2011年1月7日金曜日

問題5 映画はなぜ120分なのか

映画の上映時間は、120分前後が圧倒的に多いです。
どうしてなんでしょう。
私は予告が好きで、動画サイトでよく見ます。その映画の魅力はときに予告編の方がよく表現されていると思うときがあります。

ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール・ソシアリスム』の予告編は、実際に上映される102分を数分に早送りにしたものです。
先日、『ゴダール・ソシアリスム』を映画館で見た際、40分くらい寝てしまいました。
しかし、充分に満足する内容でした。

私は疑問に思うのです。
映画の2時間は長い。 
もっと短くてもいいのではないでしょうか?

20 件のコメント:

  1.  今回は短めのコメントを思いついたらどんどん書き込んでみます。質は普段よりさらに粗くなると思う。

     映画に長い時間が必要な理由は、その時々で違うでしょう。ストーリーを展開するために時間が必要なときもあれば、なにか物事の変化を実体化するために長さが不可欠なこともあると思う。

     けれども、ぼくは映画に時間が必要なのは、本質的には、そうすることによって観客の身体に日常的なものとは別の感覚をもたらすことができるからだと思う。日常と異なる時間経験が日常と異なる身体感覚をつくり、「見る」と「聴く」(あるいは「時間を過ごす」)という経験が拡張されることが、映画の大きな可能性だと思います。

     そのとき、時間の長さが特別な経験をもたらすことがあるのと同じように、時間の短さが日常をずらすこともある。だから予告編の時間経験、予告編がもたらす身体感覚もないがしろにできない。予告編は可能性としては本編と対等かもしれない。

     だからぼくの考えは、120分を使う理由があることには120分を使うべし。短くていいものは短くすればいい。というものです。

     でも一般論過ぎてつまらないな。個人的にはもっと短くてすごい作品が増えてほしいと思います。45分とか、70分とか。まあ映画館に座ったら時間を計ったりしないし、いい映画は時間感覚そのものをずらすから、何分でも関係なく経験してしまうんだけど。

     「長い時間をどう経験させるか」をデフォルトにしてつくるのではなく、自分の作品にふさわしい時間の長さとその経験はどういうものか、各作品がそれを突き詰めていけばいい。「長い時間」が無批判に使われる型になっているから短い作品が見たいのかもしれない。時間に対する無自覚な態度が好きじゃない。というか、時間に対して無自覚ではこれからはやっていけないと思う。ということかな。

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  2. >映画に時間が必要なのは、本質的には、そうすることによって観客の身体に日常的なものとは別の感覚をもたらすことができるからだと思う。

    なるほど。お付き合いには時間が必要だいうことね。

    >「長い時間」が無批判に使われる型になっているから短い作品が見たいのかもしれない。

    そう、今回の問題提起の根底にはこういう想いがある。
    形骸化した映画には、じっと座って120分、お付き合いしてくれるでしょう、という当たり前の態度がある。

    そういった押しつけられる時間に、私は付き合わないよと思っている。
    しかし映画館という縛りの強い空間だと館を出て行くか、寝るしか逃げられない。

    そんで私はよく寝る。
    全時間は付き合いきれないという気持ちがあるのだ。
    しかし、観ていない(寝ている)時間もあるが、映画作品の体験としては十分だと思っている。
    私は数分だけでも魅力的な一シーンを捉えられたら、もう十分だと思うのです。ただし、それは都合のいい部分だけを味わっていることになるので、料理長が考えてつくったコースメニューのうち一品しか食べていないみたいな感じかも。

    そこで映画をたくさん観てきた、コーズメニューをしっかりと味わってきた郷田さんの意見を聞きたい。

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  3. まず、わたし自身は、映画は必ずしも120分必要ないと思っている。5分でも映画といえるし300分でも映画といえる。映画はその映画自体に必要不可欠な時間であるべきだと思う。

