私は、大学ではオフィスデザインを通して、会社の方と一緒に「働き方」を考えていました。
この中で、「自分の環境を自分たちでつくる」ということに大きな価値を感じてきました。
環境は、自分に影響を与え、周囲にも影響を与え、自分の人生にも影響を与えます。
私は、環境がより良いものになれば、人生がより良くなると考えています。
そして、その環境は他人に勝手に作ってもらうものではなく、
自分がどう在りたいかを考え、周囲を巻き込み、自分たちで考えるべきだとも考えています。
そんな私は今、ブログのデザインを通して、「くそ勉強」の「在り方」を問い直したいと思います。
これまでの「くそ勉強」はどんな在り方をしてきた(している)と思いますか。
これからの「くそ勉強」はどこを目指し、どんな在り方をしていきたいと思いますか。
あなたは、これまでの「くそ勉強」にどう参加してきましたか。
あなたは、これからの「くそ勉強」にどう参加していきたいですか。
そのためには、何が余分で、何が足りないと思いますか。
助友という新しい人間が入ってきたことは、くそ勉強が変わる一つのチャンスだと思うのです。
今、「自分の環境を自分たちでつくる」ことを考えてみようではありませんか。
私は「中くらい」がいいと思っています。
返信削除扉を全開に「どなたでもどうぞ」ではなく、会員限定の「一見さんお断り」でもなく、扉が少し開いているくらいがいい。それで扉が見えた人だけ来てくれたらいいなと思っています。変な話に聞こえますよね。
オープンソースでアップデートをしていく方法もあれば、少数精鋭で濃密に進めていくやり方もありますよね。それで言えばある程度外に開かれていて、ある程度は少数精鋭で集中して議論をしたいのです。
という意味合いで「中くらい」のプラットフォームにしたいのです。なぜならその方が自分にとって報酬が高いからです。ある程度閉じているから集中できる。他人の眼がある場所で問題に応答することは技術を必要とする。
ここで「声を出すこと」は技術も考えも必要であり、それを獲得することは私にとって有益なのです。
ただ、声が小さい。もしくは少ない。そこがこのブログの足りない部分だと思っています。もっと声を出すための「のれん」。そうなればいいな。保守的かな?
一番の新参者としてコメントをさせていただきます。
返信削除私はこのブログを助友さんに紹介していただきましたが、最初は議論の輪の中にどう入っていいのか、またそこに入っても反応していただけるのか、正直不安でした。
しかし、意を決してコメントを書かせていただいたところ、みなさんに温かく迎えていただき、本当に嬉しく思いました。
改めまして、この場に参加させていただいたことを感謝いたします。
ここで、もし私が助友さんの紹介がなく、偶然このブログに辿り着いたとしたら、コメントは書き込まなかったように思います。
最初にこのブログをのぞいたときに、少数精鋭の意識の高い人たちが議論を行う場のような印象を持ったためです。
そこで蓮沼さんに質問なのですが、本当に最近参加させていただいた私が言うのもなんですが、蓮沼さんのいう「中くらい」の扉の空き具合とは、どの程度新しい人を受け入れるイメージですか?
私のケースように、既に参加している方の紹介が必要なのか、もしくはこのブログを読んで気になった方は気軽に書き込みできるくらいオープンなものなのか。
そして助友さんにも質問なのですが、なぜくそ勉強を変えよう、もしくは変えたいと思ったのですか?
最初の文からちょっと読み取れなかったもので。
よろしくお願いします。
>「中くらい」の扉の空き具合とは、どの程度新しい人を受け入れるイメージですか?
返信削除問題一つに8名くらいの参加者。内1〜2名は新規メンバー。月に問題が4つあるので、新しい人は一ヶ月4〜8名!。
4名内だと紹介制でいい。8名になるともっとオープンにしないと。気になった人も気軽に書き込めるように。
その中くらいの一ヶ月6名くらいが好ましい…。
なので中くらいのフレキシブルな「のれん」があればいいなぁ。ひとまず理想を述べました!
他の古参の方々はどう思いますか?
