2010年12月20日月曜日

問題1.記録について

なぜ人は記録を残すのか? 


大そうじをしていて、じぶんはモノが捨てられない性格だなと、つくづく思っていました。
1ページだけ使ったノート、撮影したテープ、お土産、読み終わった本、メモ書き・・・収集癖はまったくないのですが、そのモノをみると、思い出すことがなにかしらあって、なんでもとりあえず持っていようと思ってしまう・・・
話はとびますが、これは大事だなとモノに執着しながら、「どうして人は記録したり、保存して残したり、伝えようと考えるのか」考えていました。

古く、絵や文字が生まれた頃から、記録を残すことは人にとって「必要なこと」で、それがいまは「必要なこと」から「当たり前のこと」になり、「自動的に残るもの」にもなってきた。
そんな中か前からか、図書館やアーカイブは、当たり前に必要なものになっていて、いまではインターネットに、大勢の履歴や記録が、自動的に残されるようになった。

同時に、優れた編集者や整理するひとたちが現れ、記録は「残す」という目的から、もっと動きのあるものに変わっていったような気がする。

いままで膨大な記録は、ただとにかくどこかにあるだけの半透明のもののように思っていたけれど、それが実体化すると、現実に影響をおよぼしていく。Youtubeなど、こんなのも見れていいなあと見ながら、自分は見ることができるのに、他の人が見られるように、わざわざ古い映像や最新の映像を手間をかけて映像を変換し、時間をかけてアップロードする誰かがいるのだと思うと、そこにものすごく記録を残そうという意思を感じてしまう。ウィキリークスの件は、そんなうごめきが実体になって現れたように感じた。それらをすべて記録と呼んで適切かわからないけれど、動きが伴うと、世界がちょっとずつ変わる。
記録を残す行為は、価値感や世界の見方を変えることで、昔から人の進化や成長にかかわっていたと思うのだけど、そうしたことに近い。だから人は記録を残したいと思うのかな?と思った。

記録は証拠や情報という戦略を備えた武器とも、プロセスという作品になったりすることもある。

ドキュメント、という言葉が勉強会でも何度か出てきて、気になっていた。

記録で、どんなことができるのか、考えたいです。



22 件のコメント:

  1. 郷田さん自身は、どんな記録を残してきたのですか?
    対象の画像があれば記事にアップしてください。
    それもまた記録ですね。

    返信削除
  2. ぼくも自分の考えを書く前に一つだけ質問。

    「なぜ人は記録を残すのか」という問いはとても面白い。ただそれを議論するためにも、その問いに対するゴーダなりの仮説や考えをもっと明確に提示してほしい。最後の方になんとなくほのめかされているけど、はっきりした土台がほしいです。

    特に、「なぜ人は記録を残すのか」という最初の問いと「記録でどんなことができるのか」という最後の文の関係を明示してほしい。記録に対する人間の欲望と記録が物事を変えていく可能性の関係にゴーダは興味があるのかなと思いました(歴史の駆動装置としての記録)。

    興味の精確な所在と現在までの考えをもう少し宣言してほしいです。

    返信削除
  3. 誰しも記録を残したいという本質があって、それはモノを捨てたくなかったり、youtubeに映像をアップするといったことにも感じたりするのだけど、両者では能動的な動きや意思の質がちがうように思う。はるか昔から記録は、歴史や人間の考え方に影響を及ぼした。「とりあえず残したい」から、「なにかを変える」という動き・・・

    ただただどこかにあった記録が、ぽんと実体として目の前に現れる、驚く、ちょっと変化がある、そういう可能性に興味があります。とにかく残すのは、どこかで変えたい動きにつながりたいからなのかとも思いました。無意識であっても。

    ドキュメント、という言葉は記録のひとつの動きの形なのか、もっと違うものなのか。記録を残しとくっていうのと、ドキュメントをつくるっていうところで何か動きの質が違う気がしたのですが・・・

    (わたしが残した記録・・!さがしてみます!)

