2011年5月2日月曜日

問題24 「声」を増やす

 そろそろ誰でも書きやすい「問題」を設定してこのブログを盛り上げたいところですが、やはりちょっと違った角度から。

 例のごとく地震と津波と原発ですが、この2ヶ月のあいだにわたしが実感したことのひとつは、「日本ではほとんど誰も正面きった質問をしない」ということでした。どういうことかというと、つまり突然「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」とか、「画家として津波をどう考えるか」とか、あるいは「映画保存技師として一連の出来事をどう見ているか」とか、誰も聞かないわけです。聞いてこないわけです。正面から立場を問い、大きなことを語るよう求める動きは、とても少なかったし、今も少ないと思います。

 ところが、逆方向は溢れている。逆方向というのは、「アーティストとしてできることをやりたい」とか、「自分の生活の中で役に立てることを続けたい」とかです。

 「大きなことを語れ」と求めるひとは少なく、「小さなことをします」と言うひとは多い。外側から「問い」にさらされることは少なく、内側で自分のテリトリーを再確認する言動は多い(敢えていじわるな言い方をしますが)。

 これはちょっと「災害の過ごし方」としてもったいないのではないかと思います。せっかくだからもっと揺さぶられたり、場合によっては立場を問われたり、大きなことを語ったりした方がよい経験になるのではないか。これまで存在しなかった接続が生まれるのではないか。そう思います。

 そこで。外側から問いが来ないなら、自分で自分に問いを立てようと考えました。「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」と自分で聞いて自分で答えるわけです。またこういう場所で枠組みをつくって問いを立ててもらえばいいと思いました。それを今回やってみたい。

 ポイントは、「複数」の問いを立てることだと思います。「〜として…する」が陥りやすい罠は、自分で自分を限定してしまうことです。でも人間は複数的な存在なので、たとえばぼくは今回のカタストロフィを「翻訳者として」「クライスト研究者として」「父親として」「猫と暮らす者として」「日本人として」「新潟県出身者として」等々、いろいろなふうに考えることができるわけです。そしてそういう複数性にこそ、さまざまな困難と可能性の両方が含まれていると思います。

 こういう自分自身のチェック機関のような働きを「声」と呼んでみました。個人、組織、社会、国家、どのレベルでも、根本をきちんと問い直す「声」が不足している気がします。大企業や国家機構だけでなく、やっぱり個人にも「声」が不足しているのだと思います。自分に対して、あるいは他人に対して、今回のような枠組みを利用して直球の問いを立ててみたい(直球じゃなくてもいいんだけど)。ただ、こういう問題だからこそ、変に深刻にならず、気楽にやりたいと思います。深刻さは思考を停止させます。外から見てイタイやりとりにならないよう気をつけましょう。

 自分にも、他人にも、シンプルな問いを立てて、正面から答えてみたい。なんか盛り上がらない気がしてならないけど、どうにかして面白くしてください。とりあえずリリースするので、すぐに始めてもらってもいいし、今回の問題設定自体について感想をもらってもいいと思います。今回はとにかく盛り上がる気がしないので、みなさんの力にかかっています。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。よろしく。

44 件のコメント:

  1. ■マラソンランナーとして今回の出来事をどう考えるか?
    どうもこうもなく、ただトレーニングに励むのみです。
    走っているときに大きな地震がきたら、それは大変ですが、こればかりは予測できないのでとにかくトレーニングに励む。
    ただし、今回の件を受けて、中止になった大会がたくさんあるので、そうではない大会にエントリーする。

    ■ プライベート・プレス・プランナーとして……。
    時間を共有することに着目していたので、震災によって思いがけない形で人々が時間を共有したことが興味深かった。「時間」と「経験」を共有することの意味を再認識することができていると感じる。
    出版においては、紙とインクの不足が生じたことによって、「本」の形は意識せざるを得ない状況になった。製紙工場の被害状況を写真で見たが、紙の持つエネルギーを感じた。

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  2.  太田くん、いいね! いつもさくっと一歩を踏み出すことができるのがすごい。

