2010年12月30日木曜日

お知らせ

「くそ勉強」ブログは年末年始のお休みをいただきます。

「問題集」プロジェクト次回の更新は2011年1月3日(月)となります。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2010年12月27日月曜日

問題3 年末をどう過ごすか

 問題はシンプルです。

 みなさんは「年末」を、どのような意図をもって、どのように過ごしていますか。「年末」の効果的な使い方にはどのようなものがあるでしょうか?

 「年末」にわたしはいつも二つの「動き」を見ます。一つは「思い出す」こと(「今年の10大ニュース」など)、もう一つは「捨てる」こと(大掃除など)です。「思い出す」ことは、選択して「集める」こと、「まとめる」ことと言ってもよいでしょう。したがって「年末」には、「集める/まとめる」と「捨てる」という、一見正反対の二つの動きが同居します。「集める/まとめる」は精神的で、「捨てる」は物理的である場合が多いと思います。

 わたしはこれまでの人生の「年末」において、物理的に「捨てる」ことに圧倒的なウェイトを置いてきました。「この一年」を「集める/まとめる」、あるいは「思い出す」習慣がないので、「〇〇年といえば☓☓」というような個人的な紐付けがあまりないし、「今年はこういう成果に到達した」というようなこともさほど考えません。

 わたしにとって「年末」は、いつのまにか溜まった余計なものを捨て、身軽になり、新年に向けて準備をする時間です。精神的な意味はまったくなく、ひたすら物理的に捨てることに費やします。

 しかし「そんなに前ばかり見ないで、たまにはじっくり振り返った方が得るものがあるよ」とか、「この一年の総決算をなんらかのかたちでまとめておいた方がのちのち役立つよ」という声が、ときどき自分の中からも聴こえてきます。精神的に「集める/まとめる」ことがあってもいいのかな、と毎年一度は考えます。みなさんは「年末」に記憶や考えを集めたりまとめたりしますか。「この一年」あるいは「今の自分」を「集める」ことや「まとめる」ことの効用ってなんでしょう。

 「捨てる」ということは、見方を変えればこれからの自分に必要なものを選別することだから、その意味で一種の「集める」ことであって、したがって「捨てる」と「集める」は同義なのだ、というような意見もあるかと思います。あるいは、「まとめる」とはまとめられたもの以外を「捨てる」ことだから、「まとめる」と「捨てる」は同義であるとも言えてしまいそうです。たしかにそうした面もありましょう。しかし結果的に同じになることと最初から能動的にすることはやはり違うし、物理的に「捨てる」ことと精神的に「集める/まとめる」ことは行動として結局のところ異質です。

 そこでみなさんの「年末」の過ごし方について教えていただきたい。どのような意図をもって、どのように過ごしていますか。「年末」の効果的な使い方にはどのようなものがあるでしょうか? とりわけ、精神的な「この一年」の集め方/まとめ方について考えがあれば、それが知りたいです。ちなみに、参考までにわたしの今年の「年末」の過ごし方は以下の通りです(予定)。大掃除で余計なものを捨てる、ドキュメントスキャナで当面不要な紙類をすべてPDF化し捨てる、空いたスペースを利用して本を整理し直し、作業に使える場所を広げる。精神に関する予定はまったくありません。

 問題の設定がいいかげんなことは自覚していますが、議論の中で輪郭ができればいいと思うのでまずは投げます。「年末」を考えるためには「年始」をセットにしなければならないという意見もあるかと思いますが、そのあたりの議論の射程も流れのなかで設定していきましょう。まずは答えやすいように答えてください。

 以上です。よろしくお願いします。

2010年12月24日金曜日

問題2 クリスマスはどう過ごすか

議題は「クリスマスをどう過ごすか」です。
本日は12月24日、クリスマスイブです。私はローストチキンをつくりました。スーパーで赤と緑のクリスマスシールが貼られた鶏一羽丸ごとを購入、前日から塩水に浸け、オリーブオイルを塗り、塩胡椒をして、150℃度で長時間焼き上げる。そういうことをしていました。
なぜ、ローストチキンをつくったのかと問われたら、クリスマスだからと応えたでしょう。

