2011年1月10日月曜日

問題6 編集(の)可能性とは何か

 前回の問題(の一部分)を転回させる議論にしたいと思います。

 議題は「編集」です。前回の議論で、蓮沼くんは映画体験を原則として編集可能なものと捉えていたように思う。つまり、自分の映画体験をつくるのは自分でしかないのだから、寝てもいいし一部を見て満足してもいい、というように。経験は客観的なものではない。自分の経験を編集するのは自分である。

 ぼくは映画と社会の関係を編集可能なものとして捉えました。つまり、今後も変更しうるものとして。社会における映画の存在様態は絶対的なものではない。社会を編集するのは社会の成員である。

 ところで、太田くんは編集者です。ゴーダは映画を撮るなら編集もすることになるでしょう。蓮沼くんは本づくりの経験があったり、記録写真という「編集」の仕事をしています。みんな編集に関わっている。

 そこでまずはざっくり聞きたい。1)あなたにとって「編集」とはどのようなものであるか(どういう作業か、何が重要か等々、答え方自由)。そして、2)あなたの「編集」に対する考え方を、あなたの専門領域以外でも役立つ態度に転化することは可能か。可能だとすれば、それはどのようなものになるか。

 「編集」や「カスタマイズ」によって「わたし」を複数化し、「わたし」の「時間」を複数化することが重要だとぼくは主張している(「時間の複数化」および「軽さについて」)のですが、そのとき「編集」と言ったり「カスタマイズ」と言ったり「デザイン」と言ったりして、わりと適当に言葉を使ってきました。自分の考えをブラッシュアップするためにも、ここで「編集」について議論できればと思います。「編集」の可能性とは何か、あるいは物事の「編集可能性」とは何か。ぼく自身も問題意識が曖昧ですが、議論していく中で明確にしていきたいと思います。

19 件のコメント:

  1. 1あなたにとって「編集」とはどのようなものであるか。

    私にとって編集とは「人格づくり」です。情報を集めて、集め方に宿る人格をつくるのが編集です。

    私は写真の仕事で、とあるアートプロジェクトを撮影するときに努めることがあります。それは、どんな場所で、どんな人が、どんな活動を、どんな魅力で展開しているかを一枚の画面で抑えることです。すでにフレーミングの時点でかなり編集が入っています。そして撮影された1000枚中、選ばれる写真は5枚ほどです。選ばれるイメージは「とあるアートプロジェクト的」かどうかが判断の一つです。
    ただし、すでに「とあるアートプロジェクト的」が存在するかというとそうではなく、現場の光など僅かな手掛かりをもとに編集作業をしていくことで、外堀を埋めるようにして現れる人格です。

    そもそも「私」という人格もさまざまな知覚の上から成り立っています。
    目の前にペットボトルがあったとして、それから、たくさんの映像が網膜に映り込んだとしても、無意識で処理が施されます。なので「このペットボトルは烏龍茶である」「飲みかけである」「まだ腐っていない」とか抽出された、重要だと思うポイント情報があります。
    記憶というのも知覚を統合する私という視点があって、初めて記憶されています。
    私という人格がないと、寒いとか痛いとかの知覚はそのままのRAWデータで、その瞬間でしかなく、思い出される記憶にはなりづらいです。

    つまり「人格」の視点から「編集」という選択することが可能であり、
    同時に「編集」から「人格」が生まれている。それはものづくりに転化できるのではないでしょうか。
    発達過程において「私」という人格を獲得したように。
    ------------------------------------------

    2あなたの「編集」に対する考え方を、あなたの専門領域以外でも役立つ態度に転化することは可能か。可能だとすれば、それはどのようなものになるか。

    優先度をつけることかな…。
    一番伝えたいことは目立たせないと。
    他の情報と一番伝えたい情報が並列だと、一番伝えたいという意思は相手に伝わらないよね。
    それはデザインにも、写真にも、本にも言えるでしょう。
    そのときのポイントは二番手、三番手の情報も、二番手、三番手なりにちゃんと扱ってあげること。
    一番伝えたいことが全てではないからね。人格は総合的なものだから。

    でも普通すぎる意見かな。

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  2. 1.
    編集は、関係やリズムをつくっていく作業です。
    映画では「編集」という作業があります。撮影された映像やフィルムを切ってつなげて映像と音が組み合わされ、一本の「映画」が現れてきます。その作業はとても細かくて、1コマあるかないかでで全く違うものになります。つなぐ前後の口の動き、背景の車の動き、音のかすかな切れ目、手の形・・・編集はとてもマクロなところから関係を紡いでいき、全体のリズムをつくっていきます。編集を終えた映画は、それから上映され、他者と相対して、また新しく時間や空間を生み出していきます。これもまた編集作業に近い。

    そう考えると、撮影自体が編集行為ともいえる。在る世界にカメラをむけ、フレーミングし切り取る作業は、編集時のマクロなこだわりと似てる。そこに在ったものとカメラとの関係から、編集を通し、映画館の光を通し、新たな関係性をつくる。