しかし、こうやってこのブログ自体を考えることになるとは…助さんの仕掛けだね。
助友さんのコメントから
返信削除>書きこむと、ここにいる人達は、聞く姿勢がすごくある。
問題は道具で「応答」が目的ですからね。
>しかし、このブログはハタからみると「聞く姿勢」が見えにくいと思いました。
…やはりそうなのか。うすうす気づいていたが。
>入口は開いていたいという姿勢なのに、来た者に入るという選択肢を排除させると思いました。
加えてりょーじさんのコメントも
>私はこのブログを助友さんに紹介していただきましたが、最初は議論の輪の中にどう入っていいのか、またそこに入っても反応していただけるのか、正直不安でした。
…つまり出来上がっているように見えて入りにくかった、と。たしかに議論が熱中していたら入りにくいよね。しかしある程度閉ざされているから深く熱中できるともいえる。
再び助友さんのコメント
>そこで、「くそ勉強」を変えようと思いました。
やるからにはいいカタチをみつけよう! 哲学が形作られるようにしてデザインされたらいいな。このブログにある哲学、これからの哲学が反映されるように。
>>問題は道具で「応答」が目的ですからね。
返信削除蓮沼くんがいうように、このブログの問題集自体、勉強会の勉強「道具」である。ということ。コミュニケーションの場ともちょっとちがう、道具としての場という言葉は、わたしにとってしっくり感じました。
さて、その「道具」をつかうかどうかはその人次第。つかい方も応用の利かせ方も自分次第。と考えると、どんな「道具」か示すようなのれんがあれば、手にとってみたくなるかも・・・
道具の効果のほどは、議論をみてもらうしかないけれど、その内容が面白ければ、紹介でも飛び込みでも、人は集まってくるのではないかな。。
しかし肝心の「くそ勉強会」のほう、これからのあり方については、改めて考えて、どんどんよくしたいですね!
集まる方の勉強会をしばらくしていませんが、ブログの議論で白熱した問題をとことん深く話し合うために実際に集まる場を設けてもいいなと思います。勉強会番外編として。もちろんここでは、言葉にするトレーニングになる、しかし時間差などもあります。会って議論する中では、また違う深度で言葉を引き出せることがあるので、面白い発見ができるのではないかな。
最初3人で始まっていたこの問題集。そこに外から入ってきたのは私が1人目でした。初めての投稿は、随分覚悟を決めたような気持ちだったのを覚えています。なぜならうまく入っていけるか分からなかったから。でもその分からない感じが心地よくて、楽しんでいました。
返信削除このブログの扉の開き方については、問題24で触れられたり、また、私も考えていたりしていました。それで私が考えているのは、議論はオープンであるものの、投稿するにはそれなりの覚悟があった方が良いということです。誰もが何も気にせずボカボカ投稿できるよりも、ある程度の緊張感はあった方が良い。
ブログ側は、覚悟を決めてもらえるような、興味を持ってもらえるような議論を展開して、歩み寄る。見ている人は覚悟が決まるほど興味を持てれば投稿すれば良い。お互いに馴れ合いではなく、それぞれの強い意志を持ちながら歩み寄る。そんな形が良いと考えています。
私の周りにも何人かこのブログのことを知っている人がいますが、ほとんど書いてほしいとは要求していません。各々が持つある一定の基準を超えたら書いてくれるのだろうと思いながら、直接的にではなく、間接的にアピールしています。
助友さんに紹介したのは、興味を持って、ある緊張感を持ち合わせた中で書いてくれるのではないかと感じたからです。
と、このように考えているので、「のれん」については、誰でも書き込めるという説明の必要はあると思いますが、やたらめったら呼び込む必要はない、最低限こちらのスタンスは示すけれども、あとはあなた次第、といった姿勢が良いのではないかと考えています。
扉に鍵はかけないし、少し開きかけておくから、あとは興味があれば自分の手で思いっきり開いてみてください!といった感じです。今は。
ぼくが同意するのは、まず蓮沼くんの「自分にとって報酬が高い」とか「私にとって有益」という発言。誰かの役に立つとかひととひとを結ぶという目的はぼくにはないです。飽くまで自分のためにやっている。刺激的な声が増えればぼくにとっての報酬は高まる。その可能性のためにオープンにした。
