いま、『シェア』という本をたいへん面白く読んでいます。
ここ数年、世界中でさまざまな物・場所・人・技術を「シェア」する取り組みが起こっているそうです。いらなくなった服の交換、自動車や自転車の共有、工具を揃えた作業スペースの共有など、具体的な事例が本の中で無数に報告されています。わたし自身に身近なところで言えば、ツイッターも情報のシェアとして捉えることができるし、このブログのコンセプトも意見交換を小さな輪で閉じるのではなく、より広く「シェア」することでアイディアを発展させていこうというものでした。
21世紀になって人類が飛躍的に善良になったということは考えられません。たしかに環境問題や食の安全に対する関心は高まっていて、それが「信頼できる範囲でのシェア」を促している面はあると思いますが、おもに「シェア」を支えているのは思想ではなく技術でしょう。つまり、これまでであればシェアしたいと思う人がいてもそのための「コスト」(金銭的、時間的、心理的コスト)が高すぎてシェアできなかったことが、今では情報技術(ネット環境や携帯デバイス)の発達によってその「コスト」が劇的に下がり、人々がごく自然にシェアを始められるようになった、ということです。ここまでは前提。
もう一つのポイントは「近さ」だと思います。これも「善良さ」とはあまり関係のないことです。どういうことかと言うと、私見では、ひとは「どのみちもともとやろうと思っていたこと」に関して、特にシェアへと動いていきます。どのみち赤ちゃんの服は誰かにあげようと思っていた→それならネットでほしがるひとにあげよう、とか、どのみち作業スペースが必要だと思っていた→それならひとと共同で使おう、とか、どのみちバカンス中は誰かに家を貸そうと思っていた→それなら世界中の旅行者に利用してもらおう、とか、そういうことです。「もう一歩」進むことができるのは、身近なことに関してのみです。いくら高尚な思想でも、それが「遠い」ものならひとを動かすことはできません。
この本を読み始める一ヶ月くらい前から、わたしは自分がネットでしている情報収集の一部をツイッターで発信し始めていました。それは「これを役立ててほしい」とかそういうことよりも(そうした気持ちが全くないわけではないですが)、どのみち情報収集はするし、しかもたまたまReederという非常に便利なアプリケーションを知ってまさに「コスト」(時間的・心理的コスト)が著しく下がった時期だったので、「発信してもしなくてもほとんど変わらない→じゃあ発信したほうが自分にも他人にも利益がありそうだ」ということで始めたのでした。これは先日の「問題13」のあとの議論とも関係していて、「たくさん映画を観てきたのだから映画評をネット上でアップしてほしい。あなたの知見をシェアさせてほしい」と言っても、相手がもともと映画評を書いていないのであれば、その一歩を踏み出すことに対するコストはとても大きく、いくら「シェア」のコストが低くてもそう簡単ではないのかもしれません。
長くなってすみません。こうした「シェア」の現状とそれに対するわたしの意見を前提として、まず、1)「シェア」にどのような可能性を認めるか/認めないか、さらに、2)どのようなものをシェアしたいか、これについては、2−1)「シェアさせてほしい」という他人に対する欲望/必要と、2−2)「シェアしてもらってかまわない」という自分の能力/習慣/所有物の両面で議論できればいいと思います。2に関してはわたしもさらに書きたいことがありますが、長くなったのでこのあたりまでを問題提起として、あとは議論で続けていきたいと思います。よろしくお願いします。
林立騎
1)「シェア」にどのような可能性を認めるか/認めないか
返信削除個人の持っている限界を超えられる可能性を認めます。
2−1)「シェアさせてほしい」という他人に対する欲望/必要
お金をシェアさせて欲しいですね。「ソーシャルネットワーク」のエドゥアルドみたいな。
あとは、アイデアはシェアさせて欲しいです。
それと、その人にしかない特技や魅力はシェアしたいです。
情報のシェアはかなり日常化しています。
2−2)「シェアしてもらってかまわない」という自分の能力/習慣/所有物
やっぱりアイデアはシェアしてもらっていいものを考えてつくりたいですね。
アイデアや特技のシェアの所産の一つとして、「チリの地震」私家版プロジェクトが挙げられるんじゃないかと思います。
先に一言だけ。
返信削除昨晩ね、三人で一つの布団をシェアしたんです。
太田くんともう一人が、急遽うちに来ることになったんです。しかし布団が一つしかなかったのです。それで仕方なくシェアをした。川の字で寝ました。
それがとても良い効果を生んだのではないかと思われる現象がありました。
狭いながらも肩を寄せ合い、じっとしていたら、じんわりと熱が伝わり、やがて好きなこの話とかになりました。めったに口を割らない子が、とうとう話しだしたり。
これは布団をシェアしたからだと思うのです。
距離が近いということは熱が伝播することが重要と思いました。
ひとまず昨晩の出来事を記しました!
ドイツに旅行に行ったとき、家やアパートの前にハコが置いてあって、いらないものが入っていて、通りすがりの人が要る物があればとっていけるようになっているのを見て、これはいいなと思いました。毎週末フリーマーケットがあるのも、そういう気質なんだろうかなんて考えた。わたしはモノが捨てられない人なので、細かいところで使ってない文房具とか、人にわざわざコレいる?って聞くまでもないものとか役に立つならいいなと思う。でも、「シェア」を人の能力や時間を考えると、もっと高度な可能性があるということだね。
返信削除どのようなものをシェアしたいか。
場所です。モノづくり、研究の基地みたいな場所。いつ使っても良くて、それぞれがなんかしていて、家から近い場所。
自分がシェアできること。
映写と撮影ができます。モノではビデオやDVDや本。そうしたものをシェアする際に、受けとる人が必要なもの、というのでももちろんいいのですが、所有者の選別的視点(キュレーション?)があって、そこから選ぶというふうにしたら、お互いに意見を交わしたりできて、渡す方にも利点があって楽しいのではないかとおもいます。