2010年12月27日月曜日

問題3 年末をどう過ごすか

 問題はシンプルです。

 みなさんは「年末」を、どのような意図をもって、どのように過ごしていますか。「年末」の効果的な使い方にはどのようなものがあるでしょうか?

 「年末」にわたしはいつも二つの「動き」を見ます。一つは「思い出す」こと(「今年の10大ニュース」など)、もう一つは「捨てる」こと(大掃除など)です。「思い出す」ことは、選択して「集める」こと、「まとめる」ことと言ってもよいでしょう。したがって「年末」には、「集める/まとめる」と「捨てる」という、一見正反対の二つの動きが同居します。「集める/まとめる」は精神的で、「捨てる」は物理的である場合が多いと思います。

 わたしはこれまでの人生の「年末」において、物理的に「捨てる」ことに圧倒的なウェイトを置いてきました。「この一年」を「集める/まとめる」、あるいは「思い出す」習慣がないので、「〇〇年といえば☓☓」というような個人的な紐付けがあまりないし、「今年はこういう成果に到達した」というようなこともさほど考えません。

 わたしにとって「年末」は、いつのまにか溜まった余計なものを捨て、身軽になり、新年に向けて準備をする時間です。精神的な意味はまったくなく、ひたすら物理的に捨てることに費やします。

 しかし「そんなに前ばかり見ないで、たまにはじっくり振り返った方が得るものがあるよ」とか、「この一年の総決算をなんらかのかたちでまとめておいた方がのちのち役立つよ」という声が、ときどき自分の中からも聴こえてきます。精神的に「集める/まとめる」ことがあってもいいのかな、と毎年一度は考えます。みなさんは「年末」に記憶や考えを集めたりまとめたりしますか。「この一年」あるいは「今の自分」を「集める」ことや「まとめる」ことの効用ってなんでしょう。

 「捨てる」ということは、見方を変えればこれからの自分に必要なものを選別することだから、その意味で一種の「集める」ことであって、したがって「捨てる」と「集める」は同義なのだ、というような意見もあるかと思います。あるいは、「まとめる」とはまとめられたもの以外を「捨てる」ことだから、「まとめる」と「捨てる」は同義であるとも言えてしまいそうです。たしかにそうした面もありましょう。しかし結果的に同じになることと最初から能動的にすることはやはり違うし、物理的に「捨てる」ことと精神的に「集める/まとめる」ことは行動として結局のところ異質です。

 そこでみなさんの「年末」の過ごし方について教えていただきたい。どのような意図をもって、どのように過ごしていますか。「年末」の効果的な使い方にはどのようなものがあるでしょうか? とりわけ、精神的な「この一年」の集め方/まとめ方について考えがあれば、それが知りたいです。ちなみに、参考までにわたしの今年の「年末」の過ごし方は以下の通りです(予定)。大掃除で余計なものを捨てる、ドキュメントスキャナで当面不要な紙類をすべてPDF化し捨てる、空いたスペースを利用して本を整理し直し、作業に使える場所を広げる。精神に関する予定はまったくありません。

 問題の設定がいいかげんなことは自覚していますが、議論の中で輪郭ができればいいと思うのでまずは投げます。「年末」を考えるためには「年始」をセットにしなければならないという意見もあるかと思いますが、そのあたりの議論の射程も流れのなかで設定していきましょう。まずは答えやすいように答えてください。

 以上です。よろしくお願いします。

13 件のコメント:

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
  2. 「年末」の過ごし方について

     ここでは「年末」と「年始」をセットにして考えます。

     まず「年始」に、自分が向かっていきたい方向にある程度の目標を設定します。その年に向かっていきたい方角に、それにかける思いの分だけ強く力を込めてボールを投げてみるのです。投げたボールは、もしかすると見えないところまでいってしまうかもしれません。ボールを探しながら歩いて(時には走って)、道草も食いながら、でもだんだんとボールの居場所に近づくように歩を進めていきます。この道中が、ボールを見つけた時の充実感に大きく関わります。(あるいは見つけられなかったときに残る糧となります。)

