2011年2月11日金曜日

問題13 素材と付き合う技術

『問題9素材の欲望』では様々なヒントを持ったコメントが提出されました。
「素材と出会って初めて、欲望が生まれるのではないか」という仮説のもと、あなたにとっての素材を発表してもらいました。そのコメントの中で一番の収穫は「わからないが惹かれる」という共通ではないでしょうか。例を挙げると…

「わたしがハインリヒ・フォン・クライストの作品を好むのは、意味不明でわからないからです」(林君)
「人も環境も生活も、未体験の領域は非常に刺激的なものなんだと実感しました」(太田君)
「自分とはまったく違うものなのになぜか惹かれる気になる」(郷田さん)
「公園に住まう鳩の群れにいつも変な気持ちを抱いていたのです」(蓮沼)

これらのコメントで説明される素材とは「意味不明」で「自分とはまったく違うもの」で「未体験の領域」で「変な気持ち」を抱いています。ここで共通して言えそうなのは、正体が分からない、だからこそ惹かれる素材なのだ、ということではないでしょうか。クラスの気になる子は恋愛対象になりえますが、その逆は恋愛対象にはなりえない…と。お付き合いしたいという欲求は、相手を知りたいがため。では何を知りたいのか、実はそれが問題だと思うのです。ただし、そこへ行き着くまでは時間がかかります。

「素材と出会う」のステップは経過したとします。
次のステップは、どうやってその素材と付き合っていくかです。
付き合うというのは=時間がかかるようです。

あの万有引力の法則を発見したニュートンさんは「りんごは落ちるのに、なぜ月は落ちないのか」と疑問に思ったそうです。これは始まりの素材との出会いです。それにしても「月」と「リンゴ」を同列して疑問に思うこと自体が凄まじいですね。そこから、考え続けて/付き合い続けて、月は落ち続けていることを発見したのです。リンゴと同様に落ち続けているが、地球も円運動をし続けているので、いつまで経っても落ちてこないのだ。と、知り得たのです。すごい話です。

出会った時、素材は素材に過ぎません。
ものにするためには、知り得るためには、付き合わないとならないようです。
そこで素材と付き合う術を持っているなら、それぞれの専門立場から意見交換しませんか。
ものにするためには、どんな技術を用いていますか?
専門性ゆえ容易には真似できないまでも、技にこめられた秘密に触れるだけで良い触媒になり得るのではないでしょうか。

まず、私から披露しますと、それは“ものをよく見続ける”ことです。
私は絵画を専門にしています。絵を描くということは対象をよく観察する必要があります。
そして精密に描写するなら数時間を要します。
まず普段の生活で、同じ素材(モチーフ)を何時間も観るなんてことないでしょう。
しかもそれを紙に記録していく。そんな過程をずっと過ごしていくと、ある瞬間、ものがよく見えるようになるのです。素材の細かいところまでピントがあって、まざまざとした質感を伴って見えてくるのです。この体験に比べたら普段のものを見るというのは、記号的に見ているに過ぎません。
ガラスのビンという記号的にモノを見る場合と、素材の質感をまざまざと感じながらビンという意味を再構築して見る場合は、報酬の度合いが異なります。このようにして見て描いた場合は、作品としてもいい結果を持ちます。

この技術のいいところは、じっくりと見ることで、観念的に見ている素材を一度解体させることです。なにか不思議な素材があるとしたら、何時間もそれを見ることで、その不思議さの秘密を知り得ることができるかもしれません。

こんな具合で、あなたの素材との付き合う術があれば、聞かせてください。

19 件のコメント:

  1. 私の、素材との付き合う術は、「関連づける」ということです。

    私は編集者を名乗っています。「編集」という作業を進めていく際、素材を他の素材と関連づけることで、素材の立ち位置を確認します。
    素材そのものを見つめても、新しく出会った素材をうまく呑み込んで消化吸収するには限界があります。そこで、他の素材と関連づけることで、素材を測る原点を仮に作り、その原点から見つめることで素材の立ち位置を確認します。これをいくつもの素材同士で行うことで、それぞれの素材の特徴や立ち位置を固めてゆきます。