返信削除だから太田くんの「投稿するにはそれなりの覚悟があった方が良い」にも同意。その方が議論の質は高まる。ぼくにとっての報酬は高い。それに、「どのような議論をしているか」と「どのようなひとが新しく入ってくるか」は密接に関わるでしょう。ぼくは自分のため自分のためと言うけど、でもどんな相手と出会えるかは自分次第だと思う。ぼくは、とても面白いまだ見ぬ誰かに、「この議論に参加することは自分にとって有益だ」と思ってほしい。そういう議論にしておきたい。だから太田くんが言うように、「ブログ側は、覚悟を決めてもらえるような、興味を持ってもらえるような議論を展開して、歩み寄る」という立場。
そもそも、たとえば堀田さんは「助友さんの紹介がなく、偶然このブログに辿り着いたとしたら」と書いていたけど、実際にそういう確率はどれだけあるのか? かなり低いと思う。なぜなら「くそ勉強」は時事的な話題を扱うわけじゃないし、検索等で見つかる可能性が薄い。基本的にツイッターやオフライン空間でのクチコミでひとが見るようになってきている。つまり、「誰も・何も知らない人」が多数訪問する場ではない。
実際、これまでの推移を見れば、蓮沼くんが臼井くんと太田くんを引き込んで、太田くんが助友さんを誘って、助友さんが堀田さんに紹介してくれた。これは「何も知らない人は入ってこれない」ことを意味するというよりは、このブログはそういうふうに拡大すればいい、ということではないか。
クチコミや友人・知人関係なく、本当にまったく知らない人が入ってくるメディアにするためには、それなりの宣伝活動が必要になる。なぜなら問題は「このブログに書き込んでもらうこと」よりも、まず「このブログ自体に辿り着くこと」になるから。この線もありかもしれないけど、個人的にはあまり惹かれない。
それよりも、新しい人を加えてもっと刺激的な議論をするためには、今現在参加している各人が、もっとたくさん面白い人に出会うことが重要だと思う。
このブログを空間的に改良すべきというのはもちろん賛成。絶対いいと思う。ただ、場をつくるのは最終的にはその構成員。各人の個人活動が広がれば、このブログの可能性も広がる。あと、個人的には、「きれいな家をつくったらみんな遊びに来てくれるはず」だけでなく、「面白いやつ探してうちに連れて来よう」という考え方が好き。
長くなりそうだからかなり雑な書き方になったけど、そんな感じでしょうか。
なんかあっという間に静まっちゃったね。
返信削除今回はこんな感じで終了? もうちょっと抽象的にも具体的にも議論できることがある気がするのだけれど…。
ちなみに「書き込んだ人で自己紹介したい人」というのはどういう意味なんだろう…。
返信削除いや、誰のせいとか原因がどうとかよりも、単純にこういう場で議論をつくっていくのはけっこうたいへんということじゃないかな。お互いオフラインの生活もあるし。全然盛り上がらなかった「問題」も何度もあった。
返信削除ただ、前回のゴーダの問題のときに書いたけど、「問題」提出者は積極的に議論に形を与えて、自分の「作品」をつくるような感覚が必要だと思う。そうじゃないと議論に参加してない読者にとって面白いものにならない。もちろんそう言ってるぼく自身、毎回そんなことできてないんだけどね…。
一人がオフェンシブに牽引できれば変わる。一週間の間、とにかくアホみたいに踊り続ける感じかもしれない。「祭」だからね。足を止めてはいけない、というのはぼくはよく思うかな。ある種のスポーツ、ある種のゲーム=遊び/試合だからね。
自分がアホみたいに踊ったら他のひとも踊ってくれて、いつのまにか全体が「群舞」作品になり、しかも自分個人としても思ってもみなかったような「動き」を展開できる、よい議論というのはそういう印象。自分のためになることが、ひとのためにも勝手になる。
ただね、蓮沼先生が今日石川県から帰ったら怒涛の書き込みをするって言ってたから、それは期待していいと思うよ。
まだ先生は石川だからね、すこしだけ。
返信削除今は対立をするでもなく、問題を展開するでもなく、形を変えるなどの実践にはちょっと距離がありますよね。
私は、助友さんにはもっと話して欲しいと思う!
例えば…
・すでに出たコメントから、さらに助友さんが展開した考えを聞きたい。
・このブログの「働き方」について具体的な理想型を聞きたい。
・ここからどうしたら面白く「場所づくり」につながるのか提案を求む。
・「中くらい」についてはどう思っています?