    >「時間」と「経験」を共有することの意味

     これに反応しました。どんな意味だろう? もうちょっと教えてほしい。

     それと、ドイツ留学を考えている太田くんには、「日本人として」どう考えているかも聞きたい。いつか絶対そういうふうに質問されると思うから。もちろん「日本人の総意として」ということではなく、「日本人太田泰友として」ということね。

     軽く、さくさくと進めていこう! ぼくもあとで書きます。

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  3. プライベート・プレス・プランナーというのは、本を作る過程の時間を共有し、その時間の経験を綴じていくことを一つの目的として考えています。
    震災は強烈な「時間」と「経験」の共有を引き起こしました。
    地震や津波などはまさに強烈な経験で、避難所では突然いろいろな人との生活が始まり、同じ時間を共有していきます。東京においても、あの地震のときどうしていたか、どんなふうに過ごしたのかというのは、様々な場面で聞かれました。
    何かを考えていくときに、「3.11」として記号化された震災は皆で共有した一つの起点となります。このブログでも震災を受けての議論がありました。起点からどんなベクトルでものごとを考えるかというのが一つの大きな流れになりそうです。
    時間や経験の共有とはどういうことなのか、その共有はどういう意味を持つのか、さらにはそうしてできた起点はどのように使っていけるのか。プライベート・プレス・プランナーを考えるうえで、参考になると考えています。

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  4. さてどうしよかな…

    という、まず「どうしようかな」が文章を書くときの私の振りです。ひとまず進める態度で、困りすぎないための一声です。

    だから「日本人として今回の災害について」どうしようかな…。画家としてってのも…千葉県民として…人として…美術博士として…写真家として…29歳として…絵画講師として…都市生活にどっぷり使っている身として…原発にそれほど関心を寄せてこなかった者として…どうしよう。

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  5. ところで「声」が必要なのは、動揺したときでしょうか?
    先日、追いつめられて、あたふたして、なんと車のサイドミラーを折ってしまいました。柱にひっかけてしまったのです。たいへん残念な出来事。

    思うにぶつける前はとても動揺していた…。動揺するとセンサーが正常に動かない。つまり見えていない状態になる。こういうときこそ「声」をあげとけばなぁ反省しました。センサー機能している?と自問自答できていたら良かったなぁ。平常心は大事ということが身にしみた。

    サイドミラーを壊さないための声かけ。その声かけが個人のレベルから大小さまざまな組織に及ぶ…。ん、これは本問題の趣旨の一部だけかな?

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  6.  肩の力を抜いて少しずつ進めようぜ。自分で自分に問いを立てるだけでずいぶん違うと思うんだよ。身が引き締まるというか。しかも楽しい気がするんだよ。漠然とまわりと同じ空気に染まるんじゃなくて、自分のところにちゃんと別の色を塗ってあげる感じ。大袈裟に言うなら、自分に問いを立てることは個人として自由になることかもしれない。

    ■翻訳者として

     使う道具は変われど、基本的には産業革命以前からある古くさい仕事なわけです、翻訳というものは。災害時に直接役立つわけではない。しかし翻訳の基本的な機能は情報を流通させること。これはむしろ産業革命以前よりも現代の方が重要性を増している。

     そのとき、言葉ができるだけではどうにもならないということを今回実感した。ぼくの場合なら、ドイツ語の情報を日本で流すチャンネルや、日本の情報をドイツ語で発信するチャンネルをあらかじめ持っていなければ、たとえドイツ語ができたところでどうにもならない。日本の大学にもドイツ語ができる先生方がたくさんいますが、彼らだってドイツの報道に影響を与えはしなかった。「アイディアではなく実行力が大事だ」とホリエモンがどこかで言ってたけど、それに近いことを感じました。翻訳者は、翻訳の技能だけでなく、発信のプラットフォームを構築・整備しなければならない。

     逆に言えば、発信する場をもたない翻訳者など災害時には何の役にも立たない。さらに一般化して言えば、たとえ情報をもっていてもそれを有効に発信できなければ何の意味もない。これは今回の日本政府や東京電力の情報政策に関してもあてはまると思う。

     以上まとめると、翻訳者=情報流通産業従事者として今回の災害について考えることは2つ。1)これからの翻訳者は発信チャンネル確保を重視すべき。2)日本は情報発信の技術と戦略をより重視すべき。

     もうちょっと先まで行けそうな気がするけど、まずはこのくらいで。

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  7. >「声」が必要なのは、動揺したときでしょうか?