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  2. 「関連づける」とは、素材と素材をレイアウトして、全体や部分のイメージを獲得する感じ? 具体例及び、体験談があれば教えてくださいな。

    それと編集は「関連づける」作業を何度も何通りも行いますよね。幾度も繰り返す上での技術はありますか?
    …出来るまでやるしかない、という前提があるので、技術というとハウツーになってしまうかもしれませんが、いっちょ何か見つかればお願いします。

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  3. わけのわからない素材と出会ったとき、しばらくは宙吊りのまま、ひっかかっています。
    いざその素材と向き合うとき、それが映像であれば、編集ラインにのせます。前後のつながりを一コマ単位で何度もやり直して、全体の流れで見返しながら、その映像のリズムをつかもうとします。それぞれの素材のもつリズムを感じ、組み合わせるためには、何度も全体を見ることが必要になってきます。毎回違う印象を受けていても、繰り返すうちに、これがいいというのが決まってきます。そうすると、何か惹かれたものの、何に惹かれていたのか、何が必要だったのかが浮かび上がってきます。
    映画の映像でも、ただおはなしがわかるように繋がれた映像と、素材のリズムと全体が絡み合い、拮抗しあってできた映像とでは、強度が全然違って感じます。
    あたりまえすぎて技術と言えないですが、わたしは素材と付き合うために、しつこく何度も「全体で見通す」ことをします。

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  4. ゴーダは今やってる仕事の「素材と技術」について書いてもいいんじゃない? そっちの方がゴーダにとって近いし、プロフェッショナルな分野ではないかと思うのですが。どうでしょう。

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  5. 林くんには「翻訳」ともう一つ「時間」についても聞きたい。林くんは「時間」の使い方が圧倒的に上手いと思うのです(強制終了などもありますが)。これまでも時間を複数化するなど数多く触れてきていますが、時間の技術者として一言いかがでしょう(時間の整理整頓が巧い気がする)。あと「演劇」についても。

    郷田さんはぜひともフィルム技師としての知見を教えてください。そして「映画鑑賞」。鑑賞するのに技術はいらないかもしれないけど。ヒトコトお願いします。
    近い例で言えば私は「漫画読書」については一言あります。
    見るべきはストーリーよりも、キャラクターの動きです。
    連続していくコマ中で、キャラクターがどんな行動をとるか、ここに着目しています。私の中で優れた漫画家とは、1)環境を作ってあげることと、2)自律した登場人物を出すことです。その絵の中でイキイキと生命をもった人物に遭遇することが漫画読書の醍醐味です。なので私は全巻揃えるとかのモチベーションはありません! 同じ意味で映画も途中寝ても満足度は下がりません、きっと。

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  6. 大層な技術でなくてもいいね。技術から考える「素材」があってもいいから、その人にとっての技術を一覧するのも有用。

    あと僕が言えるのは「写真」と「写真の選別」と「ノートパソコン」とかの技術。あと「美味しいご飯を食べる」技術とか。それと「ものづくり」技術。

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  7. 1. 翻訳

     翻訳にもいろいろありますが、まずどのようなものに関しても言えることは、「調べるべきはきちんと調べる」ということでしょう。芸術的ロマン主義に陥らないよう気をつけています。思い込みで翻訳してはいけない。複数のデータを揃えて「ここはこう訳すべきだ」と合理的に決定できる部分はそうすればいいのです。

     しかしそういった方法だけでは翻訳が難しいケースがあります。例えば「音」や「リズム」や「語順」が重視されている場合です。そのときは音と意味、ドイツ語と日本語を何度も往復し、その間で翻訳を決定します。その決定は客観的なものではなく、翻訳者に固有のものです。それは完全な主観ではないのですが、「主観」と「客観」という言葉が離れ続けている限り説明できないような素材と技術の混合だと思います。

