんや太田くんには伝わったのだろうか…。
    ・・・私もわからないです。


    「安全基地」に関連しますが、自分が自分らしく振る舞える拠点を持つことも重要だと思います。

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  10. 拠点というのは生命活動に即したもんだと思います。
    休む、ご飯をたべる、仕事をする、などなど。
    だから旅行中も拠点は必要のはず。
    移動中と言っても、生き物として睡眠は必要なのでホテルを使います。
    ご飯やお酒もレストランを使います。
    トイレだって座って用を足します。

    そういえば先日、川俣正さんの連続対談イベントで
    japan timesの記者イーデン・コーキルさんがこんな話をしてくれました。

    日本について、外国人旅行者たちにインタビューしたところ、みな口をそろえて言うのが日本にはベンチがない、らしいです。ベンチがなくて休憩も簡単な食事も出来ないと。
    (太田くん、ベンチがたくさんあって外人に人気がある街ってどこだっけ?)

    移動者にとっては、休憩できるベンチは大切な拠点のひとつ。
    私の持論ですが、旅行とは、その行く先々に自分の習慣を入れ込む働きがある、と。
    初めて北京へ行ったとき、現地で苦労して宿をとって、荷物を置いて、トイレを済ませて、ビールを体に入れたとき、ようやっと安心した覚えがあります。
    韓国旅行のついでに寄った中国に圧倒され(デカイし厳しい)、どうしようもなく不安だったとき、それ以前に毎日飲んでいたビールを、新天地でも飲んだ時、ふっと落ち着いたのです。
    翌朝、歯を磨いたことで、またさらに落ち着きました。落ち着くと地に足ついて行動ができます。

    つまり習慣が行える場所は、落ち着ける場所。それが拠点かな?とも思うのです。その意味でノートパソコンは持ち運べる拠点です。開けばどこだろうが習慣の作業が可能です。

    まずは拠点について私の思うことを。

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  11. >ベンチがたくさんあって外人に人気がある街ってどこだっけ?
    自由が丘のマリクレール通りですね。

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  12.  「すべては拠点である」という話になっているような感じで、それは一面ではとても面白く自由に議論できる前提だと思いますが、他方で枠組みの中で議論を発展させることからは離れつつあるね。まあそこはホストの舵取りにお任せです。

     蓮沼くんが「習慣」ということを言ったので、そこから思いついたのですが、わたしの重要な「拠点」は「記憶」です。このブログの議論でも、記憶を再点検し再編集して出発点にする、という意味のことを書いたことがありました。自分が何かを始めようとするときや、どうしたらいいのかわからないときに、現在地を再確認するために、自分がこれまでやってきたことは何だったのか、自分にはどういう能力があって、どんな性向を備えているのか、自分の中の記録保存室に下りていって、アーカイブを見直すことがあります。内側に閉じこもってばかりでも仕方ないわけですが、過去の出来事を時間の経過とともに何度も見直すと、その都度別の側面が見えたり、当時は気付けなかったことを発見できたりします。そしてそれによって「拠点」を固め、次のステップを踏み出すわけです。これまではその作業のことを「記憶の再編集」とか「時間づくり」とか呼んできましたが、「拠点づくり」と呼んでもいいのかもしれません。

     それと、蓮沼くんは「拠点と移動は決してまったく別のことではない」という意味を言ったのだと思うけど、わたしもそう思います。というのも、上記の「記憶の再編集」とはまた別の話になりますが、わたしは「自分はどこかで止まってはいない、今もちゃんと移動している」と思えることに大きな安心感を覚えるからです。わたしは「流れの淀み」や「停滞」を生理的に嫌悪していて、物事が動き続け、流れ続けている状態をむしろ正常なことと感じます。したがって、わたしにとっては「移動」こそ「拠点」そのものだと言うこともできるのです。一番最初のコメントで、感覚的には家庭が拠点だと書いたけど、家庭も常に物事が動き、移動し続ける場です。

     うろ覚えだけど、ニュートンにとっては「物体がちゃんと止まっている」ということを厳密に考えるのが重要でした。つまり、地球上で静止しているように見える物体も、実は地球の自転・公転と同じ速さで移動しているわけで、まったく静止していない。それを「静止」と呼ぶことに彼は我慢ができなかった。「立ち止まってるつもりでも乗っている船が動いている」という問題。あるいは「動く歩道」問題と呼んでもよいでしょう。ゴーダの「拠点」という問題提起にも似たもろさを感じます。つまり、拠点そのものも移動し続けているのではないか? 拠点と移動の区別を本気でできると思っているのか、あるいは議論の便宜上のものかわからないけど、そのあたりの設定の曖昧さも議論の枠組みの弱さにつながっていると思う。わたしは万物流転から物事を考え始めるタイプです。