     さて「年末」。この時点で「年始」に投げたボールを見つけられていることもあれば、行方不明になってしまっているかもしれません。または、疾っくに見つけてしまい、第2投目を放っているかもしれません。この「年末」という機会に1度、ボールを追いかけてきた自分の今の立ち位置を確認します。「年始」に思い描いた場所にいることも考えられますし、全く思いもしなかったところに立っているかもしれません。

     立ち位置を確認した上で、次にすぐやってくる「年始」には、ここからまた歩み始める方向を見定めます。今まで向かってきた延長線上にまた新たなボールを投げるのか。あるいは、角度を修正して投げるのか。毎年毎年のこの(年末/年始の)連続が、人生というキャンバスにそれぞれの線を描いていくのです。

    ・ ・・と書いてみました、初投稿です。

     物理的には、私もやはり〈溜まった余計なものを捨て、身軽になり、新年に向けて準備をする時間〉として過ごします。が、私はここに精神的な意味を大きく見出します。溜まった余計なものを捨てることは、心がいろいろなものから解放されるように感じ、そこから生まれる身軽さは、次に向かうフットワークの軽さだと考えます。ですから、ここにおいても物理的なものと精神的なものは行動として異質でありながら、かなり近いところにあるのではないかと考えます。

    返信削除
  3. 年末に「思い出す」までは私も同じです。

    「思い出す」というのは、単純に、この一年わたしは何をした、何をできなかったと思い返すこと。
    ほとんどが「反省」です。なにが悪かったかじっくり検証して、来年はこうしようと考える。
    「年末」にこの作業をすることはとっても重要です。「新しい年が始まる!」という強い思い込みは、展望をより前向きで実現できるものへと変えてくれるからです。この時、多少迷惑でも誰かに話すことにします。そうすると一年、契約した気持ちになるのです。

    年賀状をつくったり、お世話になった人へのあいさつも、自分本位な生活からいろんな気持ちを「思い出す」こと。普段会わない人、毎日会う人ひっくるめて、感謝の気持ちや、労りの気持ち、羨ましい気持ち、会いたい気持ちがわいてきます。忘年会などが楽しいのもそんな気持ちがあるからかもしれない。

    そして「大掃除」です!もちろん大量のごみを「捨てる」もするのですが、モノがあまり捨てられないたちなので、「整理する」意味あいが強いです。本棚、書類、洋服、家具を、今使いやすいように整理しなおす。
    実際にはベッドと机の位置を変えたり、景色を変えるぐらいのものですが・・・「反省」の結果を生かして、執着してた本を棚に戻すだけでも景色は変わります。

    それから普段あまりしない「磨く」ことに精をだします。換気扇や風呂場、床や壁をきれいにしたら、買出しに行きます。正月の食べ物、生活を快適にするもの、食器やタオルを新調して、おいしいお茶を買って・・・

    こうして考えると、私は年末を、とにかく「思い出して整理して」精神的に気持ちを立て直す最高の機会だと考えてることがわかりました。

    返信削除
  4. 年末という時期は、「2010年は」とか「今年は」とか、これまでの一年間を対象化できるようになります。
    先日あった忘年会でも「2010年はえらい年だったよ…」と振り返る声がちらほらありました。
    みんな、ビール片手にまとめるのですね。居酒屋のテーブルは2010年_編集部のようでした。

    そのまま編集部で例えると「思い出す」のは特集「今年の10大ニュース」になります。
    「捨てる」は編集部の部屋を片付けるかとも言えます。
    10大ニュースとして記事にするか、もしくはバージョンアップされた編集部をつくるか。
    はたまたハワイへ社員旅行して忘却するか。

    私としてはハワイに行きたいのだけども、家に帰ったところで、部屋がそのままでは残念です。
    また10大ニュースをまとめたところで、部屋がそのままでは停滞です。
    なので3大ニュースくらいにして、忘却は諦めて、部屋の掃除という物理的な忘却作業が私の「年末の過ごし方」です。

    返信削除
  5. さて意見がでそろったところで、どうですか? 議題の輪郭はみえてきたでしょうか。こうしている間も年末の真っ最中。年末は「議論」して過ごしていますね。

    返信削除
  6.  まずは太田くんの初投稿をとても嬉しく思いました。基本的にオープンな場なので、これを読んでいるひとは誰でもコメントをくれて構いません。ただし実名で、ある程度自分のプロフィールを明らかにして書いてもらえるとありがたいです。