・「のれん」って宣伝であり、やっているよという態度であり、仕切りでもあると思いますが、他にどんな言葉で説明できるのか聞きたい。
とかとか。
あ、郷田さんも怒濤の連投をするらしい。
ゴーダは今晩から明日にかけて驚異的に暇だから圧倒的な書き込みを展開するって思っているらしい。
返信削除>>郷田さんに、
返信削除前回の議論について、郷田さんは出題者として、どう感じて、どう考えていたのかが聞きたい。
あれは、盛り上がらなかったと感じていたのか、はたまたそうではないのか。
あれは、本当に郷田さん自身が問題の軸がつくれていなかった結果なのか、はなまた全然違うところに何かを感じていたのか。
わたしは、このブログ自体が「道具」の役割をもっているとしたら、参加している各人が課題があって参加してると考えています。
軽やかな応答をつくりだすこと、聞く姿勢を養うこと、自分の考えをわかりやすく伝えること、自分の気付かなかったことを指摘されること、ひとから意見を引き出す技術、話しやすくさせる聞き方・・・
このブログを使うことで、自分自身が成長することが大事だと思います。
わたし自身のことをいえば、議論の枠をつくりだすことや、何が聞きたいかわからないと指摘されるなど、いろんな課題がいつもあります。
それは返答が難しいと言われたり、聞き返されたりということで、わかる。
問題集プロジェクトの一つの側面として、問題自体について考えることのほかに、議論を眺めることで、自分の課題が見えてくるということがあると思います。それから次はステップアップをしようと書きこむ・・・
もちろん自分が出した問題であったら、議論を通して、自分がなにか発見をしたいと思います。
そういう意味では、毎回、課題は残しつつ、発見はいろいろあります。
わたしはそんなふうに「くそ勉強」を使っています。
ひとまず。
自分のことばかり書いてしまいましたが、助友さんにも、この「くそ勉強」で得たいものやでてきた課題があると思います。
返信削除それに従って、変えたい人がどんどん変えていってしまっていいと思います!
>「変えたい人がどんどん変えていってしまっていい」というのは、
返信削除何だかさみしくも感じるのですが、どうでしょうか。
いいかたが悪かったのですが、勝手に変えていいよというよりは、変えたい人がどんどん仕掛けていったらいいなという気持ちでした。言葉でお互いを説得して納得しあって方向性を変えていくというよりも、それぞれの言語に影響しあって自然と面白い方向性に変わっていくという感じ。
わたし自身うまくできていないので、口だけのようですが・・・
この問題はじっくりやりましょう。
返信削除助友さん、返答はもうすこし待っていてくださいな。
>・「中くらい」について、
返信削除>中くらいの前提が、
>コメントを書きこむ人=問題を出す人
>であることになっているのが気になります。
>本当に、それが良いのでしょうか。
>
>これに関連して、問題を順番に出していくと言う方法は、
>みんなは考えを持って行なっているのでしょうか。
助友さんが持っている問題意識が、はっきりとは掴めないので、このコメントがうまく沿っていくか分かりませんが、問題を順番に出していくことに関して、私は特に問題意識はありません。
自分の課題云々という議論がありましたが、「くそ勉強」は一つのペースメーカーだと思っている。ある一定の期間で出てくる問題に対して、考えて、発信して、議論して、また考える。またある一定の期間で、今度は自分が問題を提出する。ある程度の期間をかけて、自分なりの問題意識やどんなことをここで議論したら充実したものが得られるか考える。こういうペースを持つことに意義を感じるから、順番に問題を出すことには特に何も変えたいというようなことは思わない。
もし、自分の順番ではないときに、どうしても問題として提出したいものに出会ったら、いきなり出してしまってもいいと思うし、あるいは自分の順番が回ってくるまでじっくり寝かせて練り上げてもいいし、またはそのとき議論されている問題にうまく絡めながら発展させてもいいと思う。順番は本質的な問題ではないから、そこに無理に固執する必要はないと思う。
流れが止まってきてしまいましたね。
返信削除議論がぱらぱらとあっちへいったりこっちへいったりしていて、
(それはそれでいいんだろうけれども、)
コメントもしづらい状況もあるから、
問題意識がどこにあって、何を議論したいのか一度整理してみませんか?
助友さん、どうでしょうか?
んーと、
返信削除「流れ」というのは「勢い」という意味で使ったんだけれども、
まぁそれはどうでもいいです。
>>これに誰もきちんと答えられていない。
答えられているかいないかはまた別問題ですが、助友さんが答えられていないと感じているのであれば、どうすれば良いのだろうか。
以前、「聞く姿勢」というのが出てきたが、もし今回の問題でうまく答えられていない部分があるのであれば、引き出し方、聞き方をもう少し考えるというやり方はないだろうか?
求めていた反応が返ってこないのは、反応しない側にはもちろん、反応を求めている側にも何か改善すべきものがあるはず。
ん、何か入れ違いになってしまったか?