    返信削除
  4. ここでの「記録」の定義についてもう少し教えてくださいな。

    「誰しも記録を残したいという本質が」あったとして、僕が思い浮かべるのは日記や写真です。
    日々の取り留めのない生活を書き留めたり、活動の様子をカメラで撮ったりするときに「記録」していると感じます。

    古事記や風土記は、国の成り立ちや出来事、地域の特産などを記した本です。あれは記録だと思います。
    残したい意思があって書き留めたのでしょう。

    一方、捨てられない、私の思い出がつまっているノートや玩具、お土産などを残すことが「記録」とは、どうもピンと来ないのです。保存には違いないと思いますが。

    これは記録で、これは記録じゃないの決め方はその人の自由ですが、郷田さんはどういう線引きで「記録」を扱っているか教えてださいな。

    返信削除
  5.  記録と保存を分けて考えるのは大事な視点と思いました。

     この議論のなかでの「記録」の定義も聞きたいです。

     そのうえで、「記録でどんなことができるのか」という立ち位置をあいまいにした言い方ではなく(主体も目的もあまりに漠然としている)、ゴーダなりに「記録」にひっかかっているなら、「記録」でなにがしたいのか、今のところまででいいから、自分の考えを教えてほしいです。

    返信削除
  6. お話を採る 写真を撮る 書き留める 
    などなど「取る」行為があって記録が出来上がるイメージを持っています。

    「止める」も連想します。書籍、静止画、動画、それらは情報として固定されているから。

    いったん止めた/取った「記録」から、「どんなことができるのか」という動きが起きるんですね。それはダイナミックな作用ですね。

    さて、どんな「動き」があるでしょうか?

    返信削除
  7.  「なぜ人は記録を残すのか」についての答えは時代によって変わるでしょう。時代によって変わるけど、人は記録を残す。個人的にはそれは生きるため/死ぬために必要だからだと思います。

     しかしともかく、「なぜ人は記録を残すのか」の答えが可変なら、ぼくはその答えよりも記録の現代的な意味を考えてみたいと思います。

     ぼくは、現代における記録の重要な意義は、記録が人間を軽くすること、記録が「忘れていい」状態を生み出すこと、ここにあると思います。

     したがって、まず「どこかに大量に保存されているらしい」ものとしてのアーカイブ(保存)と記録は区別したい。記録を「すぐに呼び出せること」とセットで考えたいと思います。つまり、記録は検索、利用、公開とセットであり、常に何らかのプロセスに巻き込まれているものと考えます。記録を静的なものではなく、動的なものと捉えた方が生産的なのではないかと思うのです。

     「忘れること」を許されるがゆえにどんどん別のことを考え、しかしそれでも好きなときにまた記録を呼び出せる。その重要性は「セキュリティ」という言葉に関わります。「セキュリティ」は語源的に「心配‐ない(SE-CURA)」状態を意味するそうです。なにが重要でどれがのちのち必要になるかわからずとにかく全てを蓄積し記憶しなければいけないとしたら、それは「心配」にあふれた状態でしょう。いつでも呼び出せるから忘れていいという状態は、この「心配」を軽減します。情報におけるセキュリティとは、「盗られないから安心」だけでなく、この「忘れていいから安心」を含むのではないでしょうか。

     後者の意味での情報セキュリティは、ひとが不要なことを容赦なく忘れ、重要な課題に集中することを助けてくれるように思います。さらにまた、記録を検索し、呼び出したときに、人間の思考ではもたらされないような要素の配列が発見されることも期待できるかもしれません。

     どんどん記録し、どんどん忘れて、その分考えたり書いたりつくったりつなげたり動いたりすること。そうした「軽さ」をもたらすものとしてぼくは記録をとらえています。その意味で、ゴーダが言うように記録のあり方が価値観や世界の見方や歴史そのものを変えていくとぼくも考えています。

    返信削除
  8.  ぼくの書き方もちょっと抽象的すぎた。もうちょっと具体的に、精確に、各人が自分の問題として、「近さ」のある議論にしていったほうが生産的だね。

    返信削除
  9. なるほど、私はとても広義に、人が残すあらゆるものを「記録」とまとめていました。しかし保存と区別すると、記録の動きについて、はっきりしてくるね。記録自体が動きのある動的なもの、というのは私にとっても実感と近いです。

    そして記録が「とる/とめる」行為があってはじめて「記録」となるというのも、興味深いです。記録は生まれた時から、「誰かに選ばれたもの」で、目的をもっていたものともいえる・・・

    さらに「整理し、選びとり、編集していくこと」で記録を、それ以上の力を持った物にしていくこと。それは意思をもってなされた記録と共に、「保存」されているものにも及んで展開できる動きのようにも思えます。

    それでなにができるか、今のところ、わかっていないのですが、記録の扱い方を習得することは、生きる上で大事なことに思えます。

    また抽象的になってしまった!