     翻訳に関しては以前少し書いていました。以下もご参照ください。
    http://tatsukihayashi.blogspot.com/2010/10/3_16.html


    2. 時間

     「強制終了」って何ですか…。

     それはともかく、「時間の技術者」などと呼ばれる資格はまるでなく、いつも時間に振り回され続けていますが、「時間の技術」が面白いことには同意します。

     最初の分かれ道は、「自分で自分の時間をつくることが好きか否か」という問いでしょう。時間をつくることに興味がなければ何も気にしなくていいと思う。でも自分で自分の時間をつくることを楽しむ人たちは今とても増えている印象があります。時間をつくることに興味を感じるなら、あとは自分で調べてどんどん時間づくりを実践すればいいと思います。

     ますます個人化される時間は、これからもいろんな古いものを解体し続けると思うのですが、逆にそれら個人化された無数の時間たちがなにかを構築するときにはどんなプロセスが起こるのかということに興味があります。無数の時間たちがなにか共通のもの、共通の時間をつくることを支援する技術はまだまだ未開拓なのではないか。共通の時間、共通の現実をつくる技術を開発したいものです。


    3. 演劇

     演劇については、わたしは素材を発見する人間でもなければ技術を用いて最終的なかたちをつくる人間でもなかったので、たいしたことは言えません。交通整理のような役割を担うことが多かったです。それに関して、恐ろしく当たり前だが恐ろしく重要な一つの真理は以下のことでしょう。「効率よくさばけばいいというものではない、しかし効率を無視してさばくことはできない」。どんな優先順位で交通整理のバランスを決定するか、それは個々のプロジェクト次第です。ぎりぎりまで作品の質を高める人もいれば、個々の作品の質よりも長期的・全体的な実績を重視する人もいます。その意味で、意識的にせよ無意識的にせよ、長期的な戦略を自覚していることが技術の運用上とても重要だと思います。

    ーーーーー

     3つを羅列してしまいましたが、一見関係ない複数のことを並列すると思わぬ発見があったりするので、このままアップして自分でも眺めてみます。

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  8. フィルムを検査する時に気を付けているのは、たとえば一箇所見落としたら、映写中切れたり、テレシネだったら最初からやり直しになってしまい、最悪は1コマ切断しなくてはならないということもありえるから(そうしたら先に書いたような、制作者がつくりだした映像のリズムが狂ってしまうかもしれないので)、絶対に手を抜かないこと。あたりまえだけど。見落とすとかいたけど、破損などは手の感触で調べるのです。だから指先に神経を集中させて、目ではキズや汚れを見ています。(だから本当は検査では内容はあまり見ない、でもつい見ちゃう。その点まだまだ。)映像の素材の付き合い方と似ています。全体を見通す。つなぎ目を注意深く調べる。
    内容を調査するときは、コマ抜きに全力を注いでいます。コマ抜きとは、フィルムから映像の内容がわかる静止画を何枚か撮る作業です。そのコマ抜きによってデータベースが作られるのです。中には私がそこで拾い上げなかったら絶対に見返されることはなさそうなフィルムもあります。だから出来る限り他人が見て興味をひきそうな箇所を探します。おっと目を引くような箇所。どこの場所で、いつごろで、誰が何をしている映像が映っているのか。それを的確に表現している箇所をさがすのは難しいです。でも、よく撮れているものだったら、その作業は比較的容易で楽しいです。ホームムービーなどのコマ抜きは特に面白く、自分がPRや新しい物語をつくるような気持ちでデータを取っています。

    話は飛びますが、先の課題はデータベースにしやすいキーワードを残すことです。そういう意味では素材の中に記号探しのようなことをしている面もあるかもしれない。映っている内容(場所や時代など)を大多数の人が情報を寄せられるような仕組みがあったら、グーグル画像検索みたいに映像を探せて、これらの埋蔵されてしまう映像にも価値が生まれるなあと考えています。