返信削除返答します。
返信削除① これまでの「くそ勉強」はどんな在り方をしてきた(している)と思いますか。
これについては、今までの議論の中でいろいろと出てきたと思いますが、簡単に答えると、すごくかっちりとした枠組みを設けるわけでもなく、何か具体的なものを誰かに、何かに求めるわけでもなく、各人のペースメーカーのような役割をしてきたのではないかと思います。
開き方についても、誰でも参加してもらって構わないし、基本的には歓迎するけれども、特に宣伝したり、書いて書いてというわけでもない。
② これからの「くそ勉強」はどこを目指し、どんな在り方をしていきたいと思いますか。
どこを目指すかというのはなかなか難しい。今までも、どこかを目指してきたわけではなかったように感じるから。でもどんな在り方をしていきたいかというと、各人がここに関わることによって収穫があって、でもみんなで一様に何かを求め合ったりするわけではなく、あくまで個人が思うままに関わっていける場所になっていればいいと思う。
③あなたは、これまでの「くそ勉強」にどう参加してきましたか。
私は、立ち上げのときにはいなかった。でも、ここに関わることによって収穫があると感じたから好きなように関わってきた。
④あなたは、これからの「くそ勉強」にどう参加していきたいですか。
自分に収穫があるように参加していたい。無理に関わるようなことはしたくない。やりたいからやる。やりたくなかったらやらない。
ここで言っている収穫というのは、いろいろ考えられて、具体的にこれ!というのはない。ものごとを考えるペースメーカーとしてのこのブログの機能を利用して、思考して、場合によっては自分の動きに反映させていきたい。
「ここ数日書き込まなかったのは、
返信削除蓮沼さんの
>この問題はじっくりやりましょう。
>くそ助友さん、返答はもうすこし待っていてくださいな。
という言葉に期待をしていたからです。」
ん…“くそ”助友さん…!?
蓮沼の回答です。
返信削除①これまでの「くそ勉強」はどんな在り方をしてきた(している)と思いますか。
→私塾。先生は持ち回り。
②これからの「くそ勉強」はどこを目指し、どんな在り方をしていきたいと思いますか。
→もっと読みやすく!
ところで文字をグレーにした? もっと見易いのがいいなぁ。グレーの良さはないし。コメント文字のフォントってもっと上げられないのかな。
③あなたは、これまでの「くそ勉強」にどう参加してきましたか。
→面白い問題、面白い展開、それを追求してきた。
④あなたは、これからの「くそ勉強」にどう参加していきたいですか。
→ひとまず問題100個を目指す。
まとめると、
私の興味は「面白いこと」であり、このブログでの改善は「読みやすく」です。他はあまり意味を考えず、ひとまず千本ノック!
>「>」を打ったら、
返信削除>「>くそ」って出てきます。
>くそ助友です。
この前は「>ばか」だったでしょう。
「・「中くらい」について、
返信削除中くらいの前提が、
コメントを書きこむ人=問題を出す人
であることになっているのが気になります。
本当に、それが良いのでしょうか。
これに関連して、問題を順番に出していくと言う方法は、
みんなは考えを持って行なっているのでしょうか。」
一つ気になっているのは、助友さんが学級委員長みたいなことです。
「〜であることになっているのが気になります。本当に、それが良いのでしょうか」という言い方だと抽象的で閉口してしまいます。意見の返しどころが見あたらない。
助友さんがこれが気にくわない!と具体的に訳を話してくれた方が嬉しいです。その意見がもっともだと思えば、私もモットモダと旗をあげます。
おお、大きいコメントだ。
返信削除>「問題を順番に出していくことから、参加する人数が決まるのはおかしいのではないか」
返信削除そういうことか。よく分かった。ちょっと晴れた気分。
この言い方の方が嬉しいなぁ。本当に。
今回の問題27でいえば、提出予定者の太田くんから急遽助友さんになったでしょう。他にも準レギュラーの臼井くんもいる。今度りょーじさんが提出してもいい。これ中くらい。
ある程度決まっていると予測が立てられるし、テンポもとれる。つまりベースがあることがポイント。ある程度安定しているから、ときに違うことも、拡張も、冒険も可能になる。
だから入口は必要に応じて変わればいいと思っている。
以下も整理してくれると助かる。
「しかし、「くそ勉強」は問題の出し方だって、変えられるようにだって見える。
私は「中くらい」の人数の割り出しが問題の出し方に縛られるほど、問題の出し方に理由があるのか聞いてみたかったのです。 」
文字はこの大きさで、ゴシックにしてみてくださいな。
返信削除ゴシックが落ちつくね。
返信削除こういう変更こそが「問題27」のきもじゃないかな。
…ちなみにどうやって変更したの?HTML編集?