     まさに大事な部分だと思う。だってさ、たとえ動揺してしまっても、自分の内側に少しでも自分を相対化する「声」をもつことができれば、たとえば「停電のおそれ→トイレットペーパー・牛乳・ヨーグルト・卵の買い占め」ってまったく意味不明だとわかるんじゃなかろうか? 停電したら冷蔵庫も止まるし、牛乳や卵をたくさん買っても悪くなるだけでしょう。センサー働いてないどころじゃないよね。

     「声」ってちょっと抽象的な呼び方であんまりよくないかもしれないけど、「空気を破るもの」みたいな意味で考えています。当たり前の真っ直ぐな問いを空気を読まず自分や自分の属する組織に立てられるかどうか。動揺したり、思考停止してしまっている自分(たち)に対して、自分自身で、しかし外側から、「声」をかけること。「水を差す」って表現があるじゃない。ああいうイメージ。水を差して、冷静になる。あるいはほんとうの意味で考え始める。そのための「声=水」かな。

     そのときに「なんだか知らないけどヨーグルトいっぱい買っちゃった自分バカだな」って感じで、笑いながら「声」を発することができるといいと思うんだよね。動揺している最中だけでなく、そのあとも。過去は過去として、時間は作りなおせばいいからね。

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  8. ■日本人、太田泰友として。
    今回の震災を受けて、日本の弱点がいろいろと浮き彫りになった。絶対的なリーダーがいないというのはその一例。
    でも日本人、太田はそれらを見て、「何なんだ、この国はー!」とか、「こんな国に住んではいられない!」とか、そういった感想はあまり持たなかった。それはなぜか?「日本人、太田泰友」は、それほど「日本人であること」に縛られていなかったのです。
    それで私が考えるのは、「日本人」であるというナショナリティを持つと同時に、しっかりとした「個」をそれぞれが持つ必要があるということです。
    部分的に見ると、情報リテラシー能力の問題だとか、そういったものに今回の混乱があるように見えますが、それらを大枠で見ると結局はブレない「個」があるかないかの問題だと思いました。すごくざっくり言うと、「日本人」という組織の中にはそれがなかったり、消してしまっている人が多いのではないかということです。

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  9.  今回の問題はぼくにとってのユートピアのモデルみたいなものでもあると思った。各自が好きなことをやりつつ、共通する話題に対しては、各自が各自の立場を保持しながら知恵を出し合う、という。「ひとつになろう」とか、大流行してますが、ひとつになるとその集団の絶滅は近いというのは生物学的な真理だから、決してひとつにならないにように、しかし共通する問題を議論・決定するにはどうすればよいか。それに答えてみたい。

     いろんな職業のひと50人くらいから成り立っている村があったとしたら、どういうふうにお金を出し合い、議論し、問題を解決していくかな、とか考えるとね、やはり議論の段階では、「この問題について酒屋のおまえはどう思う?」とか聞くんじゃないかと想像するんですよね。そういうストレートな問いで知恵を出し合う社会がまともじゃないかと思う。「くそ勉強会」も近いコンセプトでスタートしたと記憶しています。当然の質問と当然の返事、そういう「声」が消えないことが、個人にとっても社会にとってはとても大事だと思う。

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  10. ■避難所にいるローカルアーティストは

    こどもが暇そうだった。なので遊び道具をつくってあげる。あとこども用の小さい机と椅子をつくる。図工の授業をやってあげる。

    それからおとな用に気持ちよく過ごせるテラスをつくる。集中できる作業台もあるといい。本棚もあればなおいい。パソコンを用意してインターネットもできるようにする。

    まだ片付かない瓦礫の向こうに見える海が綺麗だったこと、停電のせいか星空がくっきりはっきり見えたことを覚えておく。この記憶がいつか役に立つかも知れない。

    歴史上の天変地異に描かれた絵を研究する。
    これから地域に必要なアートを考える。そしてそれを海外にも売る。ローカルからユニバーサルデザインを考えるチャンス。


