2011年5月23日月曜日

問題27 「くそ勉強」の在り方

新参者のsukeです。

私は、大学ではオフィスデザインを通して、会社の方と一緒に「働き方」を考えていました。

この中で、「自分の環境を自分たちでつくる」ということに大きな価値を感じてきました。
環境は、自分に影響を与え、周囲にも影響を与え、自分の人生にも影響を与えます。
私は、環境がより良いものになれば、人生がより良くなると考えています。
そして、その環境は他人に勝手に作ってもらうものではなく、
自分がどう在りたいかを考え、周囲を巻き込み、自分たちで考えるべきだとも考えています。


そんな私は今、ブログのデザインを通して、「くそ勉強」の「在り方」を問い直したいと思います。


これまでの「くそ勉強」はどんな在り方をしてきた(している)と思いますか。
これからの「くそ勉強」はどこを目指し、どんな在り方をしていきたいと思いますか。

あなたは、これまでの「くそ勉強」にどう参加してきましたか。
あなたは、これからの「くそ勉強」にどう参加していきたいですか。

そのためには、何が余分で、何が足りないと思いますか。

助友という新しい人間が入ってきたことは、くそ勉強が変わる一つのチャンスだと思うのです。
今、「自分の環境を自分たちでつくる」ことを考えてみようではありませんか。

2011年5月16日月曜日

問題26 あなたの取材先を教えてください

あなたの取材先を教えてください。
取材先を持っていない方はぜひこの機会につくって教えてください。

取材とは自身の活動の糧になるようなことです。材料であり素材です。
ジャーナリストであれば直接被災地へ行き、その眼で原発を見に行くことがニュースをつくる素材になるでしょう。画家であれば取材対象はそのままモチーフになります。編集者はあの人はあそこへ、この人にあっちへと取材をさせようとするかもしれない。映画監督はテーマを探しに直感的に南米へ行ったりする…など など。

ここに出題する意図としては、問題を繰り返し考え続けていることで、問題に応答する技術が高められるように、人に説明できる、共有出来る取材先を複数持っておくことで「材料・素材」を取り出す技術が得られるのではないかと考えています。

そして「この時期、他人はどこへ行き、何を見聞きしたいのか」について興味があります。
みんなは何の素材を取りだそうとしているのかを知りたい。
例え専門が異なっても、何を知ろうとして、どう動こうとしているのかを共有することはたいへん刺激になることです。ここで影響し合って展開し、さらに新しい取材先を見つけたい! 

これまでの取材先も、これからの取材先も教えてください。

問題 1〜25

2010年12月20日からスタートした「問題集」は25問目をむかえました。
目標は問題 100です! これからも末永くお付き合い下さい!
ちなみに本日は26問目が提出されます。のちほどまた。
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問題1 記録について 22 コメント

問題2 クリスマスはどう過ごすか 7 コメント

問題3 年末をどう過ごすか 13 コメント

問題4 目について 5 コメント

問題5 映画はなぜ120分なのか 20 コメント

問題6 編集(の)可能性とは何か 19 コメント

問題7 移動中の時間は何をすべきか 10 コメント

問題8 3D から考える 5 コメント

問題9 素材の欲望 3 コメント

問題10 集団とどう付き合うか 4 コメント

問題11 何か困っていませんか 6 コメント


問題12 歴史の勉強 6 コメント

問題13 素材と付き合う技術 19 コメント

問題14 肩書きをどうするか 10 コメント

問題15 何を共有できるか 3 コメント

問題16 拠点となるところ 24 コメント


問題17 言葉に窮する問題 35 コメント


問題18 勝利の方程式 9 コメント

問題19 リズムのつくり方 21 コメント

問題20 想像の方法 4 コメント


問題21   4 コメント

問題22 人生を楽しくする十ヶ条 23 コメント

問題23 寝ること 6 コメント

問題24 「声」を増やす 51 コメント

問題25 わたしは日本人です。 21 コメント

2011年5月10日火曜日

問題25 わたしは日本人です。

今回は前の問題をちょっとひきつぎ、「日本人として」問題をもう少し掘り下げてみたいです。

昨日まで2週間メキシコに行っていました。そこで「わたしは日本人です」とよく言いました。
外国に行くと、当然ながら日本にいるときよりも、「日本人」であることを意識させられます。異国の地での自分の気持ちの距離というよりも、まず周りから見て「異邦人」「日本人」だからです。

「わたしは日本人です」と言いながら、そういえば「日本人であること」、ナショナリティってなんだろう?、当たり前に日本で生まれたけれど、それってなんか意味あるのかな?私には意味なくても他の人には意味あるのかな?などとぼんやり考えていました。