「問題の出し方には、例えば、
返信削除問題を出さず、参加したい議論のコメントにだけ参加する人がいても良いのではないでしょうか」
ん? どういうこと?
いいんじゃないか? コメントのみの参加でも。
環境をみんなで変えることのメリットの一つに
返信削除「技術の集合」があるね(たとえ簡単なアドバンス変更でも…)。
それでいえば私はのれんイラストを描く、があるな。
助友さんはどんな技術がある? いまのところ「外部目線」の見解を言ってくれていたね。
オフィスデザイナーとしての技術は何かある?
>蓮沼さんがやろうとしている、「のれんイラストを描く」は、私には、見えていません。
返信削除そう。なにもしていない。まだ、やりたい気持ちはないからね。
それと…自発的に「やろうとしている」のではない。まだ消極的です。
このブログは自分の関わっている環境ではあるけど、
必要を感じないとわざわざ技術を奮ったりしない!
本当に面白いと思えることでしか私は動かないようにしています。こういった自分でやっている活動にはとくに。
だから「自発的に環境をつくる」だけではどうしても私は動けない。面白いと思っていないのに動くことでよくなるとは思っていないのです。
ここらへん、助友さんと私で姿勢が異なりますよね。
どうでしょう。
差出人:林立騎
返信削除件名:Re: {3042岩 } 5月29日の日記
日時:2011年5月30日 1:49:56:JST
太田先生もいろいろ忙しいと思うんだけど、
「くそ勉強」のほうもひとつよろしく。
助友さんが飛び込んでこれたり、ブログを変えようとしてくれているのは、
太田くんあってのことと思うから、議論においても力になってあげるといいと思う。
もちろん、別にフォローしてやれとか賛成してやれとかそういう意味ではなく、
ただ、どんなかたちにせよ助友さんを導くというか、
彼女と一番応答できるのは太田くんかなと思いました。
極力こうやって裏でごにょごにょ言いたくないんだけどね、
でも「太田くんとものをつくる」「ブログを変える」と言ってる助友さんの議論に
太田くんのプレゼンスが少ないと、なんというんでしょうか、
ちょっとバランスが悪いなと、そんな感じがしています。
まあ要するに太田くんに面白くしてほしいということなんだな。
なんだったら明日提出予定の問題をナシにして、今の議論を発展させてもいいと思う。
次の問題は再来週でもいい。
新しく入ってきた人の議論が今の感じで終わってしまうのはあまりよくないと思って。
どうですかね。岩男、岩女のみなさん。
ーーーーーーーーーー
このメールが延長のきっかけ。
このあと意見交換はなく延長が採択された。
つまり月曜日に太田くんが問題を出さなかったということ。
この流れについて説明がなかったね。気分を悪くして申し訳ない。
あと勝手にメールを投稿してすまない、林くんよ。
さてと。なにからいきますかね。近いところからいきますか。
返信削除「ブラックボックス」や「裏」なんて、いつでもどこでもあるんだよ。裏でみんな他人を評価しているし、誰かが何かを動かしているに決まってる。恣意的じゃない世界なんてありません。「フィードバック」は「なにからなにまで透明」ということではない。完全にフラットな関係がほしいという理想は、20世紀の中国とソ連で終わりました。
自分が責任をもってなにか仕事をやりとげたかったら、そんなことは当然の前提として、ただやるべきことをやればいいだけ。「私はここの者ではなかったと気づいてしまった」という発言にどれだけの生産性があるのか。女子中学生ですか。ぼくは蓮沼くんのこともゴーダのことも裏でいろいろ言ってます。当然です。彼らもぼくのいい面も悪い面も噂しているでしょう。しかしそんなことと生産的な関係づくりは基本的に関係ないし、相手に対する好意も揺るがない。
「裏」の問題を指摘することで議論を生産的にすることも不可能だとは思わない。しかし一週間もたってから「私には距離ができた」ってただのセンチメンタリズムでしょう。今更です。蓮沼くんも「この問題はじっくりやろう」って書いてました。
あとは端的に言うと、ひとが書き込まなかったら「あなたたちが意見をもってなくて私は悲しい」とか「反応がない人は面白くない」とか「期待してたのに応えてない」とか「君たちは自分たちの場をよく考えてないけど私がいればできる(意訳)」って、そういう上から目線で「場」をつくれるのでしょうか。ぼくも、おそらくぼく以外も、そんな暇じゃないです。ぼくは寸暇を惜しんででも考えたい、発言したいと思ったときだけ書きこむし、そう思わせてくれた問題、そう思わせてくれた誰かの文章にしか反応しません。「返事」と「反応」は別で、形式的な「返事」を個々人に返してほしいならメールとかで十分でしょう。今回の「問題」は、ぼくはこれまでのところほとんど「反応」する気にならない。
