今回は素材と欲望について考えていきたいです。
私はつい先日、美術作品をつくろう!と思い立ったのですが、同時に妙な気持ちになりました。
それは形式的な「作品をつくる」という欲望が先立っていて、本当につくりたいのかと自問自答したときに、何に依って考えたらいいかわからなくなったからです。しまいには、つくりたい欲望はそこまでない!と気づきました。
順序がおかしかったかなと分析したときに、「欲望とは素材と出会って生まれる」のではないかと思いついたのです。
なにかひっかかる風景を見つけたので、それが何かを捉えたいがために絵を描く、という流れが私には好ましく思えるのです。世界の構造はどうなっているのかを絵画の手段を用いて解明してみたら、遠近法という一点から世界が始まる発見があったように。
たくさんの作品群、形式的な決まり、画家という職業、これらが先例として豊富にあるので、ついつい流れてしまうのです。
そのため、この問題集を使って、素材と欲望について考えることで、さらなる自分のブラッシュアップを図ろうと思います。
つきましてはみなさんの、具体的な事例を聞かせてくれたらと思います。
で、なんの事例かと言いますと…どんな素材を持っているかです。
素材とは料理人にとっては野菜やお肉、映画監督にとっては脚本と役者、画家にとっては人物や風景、翻訳家にとっては外国の小説、編集者にとっては作家…などなど、もとになる材料です。いまの説明も形式的な立ち位置から見た素材でしたね。
今回強調したいのは、恋愛をしたいから可愛い子を探すのではなく、あっ!と驚く可愛い子に遭遇してしまったためにお付き合いしたい!と欲望を持つ方の流れです。
私の例で言えば、公園に住まう鳩の群れにいつも変な気持ちを抱いていたのです。鳥だけに浮世離れしているが、やけに土着的だ…アイツらなんかオカシイと思っている最中に、当時好きな子に「鳩ってオカシイね」と告げられたことが契機となって(やっぱ何かあるぜ)、私の中でいろいろ繋がって、鳩が素材として遭遇するにいたったのです。そして、鳩を密着取材したいと欲望を持つようになり、ときには捕獲したり、絵を描いたり、付き合うことになりました。私にとって素材とは、不思議さ奇妙さの質感を捉えたい欲望に基づいてあるようです。
議論というか、まずは発表として、みなさんの素材話があれば聞かせてください。
そして、あなたにとっての素材とは何であるか。
大学2年のときに、初めて上海に行きました。実は、私にとって日本国外に出たのはそれが初めてだったのですが、ものすごい衝撃を受けました。人も環境も生活も、未体験の領域は非常に刺激的なものなんだと実感しました。
返信削除そして、その刺激を受けたときに何をしたかというと、写真を撮りまくったのです。何だかよくわからないけれども、気になるものをやたら撮影する。ホテルに戻ったら、今日は何を見たのかと、写真を見ながら振り返る。そこから、新しい土地に降り立ったら、思うままに写真を撮りまくるということをするようになりました。
上海には一年半後にもう一度行き、他には台湾やパリなんかにも行きましたが、そこでもやはり写真を撮りまくりました。国外に限らず、国内でもそうです。
それで、これがなぜ素材として考えられたかというと、写真を撮ることによって、新しく出会ったものとの距離感だとか、感覚を記録して、それを本という形におとしこもうとしたからなのです。パリでは、常に持っているノートとペンで、思ったことを記録していたので、そのテキストと写真を一冊の本にまとめました。上海での写真は、素材として使って作品を作りました。
ただ、素材を素材として認識してしまったときに、最終的なアウトプットまで考えてしまうと、素材との出会いの純粋さを失ってしまうのではないかというのが、最近の危機意識です。
太田くんの「形にする」実行力はすごいね…。見習います。
返信削除さて。要点だけ。わたしにとって素材には2種類あります。
一つは「記憶」です。わたしには、①何も考えずに物事を進める時期と、②振り返って点検する時期があります。この②の時期に、「記憶」を物のように扱って、今の自分がもっているものはなにか、これから何と何を選んで組み合わせればいいのか、どういう感覚や選択がこれまで重要だったか、いい結果を生んだか、等を考えます。このとき、物のように記憶を扱う、というのがポイントで、「わたしの人生」というドラマチックな感じではなく、単純に現在地の確認というか持ち物検査というか、「記憶」をドライに扱うのが好きです。物事を思い出していると、自分が思わぬ反復をしていたり、矛盾した行動をしているのに気づき、それが考える素材にもなります。考える素材として、そして「再編集」するための素材として、わたしは自分の「記憶」をよくいじくっています。