    映画の一行程としての「編集」にもどると、昔はよくその謎を解こうとして、好きな映画のシーンやショットを細かく分析して、どんなつながりがあるか探ろうとしたこともあった。でも、編集された各ショットから、その秘密を見つけることは決してできない。映画のリズムを生み出しているのは、シナリオ、撮影、フレーミング、動き、音、それぞれでもあり、編集された全体でもあって・・・個人的なこだわりから、他との関係性のなかで映画ができてる。私にとって蓮沼くんのいった「人格」とは、こういったところに感じます。

    2.
    マクロなこだわりに注目することと、関係性の流れを意識すること。
    こだわりって時に直感的なものだけど、大切な事が多い。なにか伝えるときの強度はそこから生まれるんじゃないかとおもいます。

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  3. 上のコメント、
    マクロでなくてミクロでした。

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  4.  コメントを受けて発展させたいんだけど、ちょっと今ばたばたしているので、小さなクッションでつながせていただきたい。

     特に二つ目の質問に関して。

     蓮沼くんは、「わたし」が存在しなければ「編集」はないけれども、しかし「編集」がなければ「わたし」は存在しないと言った。これは非常に面白い視点と思いました(たぶんあとあとまでの議論の軸になります)。そしてもう少し一般的には、情報に優先度をつけることが編集の現実的な応用であると書いてくれた。そこで聞きたいのだが、蓮沼くんは「蓮沼昌宏」をどんなふうに編集しているのか。あるいは今後編集して提示していこうとプロジェクトしているのか。(これはぼく自身も考えなければいけない問題なのですが…。とりあえず蓮沼くんに振りたい。)

     それからゴーダに関しては、二つ目の質問に対する答えが「編集」ではないことが気になりました。「マクロなこだわりに注目することと、関係性の流れを意識すること」は、編集の前提であって編集そのものではないでしょう。したがって編集の応用としての態度とは言えない。蓮沼くんが応えてくれたように、「世界の編集可能性」のようなものを、ゴーダが映画の経験からどう考えているかを教えてくれると嬉しいです。

     「わたし」の編集可能性。「世界」の編集可能性。そういったものが今回の議論のテーマになりそうです。

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  5. 映画の編集から考えて私の考えをもう一度整理してみると、たとえば音や言葉(文字)や映像という違うかたちのものを編集する、細かく具体的なところから始まって、映画というひとつのものができる。それから大事なもうひとつの「編集」、つまり「映画を観る行為」の中で、それぞれの背景や経験を持つ観ている各自が、映画と自身の関係を見出して、異なった新しい時間や空間と出会う。そういう映画は、場所、フレーミング、光の当たり方、表情や空間の間のとり方、このショットがどこから始まってどこで終わるか、それがほんの少し違っていても印象が変わっていただろうと思わせられるものだ。

    でも最初から編集プランが完璧にできていることはありえない。実際の現場はいろんな状況だろうし、素材だって制限されたものかもしれない。映画の撮影は、ある意思に基づいて撮られていても、常にその時間場所でしか起こり得なかった、実際には支配不可能な出来事や偶然と共にある。それらを呼びこむために、小さなこだわりの積み重ねと何度も流れをつかむ作業をする(これは撮影でも編集でも)。それが映画の醍醐味だ。

    さて思い描いていた素材に、新たな出来事や偶然が加わった。編集では、それらを活かそうとするだろう。具体的には、順番を変えたり、長さを変えたり、組み合わせる音の大きさを調整したり、あらゆることをしてみる。注意深く何度も試して、全体の流れを確認する。その果てにこだわりの一点、絶対これしかない編集点が見つかる。

    そこで得た一つの編集の役立つ態度は「あらゆる関係性(組み合わせ)の可能性を試すしつこさ」。(しつこさは時に、こだわりの不十分さもカバーしてくれると思う。)私達は自分の生きてる世界で時間をコントロールしたり、必要だとおもう場所にいるために、常に細かい「編集」作業をしてる。大体は映画と違ってこの一点!となる前に、そこそこいいところで目的を達成していて、それでも不自由なく暮らしている。でもあらゆる可能性を試してみようというしつこさ(生活ではもうすこし軽く、好奇心でもいいかも)があれば、もっと何か質のちがう時間や空間に出会えるんじゃないかと思います。

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  6.  「あらゆる関係性(組み合わせ)の可能性を試すしつこさ」はいいね。とてもいい。そういうしつこさ、あるいは好奇心でゴーダは自分の「世界」をどのように編集していますか? あるいは編集していこうと思っているのだろう。

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  8. 1)あなたにとって「編集」とはどのようなものであるか(どういう作業か、何が重要か等々、答え方自由)。

     「編集」とは、ゼロから作るのではなく、既存の情報と向かい合うための手法(≒思想)であると認識しています。ある素材を、そのときの目的に合わせたフィルターに通して、適した形に構成してゆく。この過程によって、素材となったものは如何様にも発展し得ます(同時に廃れ得るとも言えるでしょう)。となると、何かをアウトプットしていくときに「編集」という作業は非常に重要な役割を担っていると考えられます。
     その意味では、書籍等では編集者は黒子で、目立たない方が良いのだという考え方もありますが、これからはむしろ、有名な著者をババンッと前面に打ち出すようにして、編集者も目立っていっても良いのではないかと思います。(例えば、『思想地図β vol.1』には、「東浩紀|編集長」と表紙に堂々と出ていますね。)
     ただ、ここで強調しておきたいのは、「編集」という作業は限りなく幅広い領域に存在するものだということです。先には書籍を例に挙げましたが、日常生活の中においても非常に重要であると思うのです。


