2011年5月10日火曜日

問題25 わたしは日本人です。

今回は前の問題をちょっとひきつぎ、「日本人として」問題をもう少し掘り下げてみたいです。

昨日まで2週間メキシコに行っていました。そこで「わたしは日本人です」とよく言いました。
外国に行くと、当然ながら日本にいるときよりも、「日本人」であることを意識させられます。異国の地での自分の気持ちの距離というよりも、まず周りから見て「異邦人」「日本人」だからです。

「わたしは日本人です」と言いながら、そういえば「日本人であること」、ナショナリティってなんだろう?、当たり前に日本で生まれたけれど、それってなんか意味あるのかな?私には意味なくても他の人には意味あるのかな?などとぼんやり考えていました。

ところで前の問題で、太田くんが「それほど「日本人であること」にしばられてない」というようなことを書いていたけれど、わたしにもそういう実感があります。理由のひとつには、映画や写真のような「媒介のあるイメージ」や小説のような「物語」といったモノを相手にしているということがあります。(あとはネットにもさまざまな場を媒介に、自分のプラットフォームをつくって展開を広げられるという、国境のない世界があると思います。)
異国でナショナリティの壁があったとしても、そうした共有できるイメージや言語、または専門性があれば、「人種をこえた」、「わたし個人」と「相手個人」とのつきあいは、自然にはじめることができます。さらに自分の言葉があればあるほど、より深い展開が拡がることでしょう。

しかし一方で、実際には「日本人であること」に、思った以上にしばられています。

外国に行けば、まず見た目がそうであるのだから、否が応でも、わたし個人の人間や性格や関心を伝えるまえに、そこから始まる。
日本人として守らなければいけない法律なんかもある。
ふだんの映画の保存の仕事でも、映画すべてではなくて、中でも「日本映画」の保存に特化している。アーカイブというのが、場所の属性が重要なことも理由だけど、私がメキシコ人だったら、日本映画が一番好きでも、メキシコの映画を保存する可能性は高くなると思います。

場所との関係が、ナショナリティというひとの属性に関わっていることは大事なことだと思います。(そもそも、なぜ異国に惹かれて訪れるのか、それはそのナショナリティに惹かれ、接してみたいというのが一番の目的です。)


だから、ナショナリティをもっていることそれ自体に意味があると考えてみるというか、意味づけて持っておいてもいいなと思いました。
きっと「日本人」であることは、想像以上に自分に関係していると思ったからです。
蓮沼くんが書いていた「ローカルからユニバーサル」という普遍性という発想も考えるきっかけになりました。

うまく言えないのですが、無意識でも意識的でもいいので、わたしの、日本人であるというナショナリティをもっと楽しめないものか?という問をなげてみます。

まずはじめとして、自分が「日本人」を理由として得てきたと思うこと、自分の分野で日本に特化していること、自分が日本を語るとしたら何を語るか?など聞いてみたいです。

29 件のコメント:

  1.  わかるような、わからんような! ほかのひとはどうなんだろ。

     結局ゴーダが今回一番考えたいことはなんなの? 最後の「聞いてみたいこと」もちょっとあまりに漠然としてないかい…。

     もちろんもしスタートできるひとがいたらどんどん始めてほしい。ぼくはもうちょっとゴーダの話を聞きたいと思ったかな。

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  2. まず。

    日本国内において、「日本人」であってもそれほど大きな意味を感じたことはないです。「日本人」の中で、自分がどんな日本人なのかということの方が意味を持ちます。
    今度は国外において。当然「日本人」であることから何か始まることは多いのですが、それはきっかけの一部であることがほとんどで、ここでもどんな日本人であるかということが意味を持ってくるように感じます。

    まず。

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  3. >自分が「日本人」を理由として得てきたと思うこと、自分の分野で日本に特化していること、自分が日本を語るとしたら何を語るか?など聞いてみたいです。

    難しい…。具体的なエピソード、もしくは郷田さんの回答をまず聞かせて欲しいな。

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  4. こんばんは。
    すけともさんから面白いサイトがある、とこのサイトのことを教えていただきました、堀田竜士(ほりたりょうじ)という者です。
    興味のあるテーマだったので書き込みをさせていただきます。

    僕も「自分が日本人であること」に関して最近興味があります。
    というのも、今後どのような活動を行うにしても、世界の中の日本、世界中の人の中の日本人、としての自分を意識せざるを得ない世の中になっているためです。