     ちなみに太田くんのツイッター:http://twitter.com/#!/Yashitomo

     さて、みなさん意見をどうもありがとう。どれも説得力がありました。しかし思ったより「かたより」が少ないな、という印象です。思い出すことも捨てることも両方大事である、精神的にもそうだし物理的にもそうである、という感じですね。実際、現実生活のなかでそう考えてそう行動しているのだと思います。

     ただ、ディスカッションはゲームなので、完全にかたよっているけど強度のある意見のほうが、バランス感覚のとれた発言よりも場を活性化することがあると思います。ですから、「あえて」の精神で自分のなかの「かたより」を実際よりも増幅し、わりと極端な複数の意見をぶつけたりすれ違わせても面白いでしょう。個人の生活を暴露しあう場ではないので、醒めた演技をしてもらってかまいませんし、議論が常に「噛み合っている」必要もないと思います。

     それでは次に内容面についてですが、これまでのところ、観点はほとんど「個人(わたし)」で進んできたと思います。これは出発点として当然でしょう。そこで、今回の「問題」をもう少し転回させるために、少し問いをずらしたいと思います。「問題3´(プライム)」です。

     「年末を『共同体として』どう過ごすか」について教えてください。大げさに考えず、家族、友人、学校、職場、地域、国家、趣味、宗教、各種団体、各種業界などなど、「グループ」「集合」であればどんなレベルでもかまいません。各自が属す「共同体」の「年末」の過ごし方について、考えを交換してみましょう。どのような意図をもって、どのように過ごしていますか。あるいは過ごさざるをえなくなっていますか。「共同体」にとっての「年末」の効果的な使い方にはどのようなものがあるでしょうか?

     わたしは所属している「共同体」が極度に少ないのですが、家族がおります。なので「年末を家族でどう過ごすか」について考えようと思いますが、ひとまず問いの段階で投げてしまいます。

     ちなみに今晩は「くそ勉強会19」(@飯田橋)ですが、せっかくなのでこの話題はなるべくしないようにして、飽くまでブログでディスカッションを続けましょう。

    返信削除
  7.  ちょっと伝わりづらい書き方をしてしまったかもしれませんが、個人レベルでは「思い出すことも捨てることも大事だから、自分にできる範囲で両方やろう」というのが至極まっとうな結論で、それ以上の展開はあまり望めなそうだったので、話を共同体レベルに移した、ということです。

    返信削除
  8.  「年末を『共同体として』どう過ごすか」という問題について、わたしは「年末年始」が一種の「死と再生」であることが重要なのかもしれないと思いました。

     この一年が終わり、次の一年が始まるのが年末年始ですが、「何かが終わる」という知覚の原型は生物の死、人間の死でしょう。わたしは個人的には死ぬことがたいへん怖いので、死んだ瞬間にはもう生まれ変わっていたらいいのにと思います。「一旦終わってまたすぐ始まる」ものとしての年末年始に惹かれるのは、そうした嗜好からかもしれません。

     実際、人間は古くからさまざまな祭祀において「死と再生」を演出してきました。現実においても虚構においても「死と再生」の通過儀礼をつくってきました。その意味で、「一年」とははじめから自然が用意してくれた「死と再生」の儀礼なわけです。「一年」は人間が恣意的につくったものではありません。「一年」は人間と自然が共同で定めた「死と再生」の反復システムであり、単純に人為的でない分、文化や思想が変遷しても強力に作用し続ける仕組みなのでしょう。

     さて、これ以上については現段階では比較的シンプルに考えます。年末年始が「死と再生」なら、年末年始という時間は、一緒に死んだり生き返ったりしたい/せざるをえないひとたち・ものたちと過ごすのがよいと思います。(ちなみに皇居の一般参賀も「再生」を確認し「共同体」を更新するイベントですね。わたしは3年くらい前に一度行ったことがあります。)

     そしてまた、年末を「死」としてとらえるなら、自分/たちにとって納得のいく「死」を遂げた方がよいでしょう。個人的には、忙しくしているうちにいつのまにか死んでしまった、というのは嫌ですから、「もうすぐ死ぬな」という時間をとって「死」を楽しみ、「再生」を喜びたい気がします。(しかし宗教を伴わない「死と再生」は本物の死を恐ろしくする一方だという思いもあって、これはもう少し考えたいです。)