    返信削除
  10.  議論がいまひとつ展開しないのは、結局ゴーダの問題提起が何なのか、何を議論したいのか、何を考えたいのかが最初から今に至るまではっきりしていないからだと思う。

     「興味深い」「面白い」はいい。いいけど、共通の場=プラットフォームを生みづらい。こちらの書いたことに対しても「そのとおり」「面白い」だけでは展開しない。「生きる上で大事なこと」なのはその通りだろうけど、「大事だよね、そうだよね」と確認しあうための場ではない。

     そもそも「問題」は何だったのか、そしてその考察はどこまで進んだのか、あるいは何に躓いて進んでいないのか、もう一度明確にするのはどうでしょう。それが今回の議論のとりあえずの結論になるのかもしれないし、再出発の土台になるのかもしれないと思います。

    返信削除
  11.  思い出したので、村上隆氏の以前のツイートを引用します。

    RT @takashipom: おもしろい議論の造り方はフレームを限定し、まず視覚を共有し、その視覚からのヴューを検証する。検証し終わったら、持論の別フレームを提唱し、合議のもとそちらにシフトさせる。そういった数々のフレームがウィンドウのように開いて行き、ある密度になった瞬間に、議論の核心部分が立ち現れる。(2010年12月17日 posted at 10:09:37)

     「フレーム」は映画づくりと「議論づくり」が結びつく点かもしれません。映画の時間がフレームで構成されるように、議論の時間もフレームで構成しなければならない。フレームが弱ければ映画の力は弱まり、議論の効果は薄まるのではないでしょうか。

    返信削除
  12. うん、議論しにくい。
    広義すぎるので、ぜひ、問題の再提出をお願いしますね。

    返信削除
  13. まず私は、人の手を介し残し残されるモノすべてを「記録」というカテゴリーにくくって、その中でもとりわけ強い意思によって提示され現れる「記録」が、価値観や世界観などをゆさぶる存在であると思いました。だからこそ人は記録を残す。林くんの言った「忘れてもいい」という状態を生み出すという役割も加えます。

    そこで問題にしたいのは、「なぜ人は記録を残すのか」ではなくて、その先で、「いかに記録を残し、アクセスするか」。

    そこで「記録」を、残されるすべてものでなく、能動的に残されたものに限定してみます。まさに「とる/とめる」動きが加わったものです。個人がとった写真や、会議の議事録、スパイの盗聴、などなど。しかし職務的なある程度自動的にシステムの中で処理される記録は目的と方法が一致しているので外して、ここではもっとあいまいな、自分と近い、個人の記録ないし周辺の活動(勉強会や制作も含めて)の記録に限定して考えてみたいと思って問題提起しました。

    考えたり、物事をすすめるとき、自然とたくさんの記録が生まれてくると思います。この記録の扱い方がポイントだと思います。
    ある程度自分で整理し、編集できることが、忘れてもいいことにも繋がる。
    また、整理・編集されることで、新たなものがうまれる。

    一方で、記録がそれぞれ独立した記録(ありのままの記録)ゆえにもつ、個体の動きというのもあるように思います。(ツイッターとか、記録した瞬間に動き出す感じがする)

    記録を意思で動かせること、記録自体が動いていくこと、その流れのバランスをとる必要を感じていました。

    映画でいったら、編集と撮影、映像に写りこんでる全てのものと周りの世界、、?(記録はカメラで撮ること)

    こういう記録の捉え方が正しいかわからないのですが、記録の扱い方を問うとともに、残し方、アクセスの仕方についても議論できたらと思います。

    返信削除
  14.  ゴーダは一つのフレームにいろいろなものを入れようとしすぎているのではないでしょうか。あれも大事、これも考えたい、蓮沼くんの言うとおり、林くんの意味も含めます、などなど。

     ストローブ=ユイレが証明しているように、厳密で精確な必然のフレームを定めなければ、偶然の出会いは生まれない。議論で何か「出会い」のようなことが起きて、予想もしなかった面白いものが出てくるためには、逆にもっと強固な枠組みが必要ではないかと思います。