    そこで内田樹さんの『日本辺境論』をはじめとして、日本論(日本とは、日本人とは、をテーマとした論)の本を読んだりしています。

    僕はいつも感じるのですが、日本人はいつも外国、特に欧米人に対して劣等感を持っているように感じますが、本当にそれは劣等感を感じる必要があることなのだろうか、と。
    日本人だからこそ外国の方々にはない長所があるのではないか。
    そしてもしあるとすればそこを自信を持ってアピールすればいいのではないか。

    このような背景のもと、郷田さんの
    >自分が「日本人」を理由として得てきたと思うこと、自分の分野で日本に特化していること
    について話させていただきます。

    私の専門は、ワークスタイル•ワークプレイスデザインです。
    人の働き方、働く場所のより良いあり方を考える学問です。
    そこで日本人が他の国の方々よりも優れていると言える点は、「空気を読むことによって、実際に言葉をやり取りしなくとも他者から多くのことを学ぶことができる」点です。
    空気を読むことは、一般的にはネガティブなイメージがつきまといますが、それは同時に他者を観察することによって何らかの気付きや学びを得ることができる、ということです。
    空気が読める人というのは、他者の態度や行動を観察し、適切な行動を選択することができる人を指す場合が多いですが、それは他者から何らかのサインを受け取り、そのことによって自分の行動を変化させる能力を持つ人のことだといえます。
    働く場所において、このような能力が仕事をスムーズに運ぶ場合があります。
    チームワークなど複数人で何か成果物を作成する際などにはダイレクトにこの能力が効いてくるでしょうし、個人の場合でもこの能力によって得られることは多々あります。
    僕も他者の良い部分を取り入れようと、他者の観察をしてそこから気になった点を取り込むという経験をしたことがあります。

    このような能力は日本人が他の国の方々よりも優れているといえるものではないかといえるのではないかと思っています。
    突然の書き込み、失礼いたしました。
    何らかの反応をいただけるとうれしいです。

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  5. おおっ
    堀田さん、はじめまして。
    のちほど応答します!

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  6. 堀田さん、
    はじめまして。

    コメントありがとうございます!
    うれしいです。

    いま勤務中でたくさん書けないのですが、わたしものちほど書きますね。

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  7. 蓮沼さん、marikogodaさん
    早速のコメント、ありがとうございます。
    反応をいただけてうれしいです。
    応答楽しみにしています。

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  8. さて、「日本人」ってなんだろう?と問いておいてなんですが、わたしは日本人がこうである、というようなことをあまり考えたことがありませんでした。「日本人」って概念にあまりぴんときていない。なので何を考えたいの?と聞かれるのももっともなんです。それでもなぜこんな話題を出したのか、ちょっと補足してみます。

    「日本」という自分のナショナリティがどんなものか考えてみたいという気持ちは、メキシコという外の「場所」に刺激されて出てきたのかな、と思います。メキシコという「場所」は、わたしにとって今まで行った場所の中でも「非常に居心地のいい場所」でした。強烈な感動、日本に帰るのがいやでしかたがなかったくらいです。
    出会ったメキシコのひとびと、土地のルーツ、現在のまち、ピースがはまったように生きてるので、余裕を感じ、旅のわたしの居場所も対等につくりだしてくれる状況がありました。同時に「メキシコ人」であるということに大変自覚的で誇りを持っているようにみえたのでした。非常に気持ちがよいのは、メキシコに住む「ひと」が自分たちでつくりだしてる「場所」だからだと思いました。(ちょっと誉めすぎですが・・・いいとこどりで進めます)

    それでナショナリティについて考えるときに、まずは「場所」と「ひと」を結びつけるものとして考えはじめました。

    自分の「場所」(わたしは「拠点」とも呼べると思う)をつくることはとても大切です。しかしひとには、拠点といえるそれぞれの小さな場所ひとつひとつとは別に、へその緒の先の両親のような「属する場所」というのがある。そのうちのひとつが「日本人」であることといえるんでないかと思います。

    ところでわたしは子供の頃から「田舎のおばあちゃん」というのに、憧れていました。うちは両親の実家とも東京なので、「ふるさと」っぽい故郷がなく、つまらない・・・夏休みに田舎に帰るという友だちがうらやましいと思っていました。その反動か、旅行や移動が好きで、家族で、一人で、いろいろ行ってみる。逆に東京にいても、場所への執着があまりなく、日常的に「旅」状態に近い感じで生活しています。仕事をしていてすらそうです。そして最近、地震と原発の事故があって、ふと、わたしは東京が故郷なんだろか・・・と考え、なんだか受け皿のないような不自由な気持ちになりました。旅先で「わたしは日本人です」と言うときに、妙な居心地の悪さを感じてしまうのは、わたし自身「日本」ってなんなのか、自分の「場所」なのか、ちゃんとつかめていないからかなあと思いました。