    120分ということを考えるには「映画館」について考えなければ。映画が120分ぐらいあるのは、映画館に払うお金でお客さんに満足してもらえるライン、経済的な理由じゃないかと思う。インドに行った時、インド人が「映画は3時間以上ないとインド人は納得しない、歌も踊りもないとだめ」と話していたけど、そういうライン、興行が成り立つその全世界的なラインがいまのところ80分以上。昔は60分とかの映画もあって二本立てだったり、無声映画の頃は短くて活弁付きだったり・・、時代時代でその満足するラインは変わっていると思いますが、映画は芸術や作品と言われる以前から、必ずプロデューサーという存在があって、興行商業と結びついたものとして発展してきた。映画は今でも「映画館」興行ベースでつくられている。

    だから「映画館の価値」を問い直す必要がある。映画館は、映画を見る「空間」が暗くて映写される画面を「見る」以外の他の行為を奪うこと。それができないとき、出て行くか、寝るしかない。それから映画館に行かなくなる。今は映画館にいくひとが減ってるらしい。映画館の「空間」で時間を拘束されることの魅力がなくなっているのかもしれない。「DVDで観よう」が多くなるのは、映画館という「空間」で観る必要がないから。

    ところで私は過去の作品でビデオなどで見てよかった映画は、機会を待っては必ず映画館でもう一度見ることにしてる。そこで初めてフルコースすべて味わうことになる。
    「目について」で考えたことにも繋がるのですが、映画にはあの真っ暗な「空間」と「時間」を固めたところで体験するという価値がある。わたしはそれは今でも絶対にあると思っている。(それでもDVDでも映画を見るし、映画の価値は映画館がすべてとも言い切れないのですが)
    そこで聞きたいだけど、たとえ一部寝てしまっても、でも満足な体験ができたとしたら、それは「映画館」だからだったと思いますか? 

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  4. > 映画にはあの真っ暗な「空間」と「時間」を固めたところで体験するという価値がある。わたしはそれは今でも絶対にあると思っている。

    その価値って何か、補足してくれると嬉しいです。大事なところだと思います。

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  5. 映画館という空間で映画を観るとき、映画がコンテンツ以上の体験をもたらす「価値」です。同じ素晴らしい映画でも、家で見るのと、映画館で見るのとでは違う。うまく説明できないけれど、あの制限された空間や時間、ひとつの映像に集中することは、映画の内容や物語の理解とか言葉で説明できることを超えて、観たままの映像の印象や音を受けて、体中がそれに夢中になるような。

    ただそれだけの価値を、どれだけの人を惹きつけているのか、客観的に自分では判断できない。「映画」の定義を解きたいわけではなくて、いまの時代に、ひとの映像にたいする身体感覚が、どんな感じになっているのか知りたいです。

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  6.  ゴーダのコメント、特に最後の部分、思いはわかるけど、蓮沼くんの問題設定に引きつけて書いたほうがよかったと思う。何を議論しているのかぼやけてしまったんじゃないかな。

     ゴーダから蓮沼くんへの質問「たとえ一部寝てしまっても、でも満足な体験ができたとしたら、それは「映画館」だからだったと思いますか?」に戻ったほうがいいと思う。

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  7. 郷田さんの意見は「映画120分の価値は映画館にある」と解釈してもいい?

    それで質問の「たとえ一部寝てしまっても、でも満足な体験ができたとしたら、それは「映画館」だからだったと思いますか?」については、そうかもしれないけど、それはそうでしょうと思います。

    誰が観てもパソコンのモニターよりも、映画館で鑑賞した方が体験の強度があるでしょう。
    画面が大きいし、音も大きいので。しかし、その価値って礼賛するものかなと思うのです。

    例えると、その価値って、家庭用の風呂釜と、広々とした銭湯くらいの差くらいではないだろうか。

    自宅のお風呂は、追い炊きも出来るし、好きな時間に自由に入れる。
    対して銭湯はお店の営業(上映)時間に合わせないとならない。他人と一緒だからマナーも守らないと。
    自宅のような自由さはないけど、大きな浴槽、高い天井がある。
    銭湯ならではの体験がありますね。
    映画館と銭湯ってそれに近いもんがないでしょうか。