    ■千葉県在住のローカルアーティストは

    おらが村にも甚大な被害がくるかもしれないと考え、村の風景を描く。また画材が無くとも絵が描けるようサバイバル画法を記しとく。この岩を砕き、この成分を混ぜると絵の具が出来るなど。
    村にある寺社仏閣と連携し、気持ちよく穏やかにお祈りができる設備を考える。


    ■日本人としては

    こんなに大変なことはない。都市化が進めば進むほどバックアップが大変だとも思い知らされた。逃げ道、物資、流通、情報と欠かせないものについて幾通りもバックアップを用意する必要がわかった。天災はどうしようもない。しかし助かる術はいくつも持とう。

    今後の課題として政治能力の向上がある。
    日本人の特性として、現場を持ってる人の働きは優秀であっても組織の指揮者となるとダメである。と私は思っている。
    今回の政治家の働きも不満がある。しかし政治家だけの問題ではないとも思っている。つまり日本人は政治能力が低く、それがため現在の政治家を輩出してきた。そして私自身の政治能力を上げるためにも声をあげる必要を感じる。

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  11. >いろんな職業のひと50人くらいから成り立っている村があったとしたら、どういうふうにお金を出し合い、議論し、問題を解決していくかな、とか考えるとね、やはり議論の段階では、「この問題について酒屋のおまえはどう思う?」とか聞くんじゃないかと想像するんですよね。

    このコメントのおかげで考えやすくなった。
    以前ローカルタレントの存在に憧れて、私はローカルアーティストになりたいと思った。その地域で必要とされ、役割があって、住む場所がある上で活動すればもう充分じゃないかと考えたのです。
    ある街でしか流通していない牛乳や味噌や醤油などがびっくりするくらい美味しかったりすると、もう極端に聞こえるかも知れませんが、私は普遍を感じるのです。
    日本だったら東京、アメリカだったらニューヨークでしょう!という世界の中心はここだよ的なのがあるとします。中心じゃないと意味がない的な。そういうのを感じた自分が、その「中心」とどう付き合おうか考えたとき、中心を通らずローカルからユニバーサルへ行きたいと望みました。

    どうも「中心」には、
    >いろんな職業のひと50人くらいから成り立っている村
    のような必要性から生まれる面白さがない。
    >当然の質問と当然の返事
    やはりこういう実感が欲しい。
    そこの村で輝く声は何処へ行っても通用するのではないでしょうか。私はそういうローカルスターになりたい。

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  12. じつは「中心」も好きである。
    いろんな人がいるからね。国際都市に住んでいる人としての声も増やしたい。

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  13.  いい感じになってきた! ぼくもまたあとで書きます! 

     もう10歩くらい行きたい!

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  14.  太田くんが怒涛の書き込みをするという情報が入ってきた!

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  15. ■ 本作りに関わる者として。
    今まで使っていた紙やインクが使えなくなったとき、どうやって本を作っていけばよいのか考えなければならない。
    あの木と草を使えばこんな紙が作れる。あの樹液は文字を書くのに優れている。こういったことを考えておけば、あるいは練習しておけば、災害時もなんとか本を作ることが出来る。

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  16. ■ 人に料理を提供する者として。
    いつもの流通ルートで食材を入手できなくなってしまい、設備は揃っているのに料理を作れなくなっては困る。どんなときにも対応できる流通ルートを確保しておくことが必要だ。
    逆に、食材があるのに設備が使えなくなってしまったがために料理を作れないのも困る。火をおこす術、加熱する術、簡易調理器の作り方、食器の作り方も考えなければならない。

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  17. ■ 山梨県に実家がある者として。
    海がないから津波の心配はないが、富士山との付き合い方を考えなければならない。富士山の噴火にはあまりリアリティを感じたことがなかったが、今回の津波を見ると、富士山だって本当に噴火するんだと感じた。
    富士山が噴火したらどう対応すれば良いのか。地震の避難訓練はたくさんしてきたが、そういえば富士山噴火時の避難訓練はしたことがない。