    日本にこだわらない選択をするためにも、日本を考えてみようということで、今回のような質問をしたのでした。
    それぞれ故郷や場所があるかと思うので、それをふまえた「日本」観について語ってもらえたら。

    わたしもわからないなりに、なんかありそうなので、考え中です。

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  9. あれれ、きのう書いたコメントが消えちゃってる・・・

    もう一度思い出して書くしかないのかな?

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  10.  昨日のコメントを踏まえてさらに先に進んじゃえばいいんじゃない?

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  11. 消えちゃったので、また書きます。
    思い出しつつなので、変わっているかもしれない。

    こんな問題をだしておいてなんですが、わたしも助友さんが書いてたように、「日本人であること」について、いままでそれほど考えたこともなく、さらに重要だともあんまり思っていませんでした。なので、何を考えたいのか?という質問ももっともで、「日本人であること」について問いをしているわたし自身が、ほんとにそれを聞いてどうしたいのか、よくわかっていない部分があります。なのでまず、問題をだしたきっかけを書いてみます。

    外国に行くと、日本人であることをひしひし感じると書いたけれども、メキシコではなぜだか「わたしは日本人です」というのに、なんとなく居心地の悪さを感じていました。
    日本人なんだけど、わたし自身「日本」についてあんまり意識的じゃない、でも「日本人であること」が確かに、わたしに備わっている・・・
    それを反射してきたメキシコという国も考えてみます。メキシコはスペイン人が入ってきて以来、先住民族とスペイン人の混血の人たちが国民の半分以上を占めています。
    わたしは今回4つの州を回って、先住民族ばかりしかいない村と、スペイン人が初めて上陸した町両方に行きました。まったく別の雰囲気なのですが、メキシコのひとと接していて思ったのは、「メキシコ人」であることに大変自覚的であり、誇りをもっているなということを感じました。「外のひと」と対した時、「自分が何ものであるか」というのが無意識にそなわっているから、ひとを思いやれる正直な性質があるのかなあ、と勝手に思ったりもしていました。(もちろんひとには色々あるし、誉めすぎな部分もありますが・・・)そして異常に「居心地がいい」のです。「居心地がいい場所」とは、「ひと」と「場所」がつくっているからなのでは・・・

    さてここで話は飛びますが、わたしは「いなかのおばあちゃん」というのに昔からずっと憧れていました。夏休みに「田舎に帰る」友だちが羨ましくてしょうがなかった。うちは両親ともに東京なので、自分の「ふるさとがない」という気持ちが強いのです。東京は故郷ではないのか?と言われるかもしれませんが、「場所」と「ひと」を結びつける強い何かを感じることはなく、あえていえば、私はふだんから「旅」状態で生きているような感じです。それで「場所」(“土地”に近いイメージ)と「ひと」との強い結びつきのあるものに、やたらと惹かれてしまうのです。

    いまは地震と原発事故の最中で、そういう自分の「場所」の不在気分が、ますます、もやもやしはじめています。

    それで大きく考えて「日本人」であることというのは、わりと動かし難いものとして、自分に備わっている。メキシコで感じていたようなポジティブな勝手な想像は「日本人であること」にも見いだせるのか?と思ったのが、今回問題にしてみた背景としてありました。もちろんもっと表面的でないことまで掘り下げられればなおいいです。

    さらに、
    「東京」の性質を備えていると感じる「日本」、「いなかのおばあちゃん」の「日本」にある、場所とひとの距離感はまるでちがうので、そこから考えるのはムズカシイのかもしれないですが、いろいろな視点から「日本人であること」を考えることで、場所のないもやもやが少し晴れないかな、なんてことも思っています。

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  12. こんなことを書きつつも、「日本人であること」にやっぱりあまりとらわれていないので、「日本でなきゃだめ」とか「日本人として生きる」とかそういうことにはあまり興味がなかったりしてます。上手く言えないけど、もっと冷静に「日本」を見てみたいという感じです。(よくわからない補足・・・)

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  13. 堀田さんの
    >>「空気を読むことによって、実際に言葉をやり取りしなくとも他者から多くのことを学ぶことができる」点。
    「その先、どうすることができるか」が、まさに大事なことだと思いました。