「反応する気にならない」ということは無言・白紙で示されます。そこで問題提出者としてどういう態度をとるかというのもひとつのポイント。太田くんの「求めていた反応が返ってこないのは、反応しない側にはもちろん、反応を求めている側にも何か改善すべきものがあるはず」という発言はスルーだった。「何も言う気にならない」と思っている(かもしれない)相手に対して「言われないとわからない」って自分中心的すぎませんか。「聞く姿勢」はどうなったのか。「面白いから動くじゃなく、面白くするために動いている」というのは、問題提出者、プロジェクトの責任者なら当然です。しかしそれを他の人間にも強要することはできない。
要するに「フラットな関係などない」ということです。助友さんは問題提出者として今回はコメントを書き込む者よりも上あるいは先に立って先導せざるをえない。一方でこのブログをつくったのは蓮沼くんとゴーダとぼくであり、3人のあいだの関係とその外部はフラットではない。さらにこの3人と太田くんは4人で私的なメーリングリストをやっており、そこで何が話されているのか助友さんには見えない。そんなの当然なんです。そんな当たり前のことに拘泥するよりも、自分の仕事をしたほうがいいと思う。技術があるというなら、作品をつくってほしい。「場をつくる」って「司会でがんばる」ということではないでしょう。「外」と出会うって理念的には賛成します。しかしそんな抽象的なことなら誰でも言える。問題はそれをどう組織したり進めていくかでしょう。そして、「私はここの者ではなかった」という発言がこのブログを面白くして、ひとの反応を引き出して、「外」との出会いを準備すると考えているなら、それはぼくとは意見が異なるとしか言いようがない。
まあ簡単に言うと、ぼくにとっては助友さんの「場の哲学」や「強烈な作品プラン」が感じられなかったから反応できなかったということです。細々した返事のやり取りをするのはあまり興味ないです。
お、なんか入れ違いで蓮沼くんがぼくのメールを引用しているね。
返信削除それは本当は不要じゃないかな。内輪っぽさを強めることはこの場を生産的にしないと思う。ま、消す必要はないけどね。さっきも書いたけど、裏なんてあるんですよ。いつでもどこにでもあるんです。世の中に裏がなかったら芸術は存在しないです。
流れに文句があったらその場で言えばいいことです。今更どうこう言うつもりはないし、この延長を主導したぼくは申し訳ないとかは微塵も思わないです。
問題提出は難しい。私が思う問題提出の作法を並べてみました。
返信削除まず大前提として提出者にとって問題であること。
これ当たり前の話。でもその当たり前が、相手に伝わらないとならない。
なぜ私がその問題を持つに至ったのか、
どう困っているのか、
解決に向けてこのように考えている、
…などが相手に伝わらないとならない。
つまり問題を抱えている人がどんな状況かを伝えないとならない。なぜなら、しっかりと具体的に事例を出さないと主旨が相手には理解されないから。ここでいう理解とは内容のみならず、その人の切実さ、強度みたいのも含む。話が共有されないと問題はスタートをきれません。
また抽象的な言葉遣いはだめ。含みをもって相手に読み取らせようというのもだめ。
問題を提出しているくせに、相手へ内容を伝えようとする意思が少ないと見てしまう。暇じゃないのでそれには付き合えない。
それが自分の文章の癖だとしたら話にならない。相手と共通じゃないと話にならないよね、という意味ね。
それと質問をしたら必ず相手が応えてくれると思ってはならない。まず自分自身でよくよく問題について考える。そしてその考えも披露する。おぉそこまで考えていたか!と触発されて反応してくれるケースもある。
最後、よくよく考えないと「問題」にはならないのだ。ろくに考えず、困りもせず提出する問題はだれも振り向かない。
助友さんの「流れは、一度もできていないと感じています」について、私にとっては、まだ問題がスタートをきれていないって感じです。
ビミョウな誤解解きや、自己完結は本当にどうでもいいから、面白い考えをを聞きたかったな。自分の仕事だけに力を注げばいいのに。
返信削除はっはっはっはっは!
返信削除この議論面白いですか?
何かを生み出していると思いますか?
