2010年12月24日金曜日

問題2 クリスマスはどう過ごすか

議題は「クリスマスをどう過ごすか」です。
本日は12月24日、クリスマスイブです。私はローストチキンをつくりました。スーパーで赤と緑のクリスマスシールが貼られた鶏一羽丸ごとを購入、前日から塩水に浸け、オリーブオイルを塗り、塩胡椒をして、150℃度で長時間焼き上げる。そういうことをしていました。
なぜ、ローストチキンをつくったのかと問われたら、クリスマスだからと応えたでしょう。

日本においてクリスマスという記念日は、深く浸透しているように思えます。デパートでは宝石を受け渡す専用のブースが 特設されていますし、コージコーナーではケーキがたくさん売れています。商店街でもデパートでもマンションの外壁にもLEDイルミネーションは点灯してい ますし、近所のコンビニにもツリーが飾られています。

それに対して、日本人がクリスマスに浮かれていると、冷ややかに、批判する人はいます。キリスト教でもないのに、企業のしかけたイベントだよ、とかです。しかし、そんな批判はお構いなしに、日本全域にわたってクリスマスは浸透し、楽しまれているように思えます。
これほど普及しているのは、大晦日・正月、終戦記念日くらいしか私は他に知りません。


私はクリスマスをどう過ごすのか、について20代前半まで、ある理想を持っていました。それは、まず12月中旬くらいに私は船に乗ります。そしてどこかで難破する。漂流の後、なんとか運良く通りがかった船に助けてもらう。その船で東京の港まで送ってもらう。どんどん港に近づくにつれ、東京が煌々としているな、と何気なく見るのです。きっと東京湾からは銀座の灯りがよく見えるはずです。現在はお台場も明るいでしょう。あれ…やけに明るいな、と思っている最中、あ、今日はクリスマスだった!と私は気づくのです。そういう過ごし方がいいな、と理想を持っていました。気づいた瞬間、クリスマスに包まれるのです。

きっとクリスマスという大きなイベントの流れに対して、当時の私は素直に乗りたくなかったのでしょう。
今年はローストチキンをつくりましたので、その点、素直になりました。
クリスマスは表層的だと批判しても、もう現実として、クリスマスは至る所にあります。
クリスマスをどう過ごすのか、を考えることは、浮ついた問題ではありません。

7 件のコメント:

  1. 私の体験をもうひとつ。

    夕方、エクセルシオールにて珈琲を飲んでいたときのこと。ソファに腰掛けて「クリスマスはどう過ごすのか」についてノートをとっていました。一段落着いて何気なく周りを見渡したとき、いつもと質感が違って見えるのです。カウンターの奥で働く店員さん、隣のソファで本を読んでいる男性客、みんな際立って私の目に映るのです。働いている人も、珈琲を飲んでいる人も、その人なりの時間を過ごしているな、とまざまざと思えたのです。やっぱりクリスマスだからでしょうか。

    話は変わりますが…台風の後って、雲はなく、太陽の力が強く、空気が澄んでいます。そういう状況で写真を撮ると、コントラストがはっきりして対象が際立って写ります。大きな台風のあと、クリアに現れる事物たちがあります。そんな感じに、ある時間のエクセルシオールでは、クリスマスの大きな時間と、それに対する個々人の時間が重なって、そして立ち現れていました。

    主観ですが、普段と異なる質感を見出すのは「クリスマスフィルター」があるからだと思います。そしてそのフィルターの膜のひとつとしてノスタルジーがあるのではないでしょうか。

    イエス・キリストが生まれ、サンタさんはそりに乗る。キリスト教の弾圧と発展の歴史。過ぎ去った時代を懐かしむ気持ちがあるのではないでしょうか。記念日です。そういう質感に包まれた地域で、どう過ごすのか。

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  2. わたしもなぜ日本人は宗教関係なくクリスマスを祝うんだろうと疑問に思う時もありましたが、クリスマスはもう、日本のひとつの行事だとわりきって楽しんでしまえばいいのではないかと思っています。

    それでも、キリスト教のお祝いの日が、これほど抵抗なく浸透している理由は考えて価値あることだと思います。
    わたしはクリスチャンではないけどキリスト教の学校に通っていたので、クリスマスは毎年聖歌を歌い、一日がかりの礼拝がありました。そのときは、家や友達とクリスマスパーティとしてごちそうを食べるのと、礼拝でキリスト誕生の話を聞くことのギャップを感じて、ちがうものだなあと感じていました。
    でも何の抵抗もなくチキンを食べていたし、別にいいやと割り切れたのも、12月24日の夜の特別感が好きだったからかもしれない。

    小さい頃は、キリスト教だということも知らず、サンタさんの日だと思って、プレゼントが枕元にあるのを楽しみにしていました。サンタクロースが家族かもしれないと思ってからも、やっぱり夜寝るときはどきどきしていたものです。
    そのドキドキした夜は、今でも思い出せるくらいの力強い記憶です。
    そしておそらく私ひとりの感覚ではなく、わりと多くの人が共感する記憶なのではないかと思います。(学校でも幼稚園でもクリスマス会があれば、自然と特別感は植えつけられるというだけのことかもしれませんが・・・)
    起きたらプレゼントが枕元にある、というのは、身体感覚にもうったえてくる、たまらない出来事です。宗教をこえて浸透してるのは、この身体の感覚なのかなと思います。