    「空気」というのは「言葉」にくらべると、さまざまな「場所の共有」が必要なように思うのですが、伝わり方は大きいですね。
    わたしは前のコメントでなんだか分かりにくい書き方をしてしまいましたが・・・
    説明がムズカシイ「空気」がつくりだす「日本」や「東京」のつかめなさ・複雑さを、もうすこし理解してみたいなと思ってきました。

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  14.  さて。議論にはやはり「軸」が必要だと思う。「軸」がないと、各自がなんとなく自分の思いを述べ合うことになり、それはそれでお互い面白いし有益なわけだけど、結局どこからどこまで進んだのか、何が課題として見えてきたのかわからず、達成感や次へ向けたやる気につながりづらい。コメントするだけの立場なら好きなことを言えばいいと思うけど、ホストは議論に形を与えなければならない。自分の「作品」をつくるような感覚が必要だと思う。ゴーダ自身が問題の所在を明確に自覚してないのは別にいい。でもそこからでも「作品」をつくってほしい。

     要するに「軸」がないと単純に発言しづらいです。でも何か書いてみる。

     ぼくは20歳から21歳(2003〜2004年)の一年間を大学の交換留学生としてドイツで生活しました。それ以外にも1ヶ月とか3ヶ月とか、ちょくちょく海外に滞在してきました。まあそんなのたいした時間ではないけど、少なくとも旅行者として以外に過ごした経験はあります。

     その実体験から言うと、生活すれば日本人うんぬんは否応なく自覚させられます。ぼくの専門や趣味嗜好とは関係なく、「仏教と神道はどこがどう違うのか」「自衛隊は軍隊じゃないのか」「なぜ原爆を落とした国と仲良くしているのか」「能や歌舞伎の歴史を教えろ」「漫画・アニメをどう思うか」「なぜ総理大臣がころころ変わるのか」等々、いくらでも聞かれます。そんなときに「自分は日本人であることにはこだわってない」とか言っても無意味です。知識と意見を備えてないだけだと思われて終わりです(ホントです)。ちなみに、こういう質問はむしろ個人的にぼくに興味をもってくれた友人から出るものです。個人への興味がその背後の国家や文化への興味につながってくるのでしょう。「個人」を「国家」や「文化」から切り離されたものだと考えても、少なくともドイツでは通用しませんでした。それに実際、切り離せないわけです。ぼく自身、そうした質問を受けるまでは国家とか日本とかよくわからなかったし興味もなかったけど、仕方ないので調べました。

     ひとつ重要なのは、「日本」や「日本人」と言っても、それが「日本人にとっての日本人」なのか、「外国人にとっての日本人」なのか、その二つの視点を混同しないことだと思います。

     たとえば、堀田さん(はじめまして! 林といいます)のおっしゃる「空気を読む」日本人の能力が「他の国の方々よりも優れている」という点。「優れている」というのは比較が成立するときに言えることですが、ある国民の「空気を読む能力」同士を比較するのは非常に難しいと思います。また、「空気を読む」ということ自体にそもそも価値を置かない国民も多いでしょう(「なぜ最初からはっきり質問・議論しないのか?」)。したがって、ぼくは「空気を読む」能力という点で日本人が外国人よりも「優れている」というのは、議論としてそもそも成り立たないと思います。むしろそれは「日本人は優れている」もしくは「日本人は日本人のこの優れた能力を自覚すべきだ」という主張であり、実は「外国人にとっての日本人」論にみえる「日本人にとっての日本人」論なのではないかと思います。

     それはそれでもちろんいいのです。いいのですが、ぼくは「日本人にとっての日本人」と「外国人にとっての日本人」という区別をできるかぎり意識していかないと、現在の日本にとっての二つの主要な課題に対応できないと思いっています。それは「日本」という「コミュニティ」を強化することと、「日本」という「海外ブランド」を強化することです。「日本人、いいよね」というかたちで日本人同士の結び付きを強めることはぼくはいいことだと思います。全然ありです。他方で海外から「日本」が実際にどう見られているかということも政治・経済・人的交流等々の面から重要でしょう。その両者を区別して考えることが「日本人」論のひとつのポイントではないでしょうか。

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  15. 日本の陸地面積は、世界の中で四百分の一ですが、地震や火山による災害数は世界一です。これは宿命みたいなものですよね。

    wikiによると…
    1996年から2005年の期間では世界で発生したM6以上の地震の2割が日本で発生している(http://ja.wikipedia.org/wiki/地震)
    …らしいです。