ところで前の問題で、太田くんが「それほど「日本人であること」にしばられてない」というようなことを書いていたけれど、わたしにもそういう実感があります。理由のひとつには、映画や写真のような「媒介のあるイメージ」や小説のような「物語」といったモノを相手にしているということがあります。(あとはネットにもさまざまな場を媒介に、自分のプラットフォームをつくって展開を広げられるという、国境のない世界があると思います。)
異国でナショナリティの壁があったとしても、そうした共有できるイメージや言語、または専門性があれば、「人種をこえた」、「わたし個人」と「相手個人」とのつきあいは、自然にはじめることができます。さらに自分の言葉があればあるほど、より深い展開が拡がることでしょう。

しかし一方で、実際には「日本人であること」に、思った以上にしばられています。

外国に行けば、まず見た目がそうであるのだから、否が応でも、わたし個人の人間や性格や関心を伝えるまえに、そこから始まる。
日本人として守らなければいけない法律なんかもある。
ふだんの映画の保存の仕事でも、映画すべてではなくて、中でも「日本映画」の保存に特化している。アーカイブというのが、場所の属性が重要なことも理由だけど、私がメキシコ人だったら、日本映画が一番好きでも、メキシコの映画を保存する可能性は高くなると思います。

場所との関係が、ナショナリティというひとの属性に関わっていることは大事なことだと思います。(そもそも、なぜ異国に惹かれて訪れるのか、それはそのナショナリティに惹かれ、接してみたいというのが一番の目的です。)


だから、ナショナリティをもっていることそれ自体に意味があると考えてみるというか、意味づけて持っておいてもいいなと思いました。
きっと「日本人」であることは、想像以上に自分に関係していると思ったからです。
蓮沼くんが書いていた「ローカルからユニバーサル」という普遍性という発想も考えるきっかけになりました。

うまく言えないのですが、無意識でも意識的でもいいので、わたしの、日本人であるというナショナリティをもっと楽しめないものか?という問をなげてみます。

まずはじめとして、自分が「日本人」を理由として得てきたと思うこと、自分の分野で日本に特化していること、自分が日本を語るとしたら何を語るか?など聞いてみたいです。

2011年5月2日月曜日

問題24 「声」を増やす

 そろそろ誰でも書きやすい「問題」を設定してこのブログを盛り上げたいところですが、やはりちょっと違った角度から。

 例のごとく地震と津波と原発ですが、この2ヶ月のあいだにわたしが実感したことのひとつは、「日本ではほとんど誰も正面きった質問をしない」ということでした。どういうことかというと、つまり突然「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」とか、「画家として津波をどう考えるか」とか、あるいは「映画保存技師として一連の出来事をどう見ているか」とか、誰も聞かないわけです。聞いてこないわけです。正面から立場を問い、大きなことを語るよう求める動きは、とても少なかったし、今も少ないと思います。

 ところが、逆方向は溢れている。逆方向というのは、「アーティストとしてできることをやりたい」とか、「自分の生活の中で役に立てることを続けたい」とかです。

 「大きなことを語れ」と求めるひとは少なく、「小さなことをします」と言うひとは多い。外側から「問い」にさらされることは少なく、内側で自分のテリトリーを再確認する言動は多い(敢えていじわるな言い方をしますが)。

 これはちょっと「災害の過ごし方」としてもったいないのではないかと思います。せっかくだからもっと揺さぶられたり、場合によっては立場を問われたり、大きなことを語ったりした方がよい経験になるのではないか。これまで存在しなかった接続が生まれるのではないか。そう思います。

 そこで。外側から問いが来ないなら、自分で自分に問いを立てようと考えました。「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」と自分で聞いて自分で答えるわけです。またこういう場所で枠組みをつくって問いを立ててもらえばいいと思いました。それを今回やってみたい。

 ポイントは、「複数」の問いを立てることだと思います。「〜として…する」が陥りやすい罠は、自分で自分を限定してしまうことです。でも人間は複数的な存在なので、たとえばぼくは今回のカタストロフィを「翻訳者として」「クライスト研究者として」「父親として」「猫と暮らす者として」「日本人として」「新潟県出身者として」等々、いろいろなふうに考えることができるわけです。そしてそういう複数性にこそ、さまざまな困難と可能性の両方が含まれていると思います。

 こういう自分自身のチェック機関のような働きを「声」と呼んでみました。個人、組織、社会、国家、どのレベルでも、根本をきちんと問い直す「声」が不足している気がします。大企業や国家機構だけでなく、やっぱり個人にも「声」が不足しているのだと思います。自分に対して、あるいは他人に対して、今回のような枠組みを利用して直球の問いを立ててみたい(直球じゃなくてもいいんだけど)。ただ、こういう問題だからこそ、変に深刻にならず、気楽にやりたいと思います。深刻さは思考を停止させます。外から見てイタイやりとりにならないよう気をつけましょう。

 自分にも、他人にも、シンプルな問いを立てて、正面から答えてみたい。なんか盛り上がらない気がしてならないけど、どうにかして面白くしてください。とりあえずリリースするので、すぐに始めてもらってもいいし、今回の問題設定自体について感想をもらってもいいと思います。今回はとにかく盛り上がる気がしないので、みなさんの力にかかっています。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。よろしく。