     特にゴーダの問題提起が、ゴーダ自身の生活や活動とリンクして語られていないことがフレームの弱さを生んでるのかもしれない。どうして記録を残すこと・アクセスすることに問題意識をもっているのか。能動的な記録の操作と記録自体の自律的な動きのバランスをとる「必要」を感じているというのはなぜか。

     最後のところで、残し方・アクセスの仕方を議論したいと言いながら、自分ではそれについて「大事だと思う」という意味以上のことを言わないのも、「土台」づくりとして成功しないんじゃないかな。例を挙げたり何かの実践をもとにしないと、あまりに漠然としていて、どういうレベルで議論したいのかわからないよ。

     いろいろ言ったけど、全部相手にしなくてもいいです。とにかく一番大事なことだけを抽出して、もっと具体的で「近い」議論をつくって、ものすごく小さくても確実な成果を得られたらいいのではないでしょうか。

     ただ、今回の書き込みで個人的に思い出して考え始めたことがあるので、それはまたちゃんと書きます。とりあえず以上です!

    返信削除
  15.  ちゃんと書くと長くなりそうなので結論だけ。

     勉強会でも別の機会でもいいけど、東浩紀『一般意志2.0』(雑誌「本」連載中)を読むと「記録」についての議論を発展させられると思う。たとえば以下のような内容。

    現代の社会は「総記録社会」に向かいつつある。現代社会は監視社会ではない。ひとむかしまえのSFで夢想されたような、マザーコンピュータによる国民監視などは存在しない。にもかかわらず、いまや信じられないほどの多くの人々が、自発的に、しかもじつに克明に、自らの行動や思考の履歴をネットワークのうえに公開で残し始めている。[…]それら公開された情報の分析からだけでも、大衆の欲望についてじつに多くのことを知ることができる。[…]国民の多くが行動や発言の履歴をネットワークのうえに日常的に残し、事後的に履歴を分析することでいままでは見えなかったような行動や欲望の秩序が見えてくる、それが未来の総記録社会のすがただ。ぼくがここで「無意識の可視化」と呼ぶのは、そのような事態のことである。情報社会の進化は、いままでは漠然とした印象でしか語れなかった国家あるいは社会の無意識を、数値化し可視化することを可能にしつつある。[…]本論が構想する未来の政治は、無意識を無視するわけではなく(従来の公共性論)、かといって無意識に盲目的に従うわけでもなく(かつてのルソー解釈)、無意識を徹底して可視化したうえで、その制御を志すもの、ということになる。連載のなかでは、それを「熟議とデータベースが補いあう政治」と表現した。 [「本」11月号]

     形式的には政治の議論が中心になっているけど、他の分野にもいくらでも応用可能な思想的土台が提供されていると思います。

     ぼくは連載で読み続けているけど、一度きちんと読み直したいと思っていたところです。『一般意志2.0』読書会をしたければコピーは用意できる。スケジュール的には、次の勉強会でコピーを配って、年明けすぐに一日で議論するとかなら旅行前でも可能かな。

     いかがでしょうか。ちなみに、これでブログ上の議論はおしまいにしようということではないので、ゴーダはきっとまだ書くだろうし、ぼくも必要に応じて書き続けたいと思っています。

    返信削除
  16.  参考文献・映画・写真などを挙げたほうが議論がスムーズに進むこともありそうだね。「土台」づくりのひとつとして提示できるときはした方がいいと思った。

    返信削除
  17. ところで記録ってそんなに良いものですか。過去になにがあったと前例に囚われることもあるでしょう。やりたいことをストレートに行動に移せず、足取り重くなる人もいるでしょう。お釈迦様は無記でした。記録に頼ることは必ずしも良いのでしょうか? 記録とどう向き合うか、どう距離を持つかは、繰り返し問うべき問題でしょう。

    返信削除
  18.  たしかに。たとえば「前例がない」という役所(および役所的な組織)のお決まりの文句も、前例=記録を重要視するから出てくるわけだよね。

     まあ当然だけど記録は良いものにも悪いものにもなるということだね。だからこそ具体的に語らないといけないのでは? 記録自体の善悪とか、記録そのものが重要かどうかとかを議論しても仕方ない。目的と方法を定めたときに有効か有害か、必要か不要か、あるいはさらなる改良の余地があるのか等々を個々人が判断できる環境が整うのではないでしょうか。