    私は内戦を繰り返している国なんかは怖いなと感情を持ちます。よく暮らしていけるな…とか思います。それと同様に大地震と噴火を繰り返している国のことを怖いと感じるでしょうね。
    日本で暮らしている私としては多少の地震は当たり前として受け入れています。もちろん恐ろしいですし、ない方がいいです。一方で内戦・紛争が絶えない地域でもそれを解決しにくい問題として受け入れている人はいるのではないでしょうか。受け入れるとは、その土地に生まれた宿命みたいなものについてです。

    そして私が日本で暮らして、日本語を使っていることも宿命と思っています。その意味で「わたしは日本人です」は自明なことで、縛られているのは当たり前でなんです。そのため今回のこの問題にどう答えたらいいかわからない。

    郷田さんがメキシコで感じた「居心地の良さ」。それは彼らのしっかりとした帰属意識からくるものだと仮説したんですよね。そして「日本人であるというナショナリティをもっと楽しめないものか?」という問いかけが生まれた…と背景を理解しました!

    でも…郷田さんが感じた「居心地の良さ」と「帰属意識」のつながりがまだ共感できない。だから問題に沿うかたちで「日本」が答えづらい。説明してくれる事例をもっと教えてくれると助かるのだけども。

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  16. 堀田さんのコメント「空気を読むことによって、実際に言葉をやり取りしなくとも他者から多くのことを学ぶことができる」について、この「空気」について私が恩恵をもらっているのはホテルとかのホスピタリティなどです。
    「他者から多くのことを学ぶ」ということは「気遣い」を相手にしてあげられることかなとも思います。レストランやホテルなどのサービス業でそれは発揮されますが、日本では気遣いが「細やかな」印象を受けます。海外では意見があったら言いなさい的であり、日本だと何か困っていないかしらと従業員が心配気味。特殊な心配りですよね。

    ところで堀田さんは、日本人を意識せざる得ない世の中になったとコメントされてますが、そう思うに至ったきっかけはなんですか? ぜひ聞きたいです。

    >僕も「自分が日本人であること」に関して最近興味があります。というのも、今後どのような活動を行うにしても、世界の中の日本、世界中の人の中の日本人、としての自分を意識せざるを得ない世の中になっているためです。


    あと柔道に空気投げという技があるそうですね。これは自分の体捌きで相手を投げてしまうらしい。高度。
    http://www.youtube.com/watch?v=1ye5DC7sVTw&feature=player_embedded#at=300
    日本ならではの技といえるでしょうか。

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  17. >ホストは議論に形を与えなければならない。自分の「作品」をつくるような感覚が必要だと思う。ゴーダ自身が問題の所在を明確に自覚してないのは別にいい。でもそこからでも「作品」をつくってほしい。

    林くんのコメントにもあるように、ここから展開していくことが大切だと思います。私は今回の議論で解決ではなく、いい問題提起が見つかればいいなと思っています!

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  18.  「空気投げ」! そして変な動画!!

     でも「空気投げ」は馬鹿にできないね。これは面白い。

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  19.  「メタ議論」補足。

     議論というと、わりと「誰が正解を出せるのか」みたいな雰囲気を感じることがあって、そのために全員の口が重くなる、という状況を経験したことのあるひとは多いと思う。

     でもドイツ人や中国人と議論すると、とんでもなくくだらないことでもとにかく思いついたことを話し始めるのに驚く。数撃ちゃ当たると思っているのか、目立てばいいと思ってるのか知らないけど、すごいつまらないことから始めたりする。でも実際そのうち当たる。あるいは、つまらないことでもきっかけになって誰かの面白い発言を引き出したり、議論のホストが面白いかたちに導いたりする。

     前回の問題24とも関係するけど、なにがどこで接続するかわからない。だからまずは何か言ったり、何かつくってみることが大切だと思う。そこから自分で学ぶことも多いしね。とにかく動く。止まらない。走りながら考える。

     ホストの側からすれば、議論の場を、とにかく何か言いたくなったり、少なくとも何でも言いやすい場としてコーディネートすることが大切と思う。それはテーマ設定の工夫かもしれないし、あるいはたとえば蓮沼くんの先日の「人生を楽しくする十ヶ条」って、「10コ出す」っていう具体的な枠組みを与えたからずいぶん発言しやすかった。そういう形式的な面かもしれない。