日本においてクリスマスという記念日は、深く浸透しているように思えます。デパートでは宝石を受け渡す専用のブースが 特設されていますし、コージコーナーではケーキがたくさん売れています。商店街でもデパートでもマンションの外壁にもLEDイルミネーションは点灯してい ますし、近所のコンビニにもツリーが飾られています。

それに対して、日本人がクリスマスに浮かれていると、冷ややかに、批判する人はいます。キリスト教でもないのに、企業のしかけたイベントだよ、とかです。しかし、そんな批判はお構いなしに、日本全域にわたってクリスマスは浸透し、楽しまれているように思えます。
これほど普及しているのは、大晦日・正月、終戦記念日くらいしか私は他に知りません。


私はクリスマスをどう過ごすのか、について20代前半まで、ある理想を持っていました。それは、まず12月中旬くらいに私は船に乗ります。そしてどこかで難破する。漂流の後、なんとか運良く通りがかった船に助けてもらう。その船で東京の港まで送ってもらう。どんどん港に近づくにつれ、東京が煌々としているな、と何気なく見るのです。きっと東京湾からは銀座の灯りがよく見えるはずです。現在はお台場も明るいでしょう。あれ…やけに明るいな、と思っている最中、あ、今日はクリスマスだった!と私は気づくのです。そういう過ごし方がいいな、と理想を持っていました。気づいた瞬間、クリスマスに包まれるのです。

きっとクリスマスという大きなイベントの流れに対して、当時の私は素直に乗りたくなかったのでしょう。
今年はローストチキンをつくりましたので、その点、素直になりました。
クリスマスは表層的だと批判しても、もう現実として、クリスマスは至る所にあります。
クリスマスをどう過ごすのか、を考えることは、浮ついた問題ではありません。

2010年12月20日月曜日

問題1.記録について

なぜ人は記録を残すのか? 


大そうじをしていて、じぶんはモノが捨てられない性格だなと、つくづく思っていました。
1ページだけ使ったノート、撮影したテープ、お土産、読み終わった本、メモ書き・・・収集癖はまったくないのですが、そのモノをみると、思い出すことがなにかしらあって、なんでもとりあえず持っていようと思ってしまう・・・
話はとびますが、これは大事だなとモノに執着しながら、「どうして人は記録したり、保存して残したり、伝えようと考えるのか」考えていました。

古く、絵や文字が生まれた頃から、記録を残すことは人にとって「必要なこと」で、それがいまは「必要なこと」から「当たり前のこと」になり、「自動的に残るもの」にもなってきた。
そんな中か前からか、図書館やアーカイブは、当たり前に必要なものになっていて、いまではインターネットに、大勢の履歴や記録が、自動的に残されるようになった。

同時に、優れた編集者や整理するひとたちが現れ、記録は「残す」という目的から、もっと動きのあるものに変わっていったような気がする。

いままで膨大な記録は、ただとにかくどこかにあるだけの半透明のもののように思っていたけれど、それが実体化すると、現実に影響をおよぼしていく。Youtubeなど、こんなのも見れていいなあと見ながら、自分は見ることができるのに、他の人が見られるように、わざわざ古い映像や最新の映像を手間をかけて映像を変換し、時間をかけてアップロードする誰かがいるのだと思うと、そこにものすごく記録を残そうという意思を感じてしまう。ウィキリークスの件は、そんなうごめきが実体になって現れたように感じた。それらをすべて記録と呼んで適切かわからないけれど、動きが伴うと、世界がちょっとずつ変わる。
記録を残す行為は、価値感や世界の見方を変えることで、昔から人の進化や成長にかかわっていたと思うのだけど、そうしたことに近い。だから人は記録を残したいと思うのかな?と思った。

記録は証拠や情報という戦略を備えた武器とも、プロセスという作品になったりすることもある。

ドキュメント、という言葉が勉強会でも何度か出てきて、気になっていた。

記録で、どんなことができるのか、考えたいです。



2010年12月12日日曜日

お知らせ

「くそ勉強」ブログの立て直しを鋭意計画しております。

このブログを立ち上げてもうすぐ1年ですが、最初の1ヶ月くらいしか使ってませんでした…。

シンプルで効果的な活用法を模索しております。