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  18. ■ 孫として。若者として。
    災害時、自分がどう対応するかは言うまでもなく当然考えておかなければならないが、孫として、祖父母(あるいは両親)をどう助ければよいのか、また若者としてどう高齢者を助ければよいのか。
    避難の仕方等、具体的な動きも助ける必要があるし、情報をどう伝えていくのかということも考えなければならないと、先日祖母に会って感じた。

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  19. ■ 長男として。
    家族とどうやって生き延びていくか考えなければならない。
    私の場合は家族で唯一実家から離れたところに住んでいるから、この距離感は意識しておかなければならない。この距離感によって、場合によっては助けられるかもしれないし、助けてもらえるかもしれない。

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  20. ■ このブログに書き込んだ者として。
    災害時こそ、「声」を出せるようにしておく!

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  21. ■ 本作りに関わる者として。
    〜災害時もなんとか本を作ることが出来る。

    太田くんの災害時に作る本に興味ある。
    活動をやめない人だ!

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  22.  蓮沼くんも怒涛のコメントを加えるという噂が聞こえてきたが、本当だろうか…。

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  23. >どうも「中心」には、
    >>いろんな職業のひと50人くらいから成り立っている村
    >のような必要性から生まれる面白さがない。

    という蓮沼くんの反応、まさにそのとおりだと思う。政治、選挙、代表制、税金、保険、軍隊、公共工事、などなどは、すべて小さな村で始まった。どんなふうに集団で工夫すれば生きやすいかを考えてつくった仕組みだった。それがあまりに巨大化し複雑化したためにリアリティがなくなってしまい、関心が失われている。

     「自分が住んでいる村の運営のために1年に5万円出している」というくらいの規模だったら、逆に選挙で棄権とかしないと思う。どんな公共工事をすべきか、誰からいくら税金(共同体の運営資金)を集めるべきか、みんな本気で議論すると思う。しかし現実には、年に5万円どころじゃない税金を納めているのに参加できない。遠くて、大きすぎるから。

     道州制とか「新しい公共」とか言われていたけど、今後はコミュニティがふたたび近くて小さなものになるべきなのは間違いない。それを可能にするのが情報技術のはず。そのモデルをネット上にも外の世界にも増やしていきたい。

     「大きなことを語ろう」と言って今回の「問題」を始めたけど、実はその「大きなこと」は大きくも遠くもなく、本当は小さくて身近なことなんだと思います。というか、小さくて身近なことにした方が楽しいよな、と思うのです。

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  24.  太田くんの一連のコメントも面白かった。

     連続して書きまくったのがよかったね。いろんな面が見えてくるから太田くんがどんなひとなのかよくわからなくてよいし、「このひと今後忙しくなるんだな」という感じが笑えてよかったです。

     蓮沼くんの「村の風景を描く」とか「お祈りができる設備を考える」もいい。そしてバックアップはまさにそのとおりだ。技術と生活は結びついている。「政治工学」だ。

     今回の「問題」をつくるときから、ちょっと大きなことも書いたり発言しようと思って、ブログでその日のニュースにコメントするプロジェクトを始めました。

    http://tatsukihayashi.blogspot.com/

    ひとそれぞれ、何かやることがよいという判断、何も変えたくないという感性、いろいろあるだろうし、必要とする時間もばらばらだろうし、それでいいのだと思うんだけど、みなさんは今回の震災をきっかけに始めたことや変えたこと、もしくは否応なく変わったと思うことってありますか? 特に「声」の上げ方(外に対して、自分に対してetc)に関連して。関連しなくてもいいけど。

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  25.  7日目にして予想外の展開がありましたね…。

     助友さん、コメントありがとうございます。怒涛の書き込み、いいっすね。「飛び込み参加歓迎」といっても実際に飛び込んでくるひとはほとんどいないので嬉しいです。

     基本的に一つの「問題」に対して各人が好き勝手なことを言い、他人の意見に反応したい部分があれば反応するというかたちをとってます。

     個人的には、助友さんがどんな活動をもっとも大切にして行なっているのか(地震とか関係なく)、そしてその活動から今回の震災や今の日本をどう考えているのか聞いてみたいように思いました。かなり真面目な質問ですが。