    店の上映時間に合わせて、暗闇の行動が制限された中で、他人と一緒に大きな画面を味わえる映画館。
    なんだか不自由さと大きさの相乗効果による価値って、共産主義、全体主義の魅力と類似している。とかいうと乱暴かな。
    映画館は共産主義的である。というとやはり乱暴かな。
    そういえばゴダールの新作はフィルム・ソシリアスムってタイトルでしたね。

    などなど。
    120分の長さの依拠する映画館の価値についてしゃべりました。

    そこで映画館の共産主義って、どう思う林くん。
    共通するかな。

    郷田さん、説明の難しい映画館の価値って、上記のとはちがう?

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  8.  「映画館=銭湯」説はいいね。その極端さが考えの肥やしになります。

     さて、映画館が全体主義的だというのはそのとおりでしょう。実際、ナチスの最重要メディアの一つは映画でした(『イングロリアス・バスターズ』参照)。

     しかしだからどうというわけではないと思う。つまり、いわゆる全体主義にもすごいところはいっぱいあるわけです。たとえばマスゲームとかって、なんだかんだで目の前で展開したら圧倒的にすごいと思う。あるいは国家による福祉ってもともとはナチスが発展させたことです。

     だから問題の分かれ目は、全体主義を起源とするもの、あるいは全体主義的と言われかねないものを、だれが、どのような目的で、どこで、どんな場合に利用するか、その選択にあるのではないでしょうか。

     映画館が全体主義的だとしても、それを承知の上で、何らかの効用を目的として、映画館のある生活が選択され、受け容れられたのなら、それでいい。(ただ、「承知」したかどうかは難しい問題。)効用というのも、個人にとっての効用(例えば「見る」ことの楽しさ)だけでなく、家族にとっての効用(余暇を過ごせる)、共同体にとっての効用(地域の人々の社交場になる)、国家にとっての効用(国民をある方向に導ける)など、いろいろなレベルがあるでしょう。

     ゴーダの言う映画の「価値」は今のところゴーダ自身にとっての「価値」にとどまっている。誰にでも通用する「価値」を説けと言うわけではないけど、もうちょっといろんなレベルで映画の「価値」を考えた方が、そのあいだに何かが浮かび上がってくる可能性があるのではないか。

     さて、ここまでを踏まえて言うと、蓮沼くんとゴーダに共通しているのは、映画の経験を個人レベルで捉えていることではないでしょうか。「わたし」がどこで見るか、どういう体験をするかが問題になっている。そのとき、映画館という場で知らない人と一緒に見ることや、友人・知人と上映あるいは鑑賞後の時間をともにすることがあまり考慮されてこなかった。しかし、「銭湯」には個人にとっての効用だけでなく共同体における機能があるように、映画館にも個人レベルの経験だけでなく複数の人間がひとつの画面を共有するという側面がある。

     映画の「時間」は、コンテンツが与える時間だけでなく、まわりの人と共有する時間でもある。好きな女の子が隣にいたら2時間は長くないし、村のみんなが集まって映画を見たらその雰囲気自体が楽しくてあっという間に時間が過ぎるということもありそうなことです。

     映画は内容を作る人と技術環境を整える人が大きく分離している。近年の演劇のように、内容だけでなく「劇場」(場)までつくろうというようなことはなかなか難しい。でも、映画館離れとか、120分を長く感じてしまうとかって、内容よりも、むしろ社会の変化と「場の組織」の間のずれに原因があるのかもしれません。

     蓮沼くんの問題提起は、もしかしたらすごく具体的に、「現在の東京・千葉の社会のあり方およびそこでのわたし(たち)の生き方に対して、現在の東京・千葉の映画館のあり方はマッチしておらず、わたし(たち)はそこで120分を過ごすことに1800円の価値を認められない」ということなのかもしれません。少なくとも、この側面を考慮すると問題がもう少し展開するように思いました。