     まあいずれにせよ、この複雑化した世の中では「正解」なんてどこにもないから、楽しく騒がしくたくさんしゃべるうちに、何か解決策や次なる課題が見つかったらいいよね、そのためには「質」より「量」だよね、とぼくは思います。

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  20. 最初の「日本人」という議論のテーマについて、思うことをどんどん書いて欲しいと思っているのですが、たしかに漠然としていて書きにくい場にしていたかもしれません。

    わたしは「日本人であること」について、当たり前にいる「場所」としての「日本」が、自分にとってどんな場所かということに特に関心があります。蓮沼くんが「宿命」と書いていたけれど、日本人である、まさにこの「宿命」。そのことについて、日本人がどんなふうに受け入れているのかということ。
    それは「日本人にとっての日本」と言えるのかな。もちろん「あまり考えたことがない」「こだわっていない」というのはひとつの答えだと思います。わたしもそうです。でも、林くんが書いていたように、外国人にそう言ったら話はそこで終わりです。「日本人です」と言うときの居心地の悪さを感じつつも、わたしはさらにその先のことばをつないでみたいと思いました。相手によく知ってもらうためだけでなく、自分のいる「場所」を冷静にみてみることは、自分のためにもいいことだと思うからです。

    それを照らし出すのに「外国」(あるいは「外」)を設定したほうがわかりやすいなと感じました。そこで、議論をはじめるために、「みなさんが日本について(あるいは自分のいる場所について)、外国の人に説明するとしたら、どんなことをはなしますか?」ということをまずは聞いてみたいとおもいます。

    わたしも、それがあいまいなので問題提起したのですが、色々書きながら探っていきたいとおもいます。

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  21. >「みなさんが日本について(あるいは自分のいる場所について)、外国の人に説明するとしたら、どんなことをはなしますか?」

     ゴーダはなにを話すの? なんでもまずは言い出したひとが始めるといいと思う!

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  22. みなさん、コメントありがとうございます。
    このような参加者が高い意識を持って各自の意見を言い合う場はとても刺激的で、興奮します。

    まず蓮沼さんにいただいた、
    >ところで堀田さんは、日本人を意識せざる得ない世の中になったとコメントされてますが、そう思うに至ったきっかけはなんですか? ぜひ聞きたいです。
    という質問に答えさせていただきます。

    みなさんにも心当たりがあるかと思いますが、今まで僕が大学や企業で学ぶ機会において、さんざん「グローバル化が進んでいる」と言われているのを見聞きしました。
    本を読んでも、研修を受けても、グローバル化という言葉は標語のように各地で謳われている。

    実はまだ私は自分の実感として「グローバル化」が進んでいることを説明できてはいないのですけども、まずは前提としてこの事実を受け止めるとすると、グローバル化が進んだ世界において、日本人としての強みや弱みを知っていないと、その世界で今後競争力を持った活動は展開できないだろうと考えました。
    ドラッガーを持ち出すまでもなく、自分たちの持つ強みに光を当てていかなければ、その活動は根付かないでしょうし、広がってもいかないだろうと。

    そのため個人的に日本論の勉強(勉強と言えるほどしっかりしたものではないかもしれませんが)をはじめたのですが、そこに書いてあることは確かに自分の今までの体験や実感と結びついている。
    メタな概念として書かれた「日本人とは」という気質が、その日本人のひとりである自分の実感と多くの部分で共通している。
    これらの本の著者が日本人について深い洞察を得て本を書いていることを考えると、そこに多くの共感を得ている自分は、やはり日本人であるといわざるを得ないのではないか。
    これは林さんのいう「日本人にとっての日本人」と言えるのかもしれませんね。

    なので郷田さんのように実際に外国の人たちと出会い、その人たちとの比較から自分が日本人と自覚したというものではなく、僕の場合は日本の中にいながら日本のことを勉強し、そこに書かれていることと自分の体験との多くの共通点を見つけることで、自分が日本人であることを見出した、という感じです。

    話は変わって、林さんの
    >ひとつ重要なのは、「日本」や「日本人」と言っても、それが「日本人にとっての日本人」なのか、「外国人にとっての日本人」なのか、その二つの視点を混同しないことだと思います。
    という意見は重要な視点であると考えます。
    しかしこの2つはどこかで繋げていきたいですよね。
    日本人同士が「日本人にとっての日本人」について語り合って、エゴの形成で終わってしまうと、それは自己満足で収束しかねない。
    そこでの議論を「外国人にとっての日本人」にまで昇華させることが、最終的には郷田さんの言う
    >「みなさんが日本について(あるいは自分のいる場所について)、外国の人に説明するとしたら、どんなことをはなしますか?」
    という問いに答えることになる気がします。