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  26. こんにちは、助友さん!
    僕からもひとつ聞きたいことがあります。
    今回の問題「声を増やすこと」についてどう思われましたか?
    共感する箇所、よくわからないところ、「声」に関する助友さん自身の経験などなど。どんな感想を持ったのか興味があります。

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  27. ■ 移動者として

    移動の意味合いが変わってきてしまった。
    原発からどれだけ離れているか、余震の強い土地なのか。海沿いなのか。

    このコメントを書いている現在は東名高速道路を名古屋から東京へ走行中。愛知県から東京都へ、東へ向かうのに意識の変性はある。

    つい先日は東北道を走り、原発に近づき、震源地に近づき、津波の被害にあった浜辺へ行った。どこも思うことあったが、一番感傷的になったのは那須高原でした。あそこらへんが私にとっての感情の分水嶺だった。あと、いわき辺りでは高速道沿いの崖にカモシカがとことこ歩いていた。

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  28. >みなさんは今回の震災をきっかけに始めたことや変えたこと、もしくは否応なく変わったと思うことってありますか?

    ある。皮膚が痒くて仕方がない。私はストレスを受けるとすぐ肌に出るたち。乾燥して痒くなり爪で引っ掻いて炎症になる。そしてさらに痒くなる悪循環をかれこれ一ヶ月以上…。
    皮膚を掻くことは私にとってのひとつの声。ああ、ストレスがひどいんだな、と分かる。
    これを打開するには、別の声が、かき消す声が必要なんだと思う。ストレスをなくす声が。

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  29. 「ばか勉強」!!!

    すばらしい!!!

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  30.  「ばか力」の伝達はぼくも信じています。だから「くそ勉強会」とかこんな変なブログとかやっています。一連のコメント、とてもよかったです! ぼくもまたのちほど書き込みます。

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  31. >「助友文香」として必要されることは、何でもやります。
    夢は誰かにとって「居たい場所」をつくることです。
    これに人生をかけています。
    __________________

    この助友さんのコメントはよく響く。一番張りがある。声を増やしていくと結果としてさまざまなバリエーションが生まれますよね。あの私、この私、ばか力の私、大統領のように宣誓する私が登場したりする。

    助友さんは「聞く姿勢」について言及しましたが、その通りですね。相手が見えると自分の立ち位置もはっきりします。それでこそ声は響き合う。そこらへんに「声を増やす」の展開が潜んでいる気がします。どうでしょうか。みなさん。

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  32.  「居たい場所」をつくる、はいいですね。物理的な空間でも、ネット上でも。ぜひ知恵を貸してください!

     さて、以下、決して「否定」ではなく「意見」であり「わたしのプラン」ですので、またここから議論が深まればと思います。

     まず「聞く姿勢」うんぬんに関しては、たしかにその通りだと思います。異論はないです。ただ、「声を発する」+「聞く姿勢」というのは、ぼくにはちょっと「かっこよすぎる」印象があります。レベル高すぎというか。そういう「わりとちゃんとできるひと同士がつながる」という世界モデルはぼくは採らないです。

     そもそも、たとえば原発問題に関する声なら聞くけど芸術なんて興味ないとか、その逆とか、「聞く」にも「声」にもいろいろあるわけです。ぼくは「誰かが聞き取るかもしれない」と考えてみんなが勝手にしゃべってるというイメージの方が好きです。「聞く姿勢がある人にしか伝わらない」というのはたしかにその通りだと思う。ただ、その「聞く姿勢がある人」がどこに潜んでいるかわからないわけです。そしてどこかに潜んでいるか誰かが「声」を聞き取ってくれる確率はインターネットによって飛躍的に上昇したわけです。