「記憶」という第一の素材が自分の内側から来るものだとしたら、第二の素材はなにか外から来るものです。とりわけ、意味不明なものほど付き合いたくなります。わたしがハインリヒ・フォン・クライストの作品を好むのは、意味不明でわからないからです。いきなり意味不明な仕事をもちかけてくるひとも好きで、だいたい引き受けます。意味はわからないけど、それに付き合ったほうが自分にとって面白いことが一瞬のうちに勘でわかることがあります。そういう「出会い」が外から来る素材です。具体的にこれまでのものを挙げれば、翻訳や研究で言えばクライスト、ドイツ語では関口存男、演劇の仕事ならPort Bがそうした出会いでした。
チェーザレ・パヴェーゼの『レウコとの対話』をストローブ=ユイレは『あの彼らの出会い』という映画にしました。パヴェーゼいわく、神々でさえもたない人間に固有の能力とは、「出会う」能力です。ストローブ=ユイレは、パヴェーゼのテクストを用いたというよりも、さまざまな「出会い」を画面上にフレーミングすることで原作を見事に映画化しました。國分功一郎さんのツイッターで知りましたが、ドゥルーズも「物」との「出会い」について語っていたようですね。パヴェーゼ/ストローブ=ユイレ/ドゥルーズが言うように、人間には物と出会う能力があって、出会うことができたその物を「素材」と呼ぶのかもしれません。わたしが言った「記憶」もいわゆる「自分探し」ではなく、異物としての「記憶」です。自分の中にも外にも異物があり、それと出会う。しかし「自分」が一方的に働きかけるわけでもないと思います。たぶん物の方から話しかけてくることがあるわけです。石が語る、というやつです。「素材の欲望」は「素材を欲望する」ことであると同時に「素材が
欲望してくる」ことでもあるのでしょう。
出会いたいと思っていれば出会えるわけではないけれど、出会いたいと思ってなければ決して出会うことはない。「素材」とはそうしたものではないでしょうか。ちなみに最近のわたし自身は、いい出会いを求めて日々準備を続けています。
材との出会いについて、私のとぼしい経験をたどるならば、つくって形にしたいという欲望は、強い衝撃を受けて連鎖反応が起こったとき、形まで行きついています。
返信削除強い衝撃とは、自分で得た発見です。中学生の時に、『友だちのうちはどこ?』という映画を見て強い衝撃を受けました。その映画は、友だちにノートを届けるというだけのおはなしなのですが、心は完全に少年と同化し、心の底から不安になったり焦ったりしました。いまだったら、好きな映画のひとつだったかもしれませんが、映画ってこんなこともできるんだ!と当時の私は大変な衝撃をうけました。それは、いままでの映画観がすべてひっくりかえる体験でした。とてもちいさな出来事が、どんな壮大な物語に匹敵する世界をつくっていたことに驚いたとか、言葉にすると簡単ですが、映画が物語を語るものではないものだと初めて発見したのでした。そのときから映画の見方も変わりましたし、自分の世界の見方も変わりました。二つ目の強い衝撃は成瀬巳喜男との出会いで、よりちいさなもの同士がうねるように世界を構築しているのをみて、自分の世界や感情などと繋がって爆発的に広がっていきました。全身が開いて体で発見したという感じです。
本などで同じような解説や分析があったとしても、「体得」して発見したものは言葉にして満足できるものでもなく、自分もつくる!という反応でしか発見を言い表せない様な気がして、映画をつくりました。
わたしも、「映画がつくりたい」という漠然とした欲望だけでは、広げていくことができません。すごい映画だからといって必ず強い衝撃があるわけではありません。自分の宙吊りに存在している謎や関心や気になるものが一気につながっていく感じを呼び起こすのが、強い衝撃です。成瀬巳喜男と出会った時期に、ボヴァリー夫人や夏目漱石に夢中だったことや、実生活もわりと刺激的だったことなども、連鎖反応を生んだ理由だったかもしれません。自分とはまったく違うものなのになぜか惹かれる気になる・・・というのも突き詰めていけば、繋がっていくのが面白いです。連鎖反応を待つというのは受け身な姿勢にみえるかもしれませんが、全力でそれを逃さない体勢をつくることは心がけて、気になるものは貪欲につきあおうと心がけています。