     まあそれはともかく、さらに別の話をすると、一番大事なことは、蓮沼くんが書いたコメントはわたしをインスパイアしてくれた、ということです。蓮沼くんのコメントはわたしに何か昔のことを思い出させたり、言葉を返したい気持ちにさせたり、今まで考えてもみなかったことを思いついたりさせてくれました。これが一番大事です。別に問題とコメントを積み上げること自体には何の意味もないんだから、こういう応答ができるだけ生じることがわたしの楽しみです。このブログを続けるモチベーションです。

     わたし自身がそういう応答をどれだけひとから引き出せているかはわからないけれど、ゴーダや太田くんや臼井くんやその他これを読んでるひとたちとのあいだでももっとそういうやり取りが増えたら嬉しいです。ほんと、ただ質問つくって答えるなんてつまらんことのために、こんな時間のかかることを始めたわけではないからね。

     また長くなってしまった!

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  13.  あれ? 一晩たっても次のコメントが出てなかったか…。

     太田先生もこのあたりであらためてガツンとどうですか?

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  14. この2日間、実は新しい「拠点」を作り、そこにびっちり入り浸っていました。
    この拠点は、同じゴール(本日の入稿)に向かって、もう一人の人と共有しました。拠点を共有すると、前に突き進むエネルギーがより強いものになります。
    幼い頃の秘密基地もそんな意味を持っていたのかなと考えていました。
    誰かと共有した場所としての拠点は、意図的に作り上げて利用するのがいいなと思ったのです。


    林さんが書いた、「インスパイア」については、全くその通りだと思います。

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  15.  蓮沼くんが次の問題を出してくれた今こそ、あえてこの問題を少し引っ張ってみる…。

     太田くんはいつもパッときれいなドアを見せてくれるんだけど、その奥がどうなっているのか、それがどんな部屋なのか、あまりよくわからないことがあります。とてもきれいな、感じのよいことを言っている。文句もないし、異論もない。しかし物足りなく感じるときがあります。正直な感覚を言葉にするなら、「これは太田くんが言わなくてもいつか誰かが言うだろうな」というときがある。太田くんにしか言えないこと、個人的な経験や深い実感をともなった考えは、もう少し違う感じで出てくるんじゃないかと期待してしまいます。

     太田くんには、凡百の意見を叩き潰すつもりで、ガツンと、「バカめお前たちはこんなに深くこの問題を考えていなかっただろうバカめバカめ死ね死ね死ね」という必殺の一撃を打ち出してほしいのです。われわれには議論のマゾヒストである権利があるのです。

     ちなみに、蓮沼くんの話は対照的にドアがなく、いきなり部屋の奥に連れ込まれる感じですね…。

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  16.  あ、ちなみに、だからといって今回のこの問題についてもう一回書けと言っているわけじゃないよ。お互いいろいろ予定もあるし、時間は限られてますからね。(書くなと言ってるわけでもないよ。)

     今後の太田くんとのやり取り一般についてたいへん楽しみにしていますということです!

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  17. 林さんに指摘されたことは、自覚していて、問題意識は持っています。
    それをわかりやすく指摘してもらえたのはチャンスなので、
    ここではまず感謝をしておいて、そして後で逆襲します。

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  18.  いつかどこかで不意打ちされることを楽しみにしてます!

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  19. 議論については、次の問題で引き継いで考えるとして、拠点についてもう少し。

    林くんの、常に動きつづけているというのは、本当にそうです。
    船という例を借りると、わたしはその動きつづけている中で、ちゃんと舵がとれなくなって、流されたり沈んだり、しばしば船から落ちて溺れていたりします。それで「拠点」の問題を提出しました。みな拠点をどうつくっているのか?という疑問から。最初は足場を固めたいくらいの気持ちでしたが、「拠点」づくりはけっこう切実な問題でした。

    みなから出てきた、誰か信頼できる人と共有していること(家庭もそうです)、習慣を取り込める落ち着ける場所であることという「拠点」のありかたは、本当に理想的です。ただし、「移動」や「変化」とともに「拠点」を更新しつづける。
    ここまできました。

    それで「旅」や「移動」についての興味からこの問題が発生したことにもどってこれました。わたしは「旅」の物語がとても好きです。
    「東海道中膝栗毛」で、弥次さん喜多さんは、ひょいと軽く「拠点」をつくってしまう。「移動」しつづけながらも、彼らはいつも落ち着いていて、自分色にそめてしまうというか、その場所に馴染み、人と出会い、酔っ払ってぱっと騒いで次に旅立って行きます。
    彼らはその場所場所で「うた」をよみます。内容は笑えるくだらないものです。起こったおかしなできごとを、笑いながら自分でうたう。弥次喜多の「うた」、これは言葉の上で拠点づくりをして、拠点を軽やかに面白く移動させてしまっていたんではないかと思いました。起こった出来事だけでも十分おもしろい、でもそれ以上の次元で進めるために「うた」があったように思えるのです。蓮沼くんの中国のビール、「うた」、そういう素材が(旅や移動のともなう)「拠点」づくりの素地になるのだと思いました。