     それに関連して、「闇雲に広げてはいけない」「本当に必要なときだけ電話する」「不必要な情報はつぶやかない」等に関しても、ぼくはちょっと考えが別で、とりあえず好きなようにやって、困ったことになったらすぐ気付く→すぐ修正するというのが好きです。というのは、何が「本当に必要」か、どれが「不必要」かを事前に正確にソンタクすることはできないと思うからです(だいたい誰にとって必要/不必要なのかって難しい)。最初から「正しい時間」をつくろうとするよりも、修正・方向転換・小回りのきく「柔軟な時間」をつくっていけばいいと思います。なぜなら誰でも間違うからです。特に助友さんの言ういい意味での「ばか」は間違うのではないでしょうか。間違ったら「間違いました」とすぐ直せる「ばか」こそ、よい「ばか」ではないでしょうか。

     このブログもオープンでやってますが、コメント欄になにか非常に困ったひとがきたりしたらぼくは普通に無視します。あるいはあっさりコメントを削除します。しかし決して最初から信頼できるメンバーだけの閉じたコミュニティにしておこうとは思わない。入口は開けておく。だからといって博愛では全然ない。その都度判断してこのブログの「時間」をつくろうと思っています。たぶんほかのひとたちも似たように考えていると思います。

     蓮沼くんの書いていた「相手が見えると自分の立ち位置もはっきりします。それでこそ声は響き合う」は、ぼくは「聞く姿勢」とはまたちょっと別の話だと思うけど、非常に大事なことだと思います。「相手が見える」とは何か。ぼくは現在では肩書きとか所属している学校ではなくて、そのひとがこれまでつくってきたものや発言してきた内容、簡単にいえば「ログ」を参照できる、ということだと思います。このブログも、個人ブログも、ツイッターも、「わたしはこういう人間です」ということを各自が発信して(あるいは結果的に発信することになって)「自分が見える」ようにしておけば、誰かがコンタクトをとってきます。そこで「声が響き合う」可能性が生まれます。

     以上のように、「勝手に声をあげてるひと同士が、友人をつうじて、あるいは技術のおかげでつながっていく」というのが、「声」をベースにしたぼくの世界モデルのようです。いつもながらコメントが長くて申し訳ない…。

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  33. 「聞く姿勢」は確かに存在し、そして「声を発する」ときに重要なものであると思う。

    助友さんと林さんの「闇雲に広げてはいけない」うんぬんについての議論について、私は2人の主張の両方とも納得できました。そして、両方を合わせたような形で実践しているつもりです。

    「ばか」という言葉を使って議論をされていましたが、私は「知らんぷり」という言葉を使います。
    「声を発する」とき、誰にどう発しているのか意識します。林さんの言うように、とりあえず好きなように発してみるときにも、自分自身で「とりあえず好きに発した」ことを意識しています。無意識に近い状態を意識して作ります。
    また、もっと相手を具体的に意識して発してみるときにも、相手の状態を考えたうえで、時にわかっていることをわかっていないように「知らんぷり」して発してみることで、うまく何かを引き出そうとすることがあります。
    「声を発する」とき「聞く姿勢」はたしかに存在するから、「聞く姿勢」に対して、どう発していくのか、どう近づいていくのか考える。その意味では、「聞く姿勢」は、声を発する側がある程度コントロールすることもできるんじゃないか、そこまで「声を発する」質には幅があるんじゃないかと思います。

    もちろん、これら全てを「知らんぷり」して声を発してみることで、何かを進められることもあると考えられます。

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  34. 「のれん」、たしかに必要性を感じます!

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  35. >これは1つ提案なのですが、
    例えばこのブログの目的や方針を、飛び入り参加OKということなどもわかりやすく記載したTOPを加えられないでしょうか。
    入口を入口だと認識させる、通りがかりの者を歓迎する「のれん」のようなものがあれば、「くそ勉強」の在り方も変わるかと思います。

     必要だと思ったひとが動くのが一番よいので、助友さんがつくるとよいのではないでしょうか! というかぜひお願いします! 全然ありでしょう。「ディスプレイデザイン」、ぜひみてみたいです。

     「くそ勉強」はオープンソース・プロジェクトなので、誰が手を加えてもよいのです。最初からいたとか新参者とか関係ないのです。

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  36.  助友さんと太田くんでかっこいいサイトにリニューアルというのもいいね!