    返信削除
  19. 記録の扱い、記録自体の動きのバランスが大事だと思うのは、記録が残るものだからです。個人の記録を残すことは、他者とどうコミュニケーションをとるかということにもつながると思います。価値観や世界観を揺さぶるというのも、時代は限定しませんが他者との交感あってのことです。つまり「記録を残す」行為を選択した時点で、自分以外の何者かが想定されています。―正しくありません、自分のために残す記録もありました! ですがそれはひとまず置いておいて、ネットを念頭においた、個人と非常に近い、でも共有される記録について考えてみたいと思います。

    たとえばこのブログもそうだけれど、ネット上で公開されているものがあります。書き付けた時点で、個人の記録は誰の目にもふれることができる、どう読まれるかはわかりません。真意を正確に伝えたければ、そのための言葉が必要だし、誤解を招いたとしても、個人の意思で書き付けたことの責任に自覚的でなければいけないと思います。(このブログは、そのためのトレーニングだと思っています・・・)
    一方で、自分の日記を公開する人がたくさんいます。それも自分以外の他者とのコミュニケーションが意識されてのことだと思います。現実の振れ幅はあるにしても、個人が同等に存在できる土台があることはすばらしいことです。

    そこで当然、個人の活動の記録がどうあるべきかは、とても重要になってきます。何も知らないモノを判断するのに、記録は一役買ってくれるからです。
    でも、だからこそ、何でも公開して残せばいいということにはならないと思いました。それで個人の記録の自覚的な扱い方、それから記録自体が動き出すことに意義を見いだせること(すなわち楽しめること)のバランスの取り方が大事だと思った次第です。

    ここで問題として提示したのは、ブログを公開して議論をするプロジェクト、に対しての心構えを自分に問いたかったからでもあります。

    返信削除
  20. 補足で・・・
    何でもかんでも残せばいいことにはならない、と書きましたが、確かな確証があるわけでもなく、正しくないかもしれません。どうあるべきかは、実践して確かめていきたいことです。
    ネットで公開される個人の記録のあり方を考えてたと同時に、その流れを生み出す力や影響力を、どうとらえてのっていいか慌てていた自分自身があったことも書いておきます。

    返信削除
  21.  ゴーダ、重いと思う! 重いし湿度が高い!

     他者とか責任とか自覚とか、そんなもの別にいらんでしょう。そんなの考えなくてもネットは使える。考え方が制限選挙(一定の財産や地位をもつひとだけが選挙権をもつ)みたいです。ある程度の警戒心とか常識は必要だろうけど、意識的に哲学を構築しなければブログを書けないわけではない。真意も誤解もどうでもいいじゃないですか。別にその場で殴られるわけじゃないんだから。放っておけばいいと思う。

     そもそも「記録がどうあるべきか」なんて、答えはあるんでしょうか? 「べき」論にはもう答えはない。伝統も宗教も生活規範もないんだから。答えのない問いを考え続けて動けないのは意味がないと思う。

     個人や集団としてどうしたら記録を役立てたり楽しんだりできるかしか考えることはないんじゃないでしょうか? 記録の具体的な作り方・使い方のアイディアを出し合うことだけは依然として刺激になるから、東大生のノートとかメディアの利用法とかライフハックの本がよく売れるのでしょう(実際、記録のあるべき姿とか、どのような記録がよい記録かといった本はない)。

     必要ないなら記録しない。必要や欲望があればそれを満たすかたちで記録する。主観的にアレンジすればいいだけでは? 

    返信削除
  22. たしかに、記録がどうあるべきか、答えも定義もない。そこに論点をおいても発展がないね。

    それでも、個人が残す記録がこれだけ無限にあって、動いて、影響しあっているというのは、とても面白いことだと思う。記録を書き付ける、残す、って刻印みたいなイメージで書いていたけれど、もっと感覚的な、あしあとや指紋みたいなものなのかもしれない。

    その記録を動かして活用する枠組をつくることの方が、大事な問題だね。

    それでも、ブログでの問題集プロジェクトの最初に記録について考えられたことは、わたしにとっては、おおきなはじめの一歩となりました。

    返信削除