    映画鑑賞は、とにかく画面と音に集中する。なのでやたら頭の中で説明を必要としたり、物語(内容)で考えさせるものは苦手です。映画の中に映像そのものが生き生きしている瞬間があればそれでもう満足なのですが、できれば寝ないで全部見たいと思います。あんまり技術とかコツはないです。

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  9. >「関連づける」とは、素材と素材をレイアウトして、全体や部分のイメージを獲得する感じ?
    素材と素材をレイアウトして、全体や部分のイメージを獲得するのはもちろんあります。
    それと、同じ種類の素材をいくつか入れてみて比較するということもあります。例えば写真Aと写真Bがあったとして、AとBは単体で見る限りそれほど差がなかったとします。しかし、テキストと組み合わせてみたり、レイアウトしてみたりすると歴然とした差が表れて、「圧倒的に今回はAだろう」というようなことになったりします。

    >編集は「関連づける」作業を何度も何通りも行いますよね。
    >幾度も繰り返す上での技術はありますか?
    おそらく、何度も繰り返す中で、定石のようなパターンを体得すると思います。そのパターンを適用するというのは簡単に考えられます。しかし、私が重要だと考えるのは、このパターンから如何に外していくかです。パターンを適用するとおそらく合格点は得られるのでしょう。しかし編集の答えは一つではありません。パターンから外した例外が120点をたたき出すというようなことがあるのです。外し方は非常に感覚的なことなので、その感覚を研ぎすましておくことは必要だと思います。研ぎ方はやはり実践ですかね。

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  10. >研ぎ方はやはり実践
    太田くんのコメントの「研ぐ」はいいですね。研ぐといえば刃物。刃物といえば道具。道具を研ぐとはバージョンアップ&メンテナンス。バージョンアップするのは道具の持つ機能。機能は実践で鍛えられる。

    少々の飛躍はありますが、
    技術とは自身の機能を道具化することと言えないでしょうか。技術とは道具。
    そして自分の技術を他人にも使用可能な道具にすることが発展を呼びそうです。

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  11. >そして自分の技術を他人にも使用可能な道具にすることが発展を呼びそうです。

    いいね。そうだね。発展させよう。

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  12. 郷田さんのフィルム技師話は具体的で読み応えあります。道具と技術の話で言えば、郷田さんはフィルムのメンテナンス道具とも喩えられますよね。ちょっと話はそれますが、道具が語りだしたら面白いと思うのです。まるで付喪神のように。
    (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%98%E5%96%AA%E7%A5%9E)
    長い時間と経験を過ごした技術は、実物の道具のような形は持たない代わりに、その語りは大層な力を持っていると思うのです。

    そして郷田さんの映画鑑賞技術は大層な力を持っていると私は思うのです。

    >映画鑑賞は、とにかく画面と音に集中する。

    この境地は「私」「技術」と区分けできないくらいの一体感を見ます。道具が話し出すきっかけは、やはりその道具が広く一般にも自由に使われるべき、というオープンソース精神があるでしょう。

    私は映画鑑賞マイスターの語りを読んでみたい。
    いかがでしょう。

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  13. なるほど。

    >「調べるべきはきちんと調べる」
    >「自分で自分の時間をつくることが好きか否か」という問い
    >「効率よくさばけばいいというものではない、しかし効率を無視してさばくことはできない」

    なるほど。
    林くんは、技術を振るうための、周辺整備の技術がある。言い換えればプラットフォームの技術だ。
    どんなプラットフォームを希望しますか??