    飛躍しすぎましたが、「移動(旅)」と「うた」の映画をつくろうと思っていて、その上で「拠点」(映画だと主人公?)のある姿ということについて考えていたのでした。

    映画だけでなく、自分自身の生活にも、旅ものの楽しさを取り込みたいです。

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  20.  ゴーダのコメントをとても面白く読みました。たいへんよかったです。

     ただ、それでも敢えて言うと、「切実」な「わたし」の「問題」という感じが強いのは、どうでしょう。正直、「それが君自身の切実な問題なら、それは親しい友人に相談したまえ。ここでわざわざ議論することはない」と思うことも、わたしにはあります。つまり、結局のところ、「わたしは映画がつくりたい。そのためにこの問題が重要だ」という枠組みで、閉じカッコをつけてしまったけど、少なくともわたしは、ゴーダの映画づくりに協力するためにコメントを書いたわけではないのですよ。

     たぶんプライベートなものをどれだけパブリックなものに昇華して共有可能で公開に価するものに変えていくかという「コンバーター(変流器)」の使い方が重要で、ゴーダが最後につけた閉じカッコは、逆にパブリックをプライベートにごっそり取り込んでしまう動きではなかっただろうか。

     言いたいことがうまく言えないとか、言葉で表現することに困難があって自分のなかでいっぱいいっぱいになるとか、いろいろわかっているつもりです。ただ、あまりに「わたし」で閉じてしまうと、一応オープンでやっている意味とか広がりが少し減じられてしまってもったいないのではないかと思いました。

     それでも、ゴーダのおかげで「コンバーター(変流器)」という概念、メタファーに至ることができたので、やっぱりとてもいいコメントだったと思います。ほんとに。

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  21. >>ただ、あまりに「わたし」で閉じてしまうと、一応オープンでやっている意味とか広がりが少し減じられてしまってもったいないのではないかと思いました。


    それはたしかにそうでした。
    問題の提出者が議論の最初と最後にわたしという枠をつけてしまったのは失敗だったけど、少なくとも自分にとってはこういうことに役立ちそうだということです。

    少し戻って、「ビール」や「うた」という拠点をつくる媒介を見出すことは、誰にとっても拠点づくりに役立つと思いました。そのあたりで、なにか思うことあればまた聞かせてください。

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  22. 養老孟司さんが著書『超バカの壁』で「衣食足りて礼節を知る」が重要だと言っています。

    これは衣食がしっかりしていないと礼儀知らずになる、下品になるという意味ではなくて、
    衣食が足りないうちはまともな考えはできないのだということと書いています。

    つまり意識だけで、何とか礼儀正しくしようとしても、体が整っていないと上手くいかない。
    解剖学者養老さんは体のことを無意識/自然と説明しています。対して脳は意識であり、人工。自然をないがしろにすると、その自然の上に成り立っている人工もおかしくなるというのが養老さんの主張。

    なので脳の立場になれば身体が拠点です。拠点となる場所はその身体が衣食足りることが条件になりますね。だから習慣がちゃんと行えないとならない。

    きっと「うた」は、衣食足りないと歌えないでしょうね。どんな拠点をつくるかで、映画の面白さはだいぶ決まりそうですな。

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  23.  蓮沼くんは「うた」は拠点ではないというのだね。なるほどね。

     それとはまた別の話ですが、率直に言って今回の「拠点」という問題に関してわたしが一番気になったことは、ゴーダに議論の「軸」がないことです。最初の段階では明らかに「拠点」と「移動」を対置させていたのに、後半では「拠点」が「常に動きつづけているというのは、本当にそうです」と言うし、「(旅や移動のともなう)拠点づくり」という、いろんなものを同時に取り込んだような表現も、正直わたしにとっては意味不明です。

     議論には軸があったほうがいいと思うんです。自分の最初の考えはここまでで、その先この部分をこの人からもらって修正して、さらにこっちを自分で付け加え、そして今の結論に至ったとか、あるいは最初の考えとここはまったく違う別の考えにシフトしたというふうに、多かれ少なかれ明確化できたほうがいい。軸がしっかりしているほどひとは学べるし、軸そのものをずらせます。すべてを曖昧に取り込み続けると、結局は自分でもどこからどこに進んだのかわからないし、相手も自分の発言がどう役に立ったのか知りえません。

     議論として言いたいことは言い残さないのがこの場だと思うので、付け加えました。わたしは依然として、ゴーダが映画をつくるために必要なのは言葉だと思っています。言葉がなければ軸ができず、軸がなければ物事は進まない。きつい言い方かもしれないけど、「映画で映画に応答する」というのは幻想だし誤魔化しだとわたしは思います。拠点としての言葉がもっと必要です。

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