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  37.  さて。議論の開始から10日が経過しました。コメントを全部読みなおすだけでもけっこう時間がかかる。よいことです。「くそ勉強」の議論は常にすべて再開可能なので、今回の「問題」もそろそろ終わらせようということではありません。それでも次の「問題」が始まったので、このあたりで問題提出者としてもう一度コメントしておきたい。

     まず純粋に「声」が増えたことはとてもよかったと思います。これまでで最多のコメントが加わった。そして助友さんが外側から新しい声として襲撃してくれたこともよかった。

     内容的には、ぼくは二つのことを今後発展させることができると思う。

    1)助友さんの以下の発言から。

    >私は、言葉は個から発されるものではなく、間にあるものだと感じています。

     ぼくが研究しているクライストという作家は、「わたし」が知っているのではなく、わたしのある種の「状態」が知っているのだ、と言った。助友さんに言わせれば、「わたし」が声を発するのではなく、わたしとなにかの「あいだ」が声を発するのだ、ということになるでしょう。

     これはとても大切な問題と思う。というのは、一旦「聞く姿勢」うんぬんという人間的なものを抜きにして考えると、たとえばわたしたちは今このブログという技術のおかげで声を発している。つまり声を発しているのは「ブログ」である、ということもできる。あるいは、ツイッター「で」つぶやいているのではなく、ツイッター「が」つぶやいているのだ、ということもできる。メディアがメッセージというアレだ。

     とすると、どのような「声」が生まれるかは、どのような「場」が存在するかと密接に関係する。考えれば当然。たとえば企業の内部告発受け入れ機関ができると内部告発が増える。そういうこと。したがって、「声」が必要なところには、あるいは「声」をあげたいときには、「声」が生まれるための「場」をつくらなければならない。「声」が生まれるための「場」をつくることなしに、「こういう声があがらないからダメだ」といつまで言っていても仕方がない。精神論に過ぎない。この「場の組織」が第一点。助友さんだからこその視点と思う。

    2)太田くんの以下の発言から。

    >「聞く姿勢」は、声を発する側がある程度コントロールすることもできるんじゃないか、そこまで「声を発する」質には幅があるんじゃないか

     「声を発する」ということは、大きく言えば「観客の組織」につながるのではないか、という指摘だと思う。あるいは、観客を組織できない「声」はその程度の「声」に過ぎない、ということなのかもしれない。これもきっと「声」の内容だけでなく、質感や「場」の問題だろう。太田くんの発言だからこういう言い方をすれば、「声」は「観客」を「編集する」ということ。

     以上二点から考えられるのは、「声を発する」と言っても、「場」を組織したりひとを巻き込むことができなければ、それこそエリート主義で、「できるやつががんばってる」に過ぎない、ということだと思う。むしろひとが思わず楽しく「声」をあげてしまう「場」をいかにつくるか、そしてその「場」において「観客」をどのように組織=編集するか、ということに思考と技術を割かなければならない。そういうことじゃないだろうか。少なくともぼくは今回の議論からそういう課題を受け取りました。

     ほんとに「これで終わり」ということではないので、このコメントに対する意見等あればまた書いてください!

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  38. 太田式、聞く人間を魅了する「声」トレーニング法を考えてみました。
    1 声を発する。日常的に発する。
    2 発した声の行方を見てみる。
    3 聞く側になったときの時間も大切にする。
    4 観客を意識して声を発する。
    5 様々な視点から自分の声をチェックする。

    オリジナルな「声」を持つことが大事。
    すてきな「声」を発する人には、その魅力にぐいぐいと引っ張られる。

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  39. >なんか盛り上がらない気がしてならないけど、
    >どうにかして面白くしてください。
    この不安は、「声」によってどこかに吹き飛ばされてしまっていた。

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  40.  いいね! そうすると、たとえばどんな「システムとしての仕組み」があればいいんだろう?

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  41.  いいね! どんどん変更しちゃってください。協力できることがあれば連絡を!

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  42.  なんか蓮沼くんは「もうぴったりな絵を一枚描き上げてある」って言ってたよ。大丈夫だと思うな…。

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