     最初の発言としてはクセが強すぎるのは自覚しています。ただ、これは議論の「土台」ではなく、すでに「土台」のうえの運動のひとつにすぎないので、気にせず好きな角度から「年末を『共同体として』どう過ごすか」という問いについて書いてみてください。

    返信削除
  9.  年末を共同体としてどう過ごすか。ここでは、〈プロジェクトを進めるチーム〉を共同体として考えます。

     年末という、社会が一旦流れを止める期間に、共同体はあえて解体すればいいと思います。

     共同体とは、普段から同じ時間の流れの中で多くのものを共有していると思います。そこで年末にあえて解体することによって、それぞれが異なる時間を手に入れ、何かを吸収し、年が明けたら持ち帰ってきます。持ち帰ってくるものは、貴重な体験から得た新たなスキルや知識であったり、あるいは単純に心の元気さであったりします。ここにはヒエラルキーはなく、持ち帰ってきたもの全てがフラットなものとして、新年は共同体として新鮮なエネルギーで新たなスタートを切るのです。

    返信削除
  10.  なるほど! 太田くんが書いてくれたことはたいへん面白い。ヨーロッパにおけるバカンスも似たような機能をもっているのだろうね。昨晩の勉強会の議論を踏まえて発展させてくれたのも嬉しい。

     一回ちゃんと死ぬことでいい再生を遂げる、解体するからバージョンアップして再構築できるなどなど、「死と再生」は単純に対立しないんだね。だから「あえて解体」「あえて仮死」の時間をつくるのだな。日曜日を休みにしたユダヤ・キリスト教はそれをシステムに組み込んだわけだ。

     ほんと、年末はちゃんと死のう。がつんと解体して、「わたし」や「時間」のモードを変えて、そこから収穫したものをまた持ち寄るのが有益なのかもしれない。

     かなりいいところまで議論がきたな。とてもいいんじゃないでしょうか。

    返信削除
  11. 年末は解体する、年末はしっかりと死ぬ、良い意見ですね。議論の甲斐がある。共同体の為にも、自分の為にも、解体することの合理性があるようです。年末は機能をOFFにすることで、返って機能が高まる…キリストも一度死んだしね。
    共同体で年末をどう過ごすのか、っていう枠組みは当初分からなかったけど、ナルホドナルホド。

    返信削除
  12.  「解体の合理性」はいいね。実際、問題は倫理性ではなく単純に合理性だと思う。

     個人であろうと共同体であろうと生き物には合理的な「リズム」があって、中途半端に頭でっかちだとその合理性を歪めてしまうのではなかろうか。細胞のように精神の少ないレベルでは常に「死と再生」が繰り返されていて、それが生物としての合理的な戦略になっているわけでしょう。

     精神の強いレベルでは同じように「リズム」をつくることがそう簡単ではなく、われわれはともすると常に刺激を与えることや活動を続けることが合理的だと思いそうになるけど、たぶんそうではない。

     共同体にいかに「死」を組み込むか、解体と再構築を取り入れるか。それは古代ギリシアのポリスにおける演劇の機能そのものです。この機能を現代においてどういうかたちで更新するかが問題なのでしょう。どうやって個人/共同体に「有益な解体」をもたらすか。「解体の合理性」を現代的な経済合理性に見合うかたちで実現することだよな。もちろん技術環境のなかで。

     たぶん「解体」は求められているし、だからお金儲けにもなるんじゃないかと思うんだけど…。

    返信削除
  13. 解体と活動の合理的なリズム、をつくることは、年末に限らずキーになりそうなことだと思いました。とてもいい発見でした!

    ふだん人は複数の共同体に属しているわけですが、共同体それぞれの時間の流れの中で、自分のリズム、身体や精神の流れをうまくつくることが生活のすべてだなとも思いました。(身近な発想だと仕事が休みの土日は他の活動をする、など自然とリズムをつくっているわけだけど、ときにその流れは曖昧なことがとても多い。きちんとつくることで非常に改善されそうだね)

    年末は、社会全体の時間がゆるむこの時間に身体をあわせて、OFF状態を楽しみたいと思います。

    返信削除