2011年3月28日月曜日

問題19 リズムのつくり方

 今回は、前回の太田くんの問題「勝利の方程式」を引き継ぐテーマ設定にしたいと思います。タイトルは「リズムのつくり方」です。

 前回の問題では、「流れのつくり方」が話題になりました。いつもどおり、特に結論はついてませんが、実質的には蓮沼くんのコメントに議論が集約されていたと思います。つまり、「小さなこと/一歩を大事にすること」、そしてそれによって「問題をクリアにしていくこと」。

 ではその「小さな一歩」とは何か? 一人一人にとって具体的にどういう作業なのか? どうすれば「小さな一歩」を積み重ねて、「問題をクリアにしていくこと」ができるのか? それを「リズムのつくり方」という観点で捉えてみたいと思います。

 特に付言するまでもなく、今現在、リズムを崩しているひとは、ぼく自身を含めてたくさんいると思います。リズムを崩すことが必ずしも悪いことだとは思いません。ひとがリズムを崩すときは、やはり必要があって崩しているのだと思います。ただ、そろそろ自分のリズムを更新したいと思っているひとも多いのではないでしょうか。ひとのやり方を真似したからといって、すぐにいいリズムができるとは限らないでしょう。しかし、おそらく「どうすればリズムをつくれるのか」ということを他人と話し合うこと自体が、個々人にとってリズムをつくっていく作業そのものになるのではないか。そう考えています。

 というわけで、この問題提起自体がぼくの「リズムのつくり方」の「小さな一歩」です。ほかにもいくつか思い付くことはあります(「朝から家を出る」「日記を書く」など)が、それらの具体的な紹介(なぜそれをするか、どこがいいか)はコメント欄でするとして、まずは問題提起だけにしておきたいと思います。

 ひとが毎日の生活のなかで、どんな「小さな一歩」を積み重ねてリズムをつくっているのか、ぼくはとても興味があります。たぶん興味のあるひとは多いと思います。個々人のやり方を紹介し合いながら、お互いに「リズムのつくり方」のヒントを得たり、あるいは「リズム」なるものについての理解を深めることができればと思います。

 最近は太田、郷田、蓮沼、林だけでなく、臼井くんがコメントを書いてくれて、別の動きが出てきて、とても楽しく思っています。あらためて確認しておくと、このブログは原則として実名で参加してもらえればコメントは自由です。短い意見でも質問でも、ひっかかったひとは残してみてください。

 それでは今回もよろしくおねがいします。

林立騎

臼井くんがコメントを募集中

 この「くそ勉強」ブログでも何度か発言してくれているアーティスト・イン・児童館の臼井くんが、『アーティスト・イン・児童館 コンセプトブック』の原稿に関してコメントを募集しています

 すでに蓮沼くんはコメントしたようです。ぼくもします。

 「くそ勉強」ブログをご覧のみなさんもぜひどうぞ。

2011年3月22日火曜日

問題18 勝利の方程式

予定されていたスケジュールより1日投稿が遅れてしまって申し訳ございません。

勝利の方程式。今回はこれについて考えたいと思います。

自らの経験の中から得た勝利の方程式のようなものが、皆さんの中に何かしらあるのではないかと思います。手に入れた、あるいは作り上げた必勝法を、何か他のものに応用できるようになると、それは強力な武器になり得ます。
この勝利の方程式は、自らの経験の中から生まれている分、自身の中ではよく理解できていて、活用の仕方もよくわかっていますが、これを人に伝えようとするとなかなか難しい。表面的には理解してもらえても、本質的なところで理解してもらうのはそう簡単なものではないように感じます。
しかしながらこれを共有できると、武器を増やすことが出来て、戦闘能力が高まります。

そこでまず皆さんがどんな経験の中から、どんな勝利の方程式を手に入れたのか、そしてそれをどう活用しているのか具体的に聞かせていただきたいです。
武器の共有というような話は、このブログでも以前されていましたが、経験から生まれた貴重な勝利の方程式に的を絞って、その共有する方法について考えていきたいと思っています。

2011年3月4日金曜日

問題17 言葉に窮する問題

言葉に窮する、言い淀む、詰まる…などが会話の中で発生することがあります。
そのときの「言えない」理由が、勉強不足や関心の無さなら問題はありません。
なぜならダメージが無いからです。

痛いのは、切実で未分化の状態、また理解が及ばない上の断絶の場合です。
逃げても芸を駆使しても、相手にも自分にも通用しないことがあり、言葉にできていないことは、やはり「言えない」のです。そしてその傷は深い。

しかも!相手に「甘い考え」とか「覚悟がない」とか言われると無条件で腹がたったりします。
こちらは難しい問題で弱っているのだがら、勘弁してくれとも思います。
勉強会とブログ問題集をやっていくなかで「言葉に窮する問題」が何度か登場しました。
個人の切実な問題であるから触れないというのもありですが、「くそ勉強会」にはがんがん掘っていく精神が在ります。この問題提起は意味のあるものになればと思います!

しかし、ここで個人の問題に焦点を当てることはしません。解決には具体的な取り組みが必要でしょう。
ここでは「丈夫」になるためのアイデアを持ち寄って、議論ができたらと思うのです。

今後幾度と無く顔を出すであろう問題に対して、これは「言葉に窮する問題」であると認識し、管理するだけでも楽になるし、対処もしやすいでしょう。また問題の由来を分析し、それを他人にも伝える言語化をすると解決の前進になるはずです。
また「勉強会」というシステムが、難問題に対して何らか寄与できるはずです。私にとって勉強会は、現実と理想の間のプラットフォームのようなイメージです。

「丈夫」になるためのアイデアとして、私の例を出しますと、
言葉に窮するのは、必要がないからだと考えています。
言っても詰まらないことだからこそ、詰まってしまう…

それで実は、私はどもりなんです。
今でこそ少なくなりましたが、幼い頃はそれはもうヒドかった。
どもりって最初の発話ができなくて、同じ音を何度も痙攣のように出してしまう。
いま思い返すと…どもるのは、あまり言う必要のないときなんですね。
無理すると緊張して、どもってしまう。
どもって苦労して話したところで、内容の意味よりも、発話の運動に人の目は行ってしまうのでやるせない。しかし、言いたいことがあるときは、ま、なんとかなるのです。

困ったのは国語の音読などです。学校の授業で、順番に読むのには参りました。
やべーここは発話出来ないわーと先に分かってしまうのです。で巡って、私の順番になってしまう。発話出来ないもんは出来ないのだから、仕方なく、「先生、声が出ません」と申告するのです。
すると先生は不思議な顔になります。
なぜなら「先生、声が出ません」と声を出しているから。
あと、自分の名前とかは発話しにくい。あまり言う必要を感じていないのです。

そこで私のアイデアですが、「言葉に窮するのは、必要がないから」の、
必要を感じていない私の判断は適当かどうか考えてもいいのです。
しかし、必要を感じていないことを、信念を曲げてもいいのか?については
ぐにゃぐにゃに曲げていいと思います。私はなにより皆と共通して喋りたかった。
がらっと変えるくらいじゃないと、言葉に窮する問題は解決しないと思うのです。

まずはこんな始まりから。