くそ勉強ブログの本質は、表面をさらっときれいにしておくことではないと思います。餃子の皮の部分だけつついて、ああだこうだ言っているのはつまらない!もったいない!もっと中身の部分を楽しみたいです。(餃子の皮もおいしいですが。)
助友さんのコメントの中に出てきた「独自の思考」というのは、何を指しているのかはっきりとはわかりませんが、私は「独自の思考」はあったほうが面白いと思います。この「独自の思考」にこそ、この場の面白さがあると思います。
そして、
>・くそ勉強には「外」の視点が足りない
>・意見が混ざらないところが面白くない
このへん、私もよくわからない。実感がない。
コメントを追っていっても、なぜ蓮沼さんと林さんに助友さんの言葉が届いていないということになったのか謎ですが、私にも届いていないのですかね。
一瞬出かけた「結論」も、「結論」になっていないような気がします…。
はっはっはっはっは!
さてさて。なんだかみっともない議論になっちゃったね。
返信削除ひとつだけはっきりさせておきたいことは、この議論が面白くなく、生産性がなく、互いに意見が響き合わず、議論しようがなく、みっともない結末を迎えているとしたら、その責任は助友さんにあるということです。
建設的な意見を言ってるのに相手に問題意識がないから議論に「ならなかった」みたいな結末をつけようとしているようですが、助友さんがいい議論に「できなかった」のであって、問題提出者としてまともな作品をつくれなかった事実は事実として認識してほしいと思います。そこを他人のせいにするようなら、最初から「わたしが誰が読んでも面白い問題にする」とか言ってはいけないわけです。無責任な約束です。
威勢のいいことは誰でも言える。スタートは誰でも切れる。しかしそれをどうまとめるか、かたちにするか、他の人を参加させるかが「場をつくる」ということでしょう。今回の議論がこうなったことはもはや仕方ないけど、全てひとのせいにして捨て台詞みたいなことは、なにかを「つくる」人間だというなら、ぼくには信じられないです。
そもそも、相手に自分と同じ問題意識がないなら議論ができず、ものがつくれないとしたら、この世界に新しいものは生まれません。新しいものをつくろうとするひとは、まだほとんど誰にも「共感」してもらえないアイディアや思想を、その孤独に耐えつつはぐくむものだからです。「共感」されず、理解されなくても、ものをつくり場をつくるのが知性であり創造性です。自分をわかってもらえないうちは議論できないなんて本末転倒です。議論をつくることでわからせ、ものをかたちづくることによってわからせるんでしょう。それができない「技術」など「技術」ではないと思います。
まあ、あとは細かい部分についてもいくらでも言えますが、それも野暮なので、もうひとつだけ大きいことを。
助友さんの書き込みに対して蓮沼くんが応えたあと、なぜか「蓮沼さんと林さん」と一括りにしていました。また、太田くんの書き込みのあとには「くそ勉強の人たち」と書いていましたね。ゴーダはだいぶ黙ったままだし、ぼくもまだ返事はしていなかった。それなのにいきなり「くそ勉強の人たち」と個々人の差異を無視して均質な集団として発言し、「くそ勉強の人たち vs わたし」という対立構造を「恣意的に」つくった。それは、複数の個人から構成されている場に参加し、そこを組織しようとしている人間として、やってはいけないことだと思います。「くそ勉強の人たち」なんてぼくは呼ばれたくないですね。ぼくは蓮沼くんともゴーダとも太田くんとも意見が違うからです。ひとりひとりを個人として尊重しなければ、その集合としての「場」など形成できるわけがない。「みんな」と呼ばれて喜ぶ人間は個人名で活動などしません。
しかも、「くそ勉強には「外」の視点が足りない」というけれども、ぼくは前回の書き込みでもはっきり「外と出会う」という考え方に賛成すると書いている。自分に都合のいい部分だけつまんで「くそ勉強の人たち」の意見にしてしまったら、それこそ個々人からの「応答」なんて不可能になると思います。
さて、最後に一番大事なことを。
これは議論です。議論はパブリックなものであり、プライベートには干渉しない。したがって、わたしは助友さんの議論のつくりかたおよび内容に批判的だったかもしれないが、それは助友さんを全人格的に攻撃するものではありません。お互い、そこを取り違えて、生活の全局面において相手を否定し合うようなことのないようにしましょう。議論は重要ですが、一方ではたかが議論です。全人格を賭けて戦い合うような価値はない。しかし他方で極めて重要な価値をもつこともある。ひとつのものが同時にふたつの面をもつわけですね。西洋の思考というのはなかなか複雑なものです。