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  9. 映画館が共産主義的というのは面白いです。なるほどなあ・・
    フィルム・ソシアリズム・・・

    映画館の価値、いってしまえばそのとおりなんだけど、ただバリエーションでそのほうがいい!っていうよりも、もっと必要な映画そのものの存在意味と関わることと考えています。一方ですべてではないけれど、いまでも映画館ありきの商業ベースで映画が作られていることは留意しておきたいです。(商業ってこれも上手く説明できないけど、5分で1800円はなかなか許されないよね。)

    それでも映像とみる人との関係は、いろんな映像状況で変わってきているから、作り手が「映画館」で上映が前提でつくるかどうかというのも、これからは揺らいでくるのかもしれない。これまでの映画には不可欠だった「映画館」の価値が問われていると感じたのは、そうした次第です。

    私自身は映画は120分である必要ないし、5分でも映画であると思っている。それでも映画館の「空間」は切り離して考えることができないです。

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  10.  今後はiTunes等での映画「公開」も増えるんじゃない? 10分なら100円で120分なら1200円とかで。

     それでも映画館が重要と主張するなら、画面が大きいとか画質・音質がいいとかでは戦えないと思う。画質・音質なんてどうでもいい人も多いんだから。今でもすでにそうだけど、デパートの中に入っているとか子供が楽しめる空間があるとか、もっと現代社会に適合したパッケージで映画を提供するのが基本でしょう。そこをおさえた上で、映画館でしかできない鑑賞経験を感じさせられたら、ひとは映画館に通うようになるのではないでしょうか。

     映画の存在意味とかわかるけど、ほとんどの鑑賞者にとってはどうでもいいんじゃないかと思う。つまり、銭湯マニアが「銭湯はすばらしい。ここでしかできないお湯の経験がある」って言っても、みんな家のお風呂にしか入らなくなったわけです。銭湯を復活させるには、「お湯の経験」を主張するよりも、現代生活と銭湯の新しい関係を構築しなくてはならない。映画館に関しても同じように思います。

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  11. 一方でこんな考え方もあるようです。

    The length of a film should be directly related to the endurance of the human bladder.

    映画の長さに直接関与すべきは人間の膀胱の忍耐力である。
    (アルフレッド・ヒッチコック)

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  12. 蓮沼くんの膀胱がちっちゃいのが問題だったんだね…。

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  13. ところで…
    普段、私が観る映像は、韓流ドラマか水曜どうでしょうです。
    それらはテレビにUSBで接続してあるHDから、選んでみています。
    またyoutubeではNHKのためしてがってん、アニメの美味しんぼ、ニコニコ動画で討論番組などを観ています。今日は1980年代の映画「ウォール街」を観ました。

    これらの映像は、映画館のように空間に縛られず、放送局の時間に縛られません。

    昔の映像環境と比べて、縛られなくなった現在のわたしの生活が、今回の設問に走った背景の一つです。
    この議論でそのことを気づきました。
    林くんのコメントはその背景を指しています。
    >映画館離れとか、120分を長く感じてしまうとかって、内容よりも、むしろ社会の変化と「場の組織」の間のずれに原因があるのかもしれません。

    映画の内容よりも、社会とコミュニティといった環境の変化が原因です。
    映画の全盛期はテレビもインターネットもありませんでした。
    最大の娯楽として映画があった時代ではなく、大勢集まって一台のテレビを観るのでもなく、いまやクラウドで配信映像を観るのです。他人とのつながりは、その場ではなくて、モニターを通してです。
    そして、林くんが、私の問題「なぜ120分」を具体的に再提案してくれたのは以下です。
    >「現在の東京・千葉の社会のあり方およびそこでのわたし(たち)の生き方に対して、現在の東京・千葉の映画館のあり方はマッチしておらず、わたし(たち)はそこで120分を過ごすことに1800円の価値を認められない」