    2)あなたの「編集」に対する考え方を、あなたの専門領域以外でも役立つ態度に転化することは可能か。可能だとすれば、それはどのようなものになるか。

     この問いに対しては、可能だと考えます。〈1〉の最後にも述べたように、「編集」は日常生活の中にも存在していて、料理なんかはその分かりやすい例ですね。食材をいかに料理として構成していくか。挙げていくと切りがありませんが、例えば時間(これは林さんのツイートの中にもありました)や交通なども、特別な意識はしていないことが多いかもしれませんが、実は「編集」しているのです。
     この場合、各々が「編集」している自覚を持つことが大切なのではないかと考えます。「編集」の作業によって可能性が大きく広がります。既存の情報に対して受動的にならず、積極的に「編集」していく姿勢が必要なのです。

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  9.  細切れで焦点の定まらない議論になりそうですが、太田くんにも質問したい。

     太田くんの書いてくれたことはとても面白いです。しかし今回の議論でもそうですが、「編集」というのは拡張し始めると限りなく拡張していく概念だな、と思いました。そこでもうちょっと限定してみてもよさそうです。

     例えば「編集」に対して「デザイン」や「カスタマイズ」はどこまで同じで、どこから違うのだろう。そこで「編集」に固有の可能性と限界をもう少し厳密に論じることはできるのだろうか。それとも、そもそもこういう細かい議論はあまり意味がないのか。

     太田くんの「編集」に対する考えをさらに聞きたいです!

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  10. >例えば「編集」に対して「デザイン」や「カスタマイズ」はどこまで同じで、どこから違うのだろう。
    >そこで「編集」に固有の可能性と限界をもう少し厳密に論じることはできるのだろうか。
    >それとも、そもそもこういう細かい議論はあまり意味がないのか。
    これは興味深い視点ですね。
     「編集」と「デザイン」と「カスタマイズ」、これらはそれぞれ拡張が可能で、拡張の仕方によっては重なり合う部分が出てくるのだと思います。ですが、限定して考えてみるために、〈編集とデザイン〉、〈編集とカスタマイズ〉というふうに分けて考えてみます。(普段から多く接しているのは紙メディアですので、今回はその視点で述べます。)

     まず〈編集とデザイン〉です。この2つを区分けするときには、「編集」で構成して、その構成をうまく見せるためにヴィジュアルを「デザイン」する。ただ、ここで注意しておきたいのが、「編集」による構成には、当然、ヴィジュアルのイメージも入り込んでくるわけです。コンテンツをどう構成し、それをどう効果的に見せるのか。となると「編集」が「デザイン」にも入り込むわけです。同様に、「デザイン」が「編集」に入り込むこともあります。これをうまくクリアした言葉が「編集デザイン」なのでしょう。

     次に〈編集とカスタマイズ〉です。この2つについては、実は私自身、比べて考えてみたことがありませんでした。「カスタマイズ」とは、《既存の商品などに手を加えて、好みのものに作り変えること》(大辞泉より)。厳密に言葉の意味を追うとどうなのかはわかりませんが、私の認識では、「編集」は素材自体をいじるというよりも、素材と素材の組み合わせによって新たな価値を生み出したり、全体のイメージが変えたりするもので、一方「カスタマイズ」は素材自体をいじって目的に合わせた形にする、というふうな感じでしょうか。ただ、このときも「編集」するために部分的に「カスタマイズ」が必要になることがあったりもします。

     こう考えると、「編集」と「デザイン」と「カスタマイズ」は互いに少しずつ重なる部分もありながら、しかし互いを補完し合う関係でもあるということになるでしょう。
     その中から「編集」に限定されたものを抽出するとすれば、先にも述べたように《素材と素材の組み合わせによって新たな価値を生み出す》が特徴的だと思います。そもそも編集者は、著者やデザイナーといった様々な人々とのコミュニケーションの中に存在します。関係性を築いていくことが大事なんだと思います。(デザインまでできてしまう編集者が良いという意見もありますが)

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  11.  太田くんどうもありがとう。議論の輪郭が見えてきました。

     「編集」に関して全員の発言に共通しているのは以下の二点だと思います。

    ①ひとつの物事それ自体ではなく、複数の物事の組み合わせが価値を生む。
    ②ただし、価値のイメージがあるからこそ物事を組み合わせることができる。

     編集が価値を生む。しかし価値の感覚があるから編集できる。ということだね。

     物事の「正体」や「本質」や「究極的な意味」よりも、組み合わせや組み換えに価値を見出していくのは、今やほとんど当然の前提なのでしょう。しかしだからこそ、ここで終わったらちょっとつまらないね。当たり前のことを確認しあっただけになってしまう。ここからもう一歩行かないと、わざわざ議