    実感とリンクする物語としては、規模といい浸透といい、クリスマスは最強の物語です。だから今年も、イルミネーションに行き交うひとは心を騒がせるんじゃないかと思います。

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  3.  クリスマスは合理的に過ごすといいと思う。合理的というのは、どの行為をするとどれだけの効用を得ることができるかを比較して選択する、という意味です。

     たとえば、きれいなイルミネーションや大きなツリーを見に行くと、それを鑑賞したことや普段と違う街の雰囲気を楽しめるという意味でのプラスの効用と、混雑に疲れるというマイナスの効用がある。チキンはおいしいしクリスマスっぽくてわくわくするけど、普段より値段を高く設定されていることが多い(土用のうなぎと一緒)。そうしたプラスマイナスの効用を主観的に(無意識であれ)計算したうえで、それでも表参道に行ったりチキンを食べたりしたい(その方が効用が高い)と判断するなら、もちろん行けばいい。

     ただ、たとえばクリスマスに葛飾柴又の帝釈天に行くとおそろしく空いている(3年くらい前に行った)。あるいはクリスマスは魚が非常に安い(誰も買わないから)。クリスマスはいわゆるクリスマス的なところ以外にも影響を及ぼしているわけです。

     したがって、混雑することや値段が高いことを考慮してもクリスマスにイルミネーションやチキンやケーキを楽しみたいひと(その方が自分にとっての効用が高いと判断する人)はそうすればよいが、クリスマスだからこそ楽しめる他のこと(ひとけのない神社に行ったりおいしいお魚を食べること)を見つけ出せるひとはそっちをすればよい。クリスマスのように「光」が強ければ強いほど、「陰」を楽しむ余地も生まれてくるのではないかと思います。

     ひとまず「個人」としてクリスマスをどう過ごすかというレベルで考えるなら、ぼくはこんなふうに考えています。ひたすら合理的に消費せよ、言い換えば自分にとって一番楽しい過ごし方をしよう、です。ちなみにぼく自身は、「年末」に対する愛着はたいへんなものですが、クリスマスにはほとんど興味がありません。ただイルミネーションは好きなので、楽しませていただいてます。

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  4. 郷田さんのコメント「起きたらプレゼントが枕元にある、というのは、身体感覚にもうったえてくる、たまらない出来事です。」という点はその通りだと思います。

    先日、絵本ワークショップで出会った小学低学年の子が「サンタさんはね…うちに来てくれてね…」と去年のエピソードを話してくれました。その話を聞いている限りでは、サンタとは仮想の存在には思えないのです。

    林くんは、来年お父さんになるわけです。
    ゆくゆくは、きっと子どもの枕元にプレゼントを置くことでしょう。その未来を考えるとどうですか? 子どもが10歳になるくらいまで、林くんはある時間帯においてサンタさんになるのです。

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  5. 蓮沼くん、思い切りサンタさんになるに決まってるじゃないか! 子供が生まれたら絶対その方が楽しいと思う! 子供もぼくも。

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  6. 議題「クリスマスはどう過ごすのか」について、子ども時代は存分に楽しむ。そして自分が親になったら、子どもと思い切り楽しむ。
    そうではない、他の時代は、合理的に過ごす(魚を買う)。

    という結論になりました。
    「他の時代」は、クリスマスに対してウェイトを軽くして良いのです。重要なのは「子ども時代」です。漂流計画まで立てて、無理して、クリスマスに包まれなくてもいい。

    今後「クリスマスを楽しく過ごしたい、どうしたらいいでしょう?」と聞かれたら、「子どもと過ごす」もしくは「子どものように過ごせ」ですね。異論のある方はいますか。

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  7.  「キリスト教徒でもない日本人がクリスマスを祝うなんて云々」という話はだいぶ聞かなくなったよね。以前はたしかに耳にしました。クリスマスの消費という現象はそういう問題ではないという事実が浸透したのでしょう。よいことと思います。

     子供のなかにも、サンタさんを本気で信じる子供、信じないことを「大人」だと思って自慢する子供、信じてないけど親に悪いから一応演技しておく子供など、いろいろありそうです。親の方にも、本気で信じさせる、最初から信じさせない、信じさせないわけではないけどサンタさんは親だとなんとなくわからせるなど、選択肢があるでしょう。それぞれの家庭における親と子供の関係に応じて、このゲームを楽しめばいいのではないでしょうか。

     クリスマスはキリスト教云々とは無関係なイベントです。一方で「クリスマスなのに一人でさみしい」とか「クリスマス前に彼氏/彼女つくらなきゃ」とか、ぼくはあまり聞かないけど、依然としてそういうことがあるなら残念なことと思う(ネタならいいけど)。クリスマスを楽しむことも楽しまないことも選択肢として等価に扱ってほしいと思います。プライベートに関して、ひとに過剰な関心をもたず、ひとからの視線も過剰に意識しない、要するにもっと勝手で適当な世の中になるといいです。そうすればクリスマスのせいで不当に抑圧されることもないし、それこそ資本主義に利用されている云々の批判を受けることもないでしょう。個々人が、生産者(企業の人間)としてだけでなく消費者としても、「クリスマスをどう利用するか」を戦略的にしたたかに考えて、自分なりのクリスマスをつくり、楽しむといいのではないでしょうか。だからたとえば「クリスマスを口実に彼氏/彼女をつくろう」なら、これはたいへん立派な態度だと思います。

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