2011年7月19日火曜日

文脈に助けられよう/いいから俺の話を聞いてくれ(1)

「文脈」と近く深くひとつになることを推奨したい!
それによって人生や、仕事は助けられるだろうと直感します。
ここでは「文脈」についての哲学をゲットするのを目的としたいです。

文脈って「意味ある流れ」のようなのと捉えてそんなに間違いじゃないはず。
一文字だけでは意味をなさなくとも、文章のように連なると意味が生まれる。
そういう流れ自体を指しているのが文脈。

私の文脈に関する思い出で、そこそこ自在に接続詞を使えるようになった頃のことがあります。
文章と文章との間に「だから」とか「したがって」とかを入れ込むことで、より長い流れが生まれ、私は論理的に話せるようになりました。論理的な話術というのは、ある程度の長さに、筋道が見えたらオッケーです。ここでポイントなのは「ある程度の長さに、筋道(流れ)が見えたらオッケー」なことです。
物語りも起承転結とある程度の長さと筋道があります。
また海にいる魚とパソコンを打つ私との間には、進化の過程という時間と筋道によって意味が生まれました。
3月11日の地震は過去の日本で起こった大地震とつながりを思い出させてくれましたし、
原発をめぐる組織の対応は、戦中の日本の組織の系譜は変わらずあるとも分かりました。
挙げればきりがなく、小さいところにも大きいところにも「文脈」は適用できます。

そういう文脈は一瞬や一点ではない性質上、意味を読み取るのに時間がかかります。
それゆえ時間の要素も多くあります。大なり小なりの文脈の世界で、人は住んでいて、そのなかで人生を送ります。
井上雄彦の「バカボンド」では沢庵和尚が宮本武蔵にむかって「天とつながりなく生きるのはただ辛い」的なセリフを言っていた覚えがあります。個人ではコントロールの出来ない大きな何か(天)、それとつながらず、私一人で生きていくのは大変である、と。そもそもは繋がって生まれてきたもので、素直に認めることの楽さについて話していたような。やばいうろ覚え過ぎる。でも天とつながってしまえばいい、という主旨で大丈夫だと思います。
それでつながることを阻害する自意識やら何やらから自由になるために武蔵は剣の道があって、沢庵和尚は仏の道がある。そのときの自由とは、天とつながっている状態での自由。
上手く前文とつなげられませんが、文脈と近く深くひとつになるポイントがそこにあるように思えます。
(今シリーズは、しっかりした定義より、個人の思ったことの強度を大事にする方針です)

それで私は美術を専門としています。
西洋現代美術では文脈というか「コンテクスト」を大事なルールとして据えています。
これまで私は、文脈が大事だよという形式的で記号的で卑屈な(そう見えたこともある)意見はあまり大切に聞いてませんでした。しかし「コンテクスト」を大事にして作品をつくっている人は、やはり作品が「立っている」ようにも最近見えてきました。これまでの系譜の力を借りて、次なるステージでのやりとり、という「前線」が見えているからなんだと思います。この戦うべき場所としての「前線」を摑むためにもやはり文脈は必要であり、なにより凄く面白い意味のはずです。


ひとまずここまで。
つづきはコメント欄で。まだ話したいことがあります!

9 件のコメント:

  1. 以前までは文脈について積極的ではなかった。
    そんなの当たり前でしょうと思っていたのだ。
    例えばリファレンスがあって次の研究ができるように、祖父母がいて、両親がいて、私がいるように流れは
    自明なことと捉えていた。それ自体は悪い考えではなかった。
    しかし、外から観察して、ああ…あそこに文脈があるね君…という態度と、ここに流れるはずだと!点を創作していくのとは別なんだとは気づいていなかった。

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  2. 横軸と縦軸という構造モデルも考えたい。

    横棒だけでは立たないように縦棒が必要なんだと思う。横は人のつながりやら空間やらが想像できるが、どうもそれだけでは内向きになってしまう。世界へ目を向けろということではなく、時間に目を向けろということが大切なんじゃないかな。

    縦軸と縦軸とを橋渡しして、支えてくれる横棒ももちろん大事。いま思い浮かんだのは「鳥居」みたいな構造物。

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  3. そもそも文脈を考えるきっかけになったのは内田樹氏(@levinassien)の6月26日のツイッター
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    茂木健一郎氏の朝の連続ツイートに「茂木さんの「欠点論」にも共感しました。「欠点は絶対に直らない」というのはほんとうです。欠点が「長所として機能する文脈」に置き直すというのが欠点との正しい付き合い方だと思います。35年武道家と教師をやってきて、しみじみそう思います。」
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    これも共に考えたらより拡がる直感があるんだけど。

    http://twitter.com/#!/levinassien/status/84769279655952385

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  4. 孔子の論語が気になっている。あの年齢に触れたところだ。

    子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

    私はもう三十(だから気になっている)。いま立つタイミングだという。こういうのも「意味ある流れ」として長く読み継がれてきた。とりあえず立つ。

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  5. 文脈から「途切れている」ことは、実はこの投稿の動機でもある。ことに気づいた!

    文脈さんに助けられようという魂胆には、もちろんまだ十分に助けられていないという気持ちがあるからだ。

    いま被災地や避難などで問題に挙がるのは地域を無くすこと。異なる土地へ行くのはもちろんのこと、仮設住宅はひとまずの住処であって、これまでの地域共同体の様相は反映されることは少ない。その地域で継承されてきた関係や知恵などは大切な拠り所だ。そういうのを無くしては生きていくのが辛い。

    ここで「文脈」という言葉を用いると見えてくることがある。それは地域共同体の歴史じゃないかなと思う。近所の人(横軸)も大切(これからの縦軸)だが、先祖も大事。その土地の先人からの営為脈々した流れが、おおいに助けになっているんじゃないかな。それが何であるかと形容が難しいが。
    お墓参りとか、お盆とか、昔話とか、古い建物とか…。ちとちがうな。

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  6. 私は地域についてはよく「途切れている」。

    私の親は「近所づきあいや親戚づきあいに疲れて、都心部の集合住宅に気ままに住みたい」系だったのである。ニュータウンや埋め立て地などへの引っ越しも多かった。郷土はない。お墓も超巨大霊園に入っているし。まったく縦が乏しいなぁ。落ちもないです。

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  7. 文脈の構造的なモデルについて。

    たいそうな話ではありませんが、現在の人づきあいが横軸で、過去と未来が縦軸とした場合、十字架のような形を思いつく。それで十字架だけだとあれなんで、もう少し考えてみると「縦になった交差点」というのはどうでしょうか。

    通常の交差点は町中によくある道と道との十字路です。あれがぐわっと立ち上がってしまったのが「縦になった交差点」。横軸があってこそ、下の縦軸があってこそ、上の縦軸へ流通できるみたいな…ま、今日はこれくらいで。

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  8. 絵具や絵筆などの素材の特徴や機能に寄り添うことは
    流れに乗りやすい。逆に空想が多いと無理があったりして流れる感じはなくなる。ふと思ったことでした。

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  9. 直感と文脈は対立ないし補完の関係として語られることしばしば。アーティストの村上隆は日本美術界のモラトリアムな空想に耽っている様子をを批判していたと思う。アート=自由であることが強調され歴史やコンテクストを省みる人が少ないと。(つづく)

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