    長くなってしまいましたが、今言えることはこんな感じです。

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  23. 日本人にとっての日本人、それが外国人にとっての日本人に通用するものにする、その方法は必ずしも、「外国と接する」ということだけではないのかもしれませんね。助友さんがかいていたように「外」の視点というほうがいいのかもしれないですね。(そういう意味ではこのブログも「外」の視点と考えられるのかもしれません。)

    しかしあえて、外国人、空気だけでは伝わらない時、言葉にしなくてはならない状況を考えてみます。

    さて、「私は外国の人に日本について何をはなすのか」という問なのですが、外国人に日本のことを話すとき、私はやはり自分の言語、「映画」の力を借りて話します。日本の状況の概要は基本的なことはわかっているべきですが、やはり自分の身近なことを話すことからしか実感はこめられないなあと思います。そういうとき、たとえばわたしがまったく知らないガンダムやアニメのことを表面的に引き合いに出して日本を語るよりも(実際にガンダムの話を外国人に延々されたときは弱りました)、相手が見たことがなくても、ある日本映画のことを詳しく話し、自分がそれに共感したところ、日本の説明できない空気を伝えようとするほうが、私個人の実感を含めた「日本」が伝わると思うからです。もちろん相手が知っている日本映画を自分が知っていれば、それについて考えを話します。
    みなさんにも、そういう英語以外の第2「言語」があるんではないかな、と思います。

    しかし、たとえば成瀬巳喜男の映画を見たとき、夏目漱石の小説を読んだときのことを外国人に話すとき、日本人固有のものももちろんあるのですが、人間個人として共感を得て伝わる部分も大いにある気がするので、必ずしも日本のものをひきあいにださなくてもいいな・・とも思ったりもします。
    なので、家族や友だちのことなどより身近な具体的な生活の事細かなことも話します。

    イタリア人の友だちが「うちのおばあちゃんは『神曲』を暗記している」という話をしたり、メキシコ人が「今日はタクシーを運転してるけど、明日は警察官の仕事をしている。二つの仕事してる」という話を聞くと、メキシコ人は混血文化だとかイタリア人はカトリックが多いと言われるよりもその国の空気を感じるからです。

    なので、「わたしの職場は遠いけど、お金がないから一人暮らしはしない」とか「新作映画が1800円もして辟易している」とか「節電で職場の電気ポットが使えなくなりそうだ」とかそういう細かい話をするだろうなと思います。

    なんだかこまかくなってきましたが、「外国人」というのは、その場では「わたしそのもの」でぶつからなくてはならない、「日本人」一般論ではあんまり発展がない、そんな感覚をおぼえる相手であることが多い気がします。

    これらは、あくまで個人レベルでの「日本」の響き方であって、堀田さんが感じている「グローバル化した世界」に対する「日本」と考えたときの実感とは異なっているのかもしれません。でも、グローバル化した世界でうまくいってるひとたちが、本当に世界すべてを意識しているというよりは、自分の側(大きく言えば日本)について、相当に事細かに意識しているんじゃないかと思います。

    そうしたわけで、たとえば映画でグローバルな世界にのりだそうと思ったとき、わたしの「日本人」としての意識は、とても細かいところに宿っていると思うので、それがまず大事なこととして話すかな・・と思います。(同時に、どういう映画をつくるか、とかそういう話につながっていきそうです。)

    議論しにくくて申し訳ないのですが、みなさんのそういう細かい実感などあれば聞いてみたいです。

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  24.  ゴーダのコメント、とてもよくて、ぼくも書きたいので、あとで書きます。この「問題」、まだまだ書けることを各自がたくさん持っていると思う。

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  25.  まず、「英語以外の第2「言語」」っていう表現はとてもよかった。はっきり言って言葉なんてある程度で十分なわけで、あとはこの「英語以外の第2「言語」」、つまり「誰にでも堂々と話せる自分の(専門的)考え」があるかどうかだと思う。

     「グローバル化した世界でうまくいってるひとたちが、本当に世界すべてを意識しているというよりは、自分の側(大きく言えば日本)について、相当に事細かに意識しているんじゃないかと思います」という点も、ぼくもそんなふうに想像します。

