今回は前の問題をちょっとひきつぎ、「日本人として」問題をもう少し掘り下げてみたいです。
昨日まで2週間メキシコに行っていました。そこで「わたしは日本人です」とよく言いました。
外国に行くと、当然ながら日本にいるときよりも、「日本人」であることを意識させられます。異国の地での自分の気持ちの距離というよりも、まず周りから見て「異邦人」「日本人」だからです。
「わたしは日本人です」と言いながら、そういえば「日本人であること」、ナショナリティってなんだろう?、当たり前に日本で生まれたけれど、それってなんか意味あるのかな?私には意味なくても他の人には意味あるのかな?などとぼんやり考えていました。
ところで前の問題で、太田くんが「それほど「日本人であること」にしばられてない」というようなことを書いていたけれど、わたしにもそういう実感があります。理由のひとつには、映画や写真のような「媒介のあるイメージ」や小説のような「物語」といったモノを相手にしているということがあります。(あとはネットにもさまざまな場を媒介に、自分のプラットフォームをつくって展開を広げられるという、国境のない世界があると思います。)
異国でナショナリティの壁があったとしても、そうした共有できるイメージや言語、または専門性があれば、「人種をこえた」、「わたし個人」と「相手個人」とのつきあいは、自然にはじめることができます。さらに自分の言葉があればあるほど、より深い展開が拡がることでしょう。
しかし一方で、実際には「日本人であること」に、思った以上にしばられています。
外国に行けば、まず見た目がそうであるのだから、否が応でも、わたし個人の人間や性格や関心を伝えるまえに、そこから始まる。
日本人として守らなければいけない法律なんかもある。
ふだんの映画の保存の仕事でも、映画すべてではなくて、中でも「日本映画」の保存に特化している。アーカイブというのが、場所の属性が重要なことも理由だけど、私がメキシコ人だったら、日本映画が一番好きでも、メキシコの映画を保存する可能性は高くなると思います。
場所との関係が、ナショナリティというひとの属性に関わっていることは大事なことだと思います。(そもそも、なぜ異国に惹かれて訪れるのか、それはそのナショナリティに惹かれ、接してみたいというのが一番の目的です。)
だから、ナショナリティをもっていることそれ自体に意味があると考えてみるというか、意味づけて持っておいてもいいなと思いました。
きっと「日本人」であることは、想像以上に自分に関係していると思ったからです。
蓮沼くんが書いていた「ローカルからユニバーサル」という普遍性という発想も考えるきっかけになりました。
うまく言えないのですが、無意識でも意識的でもいいので、わたしの、日本人であるというナショナリティをもっと楽しめないものか?という問をなげてみます。
まずはじめとして、自分が「日本人」を理由として得てきたと思うこと、自分の分野で日本に特化していること、自分が日本を語るとしたら何を語るか?など聞いてみたいです。