    私は行く映画館は、千葉県や愛知県の郊外ショッピングモールに併設されたシネマコンプレックスが多いです。時間帯は平日のレイトショーを狙います。なぜなら一番お客が少ないからです。しかも観客の先頭席に行きます。視界の中に他人が入り込むのが苦手なんです。トムクルーズのアクションを観ながら、前の席の頭が動くと、ああ、あの人にも人生があるのだ、とか思ってしまうので苦手です。
    そうまでして映画に集中しようとするんですが、けっきょく映画の時間に膀胱が堪えられなくて、困ってしまう。
    そう、それで現在の千葉での生活において、映画館のあり方、120分1800円に対していちゃもんをつけるという態度を取るなら、やはり代案をだすべきだと思います。
    そんでその代案は、なんだろう…

    代案の前に…郷田さんのコメントの
    >私自身は映画は120分である必要ないし、5分でも映画であると思っている。それでも映画館の「空間」は切り離して考えることができないです。

    ここまで言ってなんだけど、私、映画館は好きです。
    銭湯も好きです。空間が大きいから好きです。天井が高いのもいい。湯気は高くまで昇ります。
    そういう感じで、画面はでかい・カメラのレンズはキレイ・音は広い空間を駆け巡ります。
    映画館は特別感あっていいよね!

    そして今思いつきました。
    空間がかなり魅力的なので、映画館カフェです。
    そう、これが代案です。
    ウェイターさんがコーヒーを持ってきてくれて、テーブルがあって、手元にわずかな灯りが在れば
    けっこうステキなカフェではないかな。

    共産主義的なマスゲームの圧倒的な魅力(映画)と、ほっこりカフェ時間の両立。というのはどうだろう。
    椅子もソファで、並列していません。

    昔はそういう形態の映画館もあったよね。鶯谷にもあった覚えがある。豪華な装飾がある映画館で、もう潰れてしまうというので、最後に見に行った。
    現代でも似た例はありそうだ。TOHOシネマズのプレミアムシートとかソファだしね。

    座席に自由度が上がることで、映像に対する距離も変わってくるでしょう。現代の演劇でも同じ事が言えますが、舞台と観客席の関係が固定的すぎる。
    学校の先生と生徒みたいな一方通行があります(そうだ私は学校も嫌いだった)。

    私はホットコーヒーでもすすりながら観るくらいを提案します。 つまり映画館としての空間はそのままに、座席のところだけテーブルとソファがあるカフェスタイルにすると。お給仕さんがいて、注文が運ばれてくる。楽しくなりそうだけど、どうだろう。

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  14.  すでに次の議論が始まっている段階なのでアレですが、どうしても付け加えたいことがある。しかも蓮沼くんに対する直接の返事ではなく、やや別の角度からなのですが…。

     シチリア島には1万5千人を収容する古代ギリシアの劇場があるそうです。そこでぼくは考えた。どんな芝居が上演されていたかとかそういうことはどうでもいい。1万5千人の人たちはどんなふうに見て、終わったあとは何をしていたんだろうか。何の資料も調べてないので勝手な推測ですが、1万5千人が全員静まり返って観劇していたとは思えない。きっと適当におしゃべりしたり、途中途中で思っていることを言い合ったりしながら見ていたのではなかろうか。

     ここで思い出すのはニコニコ動画です。あれも感想や意見を言い合いながら観劇するプラットフォーム。さらにはツイッター。ワールドカップの時期はサッカーを見ながらつぶやきまくる人がほんと多かった。

     なにが言いたいかというと、コミュニケーションの遮断された経験を与えられるというのは歴史的にはむしろ例外で、コミュニケーションを続けながら経験を「リアルタイム編集」していく方がむしろ人間の好みに合っているのではないか、ということ。

     蓮沼くんが書いていたように「自由度」が問題で、鑑賞経験の「自由度」を制限していた時代はむしろ例外なので、現代にふさわしい「自由度」を再設定することが必要なのではないか。