     だから、要するに好きなことをたくさんやって、好きなことばかりしゃべってればいい、ということではないか。つまり、「日本人」の長所や短所を語るべきひとたちもいるだろうけど、それ以前にまず「わたし」の長所をアピールできなければいけない。まあ当たり前の話ですが。

     ただ「節電で職場の電気ポットが使えなくなりそうだ」と言えば「なんで節電が必要なんだ」と返ってくるだろうから、そこから日本の現状を説明できたり、「わたし」と「日本」の関係をクリアにできたらいいのかもね。

     正直今回もなんの議論かよくわからなかったけど、ゴーダのコメントはとても面白かったです(これで終わりという意味ではないよ)。結局、「ナショナリティ」とかなんとかっていう話はどうなったんだろう…。

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  26.  そういえば東浩紀の以下の発言は今回の議論にもちょっと関係する。

    >「マスコミが堀江貴文批判の空気を生み出し、その空気を読んで検察が堀江を標的にした」ということですね。
    >このインタビューは英語に翻訳されます。いまの説明は、たとえそれが真実であったとしても、日本国外では理解や共感が得にくいと思います。「空気」とは何かがわからないと端的に意味不明です。そして、日本の国内で「日本って空気で支配されているからマズいよね」という議論をぐるぐる回転させているだけでは、それこそが一種の空気であり、権力にとってまったく脅威にならないと思います。

    「日本に止まること、日本を離れること - 堀江貴文特別インタビュー」
    http://genron.contectures.jp/201105horie1_ja.html

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  27. >>ただ「節電で職場の電気ポットが使えなくなりそうだ」と言えば「なんで節電が必要なんだ」と返ってくるだろうから、そこから日本の現状を説明できたり、「わたし」と「日本」の関係をクリアにできたらいいのかもね。

    そうだね。逆に説明する、そのような必要が出てきてこそ、「日本」を外側から考えるきっかけが生まれるのだと思う。もちろん日本にかぎらずだけれど。

    そういえば、ふだんから深く考えないで受け入れてることってずいぶんある。それに気づくきっかけはあったりなかったりするけれど、ひとが無意識だったり無関心だったり、見て知らぬふりをしていたりすることを、なぜこうしているのかな?と、ひとが真剣に考えたとき、何かが変わったり作られたりすることがある気がします。

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  28. >>これが、自分のやってきたことの中でしゃべると、不思議と私という人間が何を大切にしているか伝わったりする。

    わたしも同じようなことがよくあります。また、自分でもなんでいいのかよくわかっていなかったことが、人に説明している途中で、自分の言いたかったことがだんだんわかってくることもよくあります。
    最初からいいたいことがわかっていて話したり書くことが少ないのも、それは問題なのかもしれないのですが・・・

    今回の問題も、自分自身が問題の核心というのはどこにあるのかよくわかっていなかった。議論にならないことも感じたけれど、「日本人であること」と「自分であること」を同時に考える枠組みを色々提示してもらえたと思います。それで今回は、それぞれが「自分の大事なことを説明するために、一番伝わる方法を考える」ことになってればいいなと思います。

    ナショナリティについては、実はまだよくピンときていない。。
    自分にとって、「わたしが日本人であること」を示すことが目的になることはあまりなさそうですが、自分の言葉なり行動なりの根拠は、説明できるようになりたいなと思いました。

    でもせっかくなので、「日本」と自分についてももう少し考えてみたいとも思います。また、形を変えて問を立て直したいかも・・・

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  29. >このインタビューは英語に翻訳されます。いまの説明は、たとえそれが真実であったとしても、日本国外では理解や共感が得にくいと思います。「空気」とは何かがわからないと端的に意味不明です。そして、日本の国内で「日本って空気で支配されているからマズいよね」という議論をぐるぐる回転させているだけでは、それこそが一種の空気であり、権力にとってまったく脅威にならないと思います。

    こういう「空気」を伝えるのって、実は映画とか文学とかって、得意なのではないかと思います。ただ、それを説明しますって見てもらうわけではないし、わかってほしい相手と共有するには時間がかかる。作り手に何の意思もないこともある。

    まったく関係ないかもしれないけれど、一方で昔のロシアのプロパガンダ映画とかを思い出していました。はっきりとした主張やメッセージが、こまかい実感のこもったシーンで示される、機械のリズムが人間の生活のあらゆるリズムとリンクしたり、水の反射が美しかったり、誰にでもわかる空気(雰囲気?)で説明されているところなどが、すごいなあと思います。映像の力で空気をむりやりつくりだしているのかもしれないけれど、異様に説得力がある。

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