    >共通の時間、共通の現実をつくる技術を開発したいものです。

    これはなんか面白そうだ。その正体は分からないが…

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  14. >私は映画鑑賞マイスターの語りを読んでみたい。

    というのはゴーダの豊富なインプットをアウトプットしてほしいということかな。それがひとの役に立つものになるといいね。そうじゃないとゴーダには「わたしを見て」というモチベーションはあまりなさそうだし。

     さて、「どんなプラットフォームを希望しますか」という質問の意味がまだよくわからないので的外れな返事になるかもしれないけど、基本的にプラットフォームというのは、ひとの可能性を引き出したり、自発性を高めたり、やる気にさせるものであってほしいと思います。以前「野心のコミュニティ」という話をしました。

    http://iwaiwaiwaiwa.blogspot.com/2011/01/10.html

    プラットフォームの理想とは、可能性を拡張し、野心をくすぐり、誰もが何か自分の好きなことを勝手にやりたくなる、そうしたものではないでしょうか。他方、技術的なものでなく、現実の人間の集合をそのような理想的プラットフォーム化することはとても難しいけれど、しかしとても重要だし非常に楽しいことと思います。

     「共通の時間、共通の現実をつくる技術」というのはここ数週間の関心事。エジプト。だってせっかくひとが集まってくだらないものを壊したのに、なにかつくるときになったら結局中心が必要になったり「文明国」の協力をあおがなくちゃいけないなんてつまらないと思う。でも、きっと「つくる」というようなかたちではなく、「できる」みたいなプロセスの方がネット上の無数の声にはふさわしいのかもしれない。流動的で無自覚で自然発生的なほうが。もちろん具体的なイメージはまだ何もありません。

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  15. そういえば「道具が語る」はとても面白いね。どこか大事なところにつながりそうだね。

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  16. 自分は道具のようなもの、というのは作業の中でなんとなく実感がありました。
    でも、「道具が語り出す」というのは思いもよらなかったです!

    というのも、語りはいらないと頑なに思い込んでいたのでした。
    素材(フィルム)そのものに接するようになってから、自分自身の映画館・映写信仰はより高まっていきましたが、それとは現実はうらはらに、映像自体の素材の多様性と自由さはどんどん広がっていったように思います。そのギャップを埋める役割、というところで映画鑑賞の少ない経験が、誰かの役にたつかもしれないなと思いました。

    ひとつ、ヒントになりそうなのは、尊敬する脚本家であるジャン=クロード・カリエールがウンベルト・エーコと対談している『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という本で、今読んでいるのですが、そのなかで、「記憶のフィルタリング」という話をしています。膨大な記憶(この本ではインターネットの情報なども対応させて語られています)をどう選別して、記憶を創り上げていくかという話なのですが、それを「歴史」がどう作られてきたかということと繋がっていきます。まだ読み途中で、整理出来ていないのですが、映画の経験をどうやって「残して、選別して、知られるようにするか」とか、そういうことを具体的に考えるようになりそうです。いままだ考えが中途半端なところですが、映画保存の仕事にも大事なヒントがありそうなので、引き続きじっくり取り組んでいきます。

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  17.  たとえ外観がなんとなく綺麗に仕上がっていても、誰かがつまらない終わらせ方をしようとしていたら、残りの参加者は全力でそれを阻止しなければならない。これは議論においてはかなり重要だと思っていて、わたしは常々言ってます。面白い問題を立てるだけでなく、問題をより面白くすること。つまらなくなりそうだったら誰かがひっくり返すこと。人格攻撃じゃないから気にするな。もっと面白いことを聞きたいし考えたいだけだから。からっとやろうぜ。

     何が気に入らないかというと、ゴーダが自分で考えたことを何も言ってないと思うのです。ひとの考えを反復したり状況を説明したりひとの本を紹介しているだけに感じました。

     チャンスは「語りはいらないと頑なに思い込んでいた」というところにあると思う。そこだけは何かゴーダなりの独自な考えが潜んでいそうだった。でもよりによってそれはまったく触れない。残念です。

     インプットばかりしていたらアウトプットができなくなった、その「呪縛」を逃れて映画をつくりたいと去年の夏の終わりくらいにゴーダは自分から言い出して、秋から冬にかけてずっとそのことを考えてきたわけでしょう。しかし映画はつくれなかったし、ツイッターも始めたものの、今では基本的にインプットにしか使ってない。

     蓮沼くんが「素材と向き合っている道具の君よ、語れ」と言ってるのはその流れを踏まえてのことでしょう。それを結局「蓮沼くんの話は面白い、今読んでる本ともつながる」というまさにインプット(!)の話にしてしまっては元も子もないのでは?

     前から言ってることの繰り返しになるけど、ゴーダが「やっぱりアウトプットには全然興味ないからやらない」というのなら、それはそれでいいと思う。あるいは映画をつくるのももちろんいい。でもここ半年くらいずっとそのあいだをうだうだやっている気がします。

     のれんに腕を押し続けている蓮沼くんへの応えにはなってないと思いました。

     まあここでジメジメしても仕方ないから、どんな方向にであれ、どこかに物事を進めていくような議論にしましょう。どうでしょう。

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  18. この問題も「素材」の一つとして、付き合おう、技術を展開させつつ。

    >というのも、語りはいらないと頑なに思い込んでいたのでした。

    さて…同じくこの話の続きを聞きたい。「信仰」と「拡がり」とが関係あるのですか?

    あと林くんこの訳し方イカス。>「素材と向き合っている道具の君よ、語れ」

    それともうひとつ。
    映画「ソーシャル・ネットワーク」の感想で郷田さんは「別に…映画館で観るもんでもない」と言っていたじゃないですか。そこも詳しく聞きたい。映画館いい関係にない映画、ということでしょうか?

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  19. 語りについていらないと思っていたというのは、映画の評論や批評や研究を文章でやること、それ以外のアプローチで映画と関わる方法はないかとずっと考えてきたからです。(誤解しないでもらいたいのは、批評や研究ももちろん大事だと思っています。でも、わたしに「語れ」ということが、映画評をしてほしいということではないでしょう。)
    それでわたしは映画フィルムそのものと付き合うこと、ダイレクトに映画を残す、観る、映す、つくる、ことで映画とつきあおうと思いました。自分は映画に大変な影響を受けてきて、そこに何かリアクションしたいので、そうすることがとても自然で、しっくりくるように思えたのです。つくるのも残すのも「映画自体に語らせること」が目的なので、言葉にすることに警戒心がありました。

    そう決めてからこの方向にシフトして何年か色々やっているのですが、すこしですが関わっているなかで、映画の保存や復元の現場は、想像以上に「語り」が必要なのだということも感じてきました。そとから見ると、何をしてるかわからない、大事だと思うけどそんなに? そんな声に答えるにはどうしたら伝わるのだろう、どんな実践が必要なんだろうと考えながら、それでも確信して言えることは今の仕事でやるひとつひとつのことがベースになっていくということです。眼に見えないかもしれないけれど、わたしは仕事を通してアウトプットをしていると考えています。重要なポイントは素材の価値を再構成することで、それを目の届くところに置くまでできるかどうかです。これが難しい。
    その点、ここでのいくつかの議論を通して、自分が伝えられていない弱点もわかってきました。たとえば映画館での経験についてなど、説得力がない部分。映画は語らずして見せることができる、と主張する前提として、そもそも映画を見る気にさせないとはじまらない。そのために必要な「語り」? 仕掛け?
    これらをどう議論にしていけばいいかわからなくなってきました。

    それから本を紹介したのはインプットの報告のつもりはまったくなかったですが、この本で得たヒントを実践にこう結びつけるまで考えてから書くべきでした。大変面白く、仕事や脚本作りに直結するものだったので過程に含めて書き留めておきたいと思ってつい書いてしまったのでした。この議論に関係づけられるまで、まとまってなかったので改めます。

    さて最後に、「ソーシャル・ネットワーク」。内容は面白かったです。発想の過程、仲間を集める過程などなど。でも内容のインパクトに対して映画の部分はちょっと物足りなかったです。あのスピード感は必要だと思うけど、壮大なダイジェストみたいな感じで、映像それぞれの空気がうまくのみこめなかったです。それで内容だけならテレビでも一緒かなあと思ったのでした。映画館でしか見てないのでわからないけど。

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