     たとえば蓮沼くんの「映画館カフェ」でPCやタブレット、携帯電話の使用を許可したらどうなるか。映画ファンは絶対に反対する。しかしこれまで映画館にこなかった人たちが来るかもしれない。なぜなら、一緒に映画館に行く相手はいないけど、家でDVDを見ながらツイッターをやっている人はいるからです。少なくとも、今回の村上隆氏と映画『ノルウェイの森』の経緯で、今や誰かと一緒に映画を見てそのあと議論するのではなく、一人で見てツイッターで感想をつぶやくという形態が十分にありえることが証明された。個々人の経験の形態、さらにはその経験をシェアする環境が変わってきているわけです。

     映画館の座席という「リアル客席」とツイッターという「ウェブ客席」に同時に座って、自分の経験をどんどん編集していく(もちろんただ映画に集中するだけもよい)。「映画館の圧倒的な魅力とカフェ時間の両立」という蓮沼くんが言っていた点につながると思う。「自由度」、あるいは選択肢の幅と言ってもいい。コミュニケーションを遮断して圧倒的な経験を求めるのも自由、コミュニケーションを続けるのも自由、そういう幅が生まれると、違う流れが出てくるように思います。

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  15. 少し間が空いてしまいましたが、林くんのコメント「リアルタイム編集」はいいですね。
    おしゃべりもツイッターも楽しいからね。
    それから子ども。レンジャーが怪獣にやられそうになったら「あぶない!きをつけて!」とか子どもは叫んでしまうではないですか。
    やはり感情移入したり、なんだよあれ、って突っ込みたいよね。それを適当に話せる環境が好ましい。隣同士でもツイッター上でも。

    以前、私の友人が、奈良の東大寺戒壇院という場所で、ずっと下ネタをしゃべっていたんです。
    そしたら別の観覧者(中高年の夫婦)から、わきまえなさい的な注意を受けた。たしかにね。注意されたのはよくわかる。
    ここには四天王の立派な像があるんです。国宝の。そんなところでふしだらな会話はいけないと。
    でも私はふしだらな会話をしてもいいんじゃないかとも思うのです。

    コミュニケーションを遮断して、通用するものって、徐々に力を失っていく恐れがある。
    舞台上でしか通用しない演劇みたいに、美術館が作品の墓場だと形容されるように、守られた場所というのは注意をしないといけない。
    一方で舞台の持っている空間や、美術館のホワイトキューブなどの「フレーム」が作品といい関係を持ち、魅力に溢れることもあります。
    そうなると
    >映画は内容を作る人と技術環境を整える人が大きく分離している。
    この部分が「120分は長い」と思ってしまう要因に思えてなりません。逆にいえばフレームの映画館が変わると、内容の映画もがらりと変わりそうなのだが。
    どうかな。

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  16.  「コミュニケーション」とか「リアルタイム編集」の問題を美術でどう扱うかも面白い問題だ。

     正直、ぼくが経験したことのある僅かなものの中では、単純にコミュニケーションを「強いる」ような作品はあったかもしれないけど、コミュニケーションの幅を拡張するような作品や、観客に何かを与えることと観客が何かを返すことのバランスを考え抜いているような作品は少なかった。もともと美術にはそういうことは難しいし、歴史的な経緯が演劇なんかとは異なることもあるのだろうけど。ただ「光の館」なんかはとてもいいと思う。

     もっとも、こういうのはアートプロジェクト全盛の今となってはもう解決済みの(というか現実的に乗り越えられた)問題で、この先を考えなければいけないのかもしれないけど…。

     ともかくもう一歩先まで行きませんか。「美術」とか、ジャンルの名前にこだわる必要はないんだけど、蓮沼くんがつくる作品と「120分の映画は長すぎる」「リアルタイム編集は楽しい」といった問題はどう接続するのだろう? ぼく自身もこういう考えをどう役立てればいいんだろう。どうすれば先に行けるのだろう。

     一方で、蓮沼くんがわざわざ振っているのだから、ゴーダにも応えてほしい。

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  17. 時間をあけてしまったけれど、わたしも考えたことを書いてみます。

    沈黙してしまった理由、正直に言えば、そのとおり今の状況は変わってきている、それにあった形態が必要と頭では納得しつつも、なかなか受け入れることができませんでした。認めてしまうことで、自分の仕事への確信の基盤が崩れてしまうような気がして恐ろしかったからです。しかししばらくの間よく考えて、それは別に何かを失うことではないと思えてきました。むしろ映画保存の分野でも乗り越えるべき問題です。

    議論をずらしてしまいますが、仕事がら映画のフィルムばかり贔屓に扱っていると、ときどきフィルム原理主義者と半ば皮肉をこめて言われることがあります。しかし私含め映画ファンは矛盾していて、映画館でフィルムで観ることが最上の体験といいつつも、ビデオでネットで海外通販で、観たかった映画をなんとしてでも観るのです。映画体験の強烈さは結局は個々人のもので、最上の映画館でみるのと、家族が寝静まった早朝に息を殺してレンタルビデオをみるのとで比べられなかったりするのです。

    タランティーノが少し前に『デス・プルーフinグラインドハウス』という映画をつくって、かつての二本立て映画、二番館の傷だらけのフィルムをわざと再現していました。そんなタランティーノ自身はレンタルビデオの店員でいわずもがな大の映画ファンです。ゴダールのドキュメンタリーには、ゴダールの自宅の編集室が写っていましたが、新旧あらゆるビデオの再生デッキ、映写機、フィルム編集機、モニターが何個も重なっていました。
    どちらからも得難い映画体験の強烈さが伝わってきます。彼らの作品の映画の編集行為自体が、自分自身だけの映画体験から各自の映画史をつむぐことだと感じたときは心から感動しました。私にとっての「リアルタイム編集」とはこういうことで、映画体験と映画製作がつながるところです。

    今の時点で私には映画館がこうなればいいという具体的な提案は何も無いけれども、コミュニケーションを生む空間は生き残るカギだなと思いました。「映画体験」を、どのように各自が受けとるにしても、映画館という場で他人とその時間を共有しているという経験は、映画館にしかないそのときだけの特別なものに思えるからです。(ツイッターでも銭湯でも)

    論点がそれてしまって申し訳ないです。でも、映画館・フィルム原理主義でありつづけることは不可能だと自分で確認できてよかったです。まだこれからですが。

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  18.  突然かつての議論に発言を追加してみる…。

     映画の問題にせよ「リアルタイム編集」の件にせよ、何か一つの対象に向き合う=集中するということなのか、という問題がある。

     気が散っていることと集中していることは両立不可能な二つの異なる状態なのか? むしろ気が散っているもしくは意識が拡散していることと集中していることは同時に成立するのではないか? 情報を限定することが集中につながるのではなく、逆に情報を浴びることが集中と結びつくことがあるのではないか? 複数のポイントに意識が飛んでいるからこそ気付いたり見えたりするものもあるのではないか。

     ただしだからといって気が散れば散るほどいいとか、情報を多く取り入れるほど集中できるということにはもちろんならない。問題はフレーミングと、そのフレームの内容物の数と量と質と相互関係。でもそれは当たり前。

     蓮沼くんのやっていることやぼく自身とも関係するけど、どうすれば複数のことに気を散らせながら集中し続けることができるか、「プロ」が必要とされるなかで複数のことをやりながらそれぞれで評価され報酬を受ける仕事ができるのか。あるいは、複数のことをやっているからこその「プロ」ってありえないのか。どんな複数には価値があって、どんな複数は無意味なのか。

     「コミュニケーション」ってよくわからない言葉だから注意したいけど、「コミュニケーションを遮断して、通用するものって、徐々に力を失っていく恐れがある」という蓮沼くんの指摘はその通りだと思う。逆に言えば物事を面白くしていくヒントはそこにあるので、何と何をコミュニケートさせることが楽しいのか、そのあたりだね。

     映画が120分うんぬんとだいぶ離れたけど、ひとまずこのへんで出そう。また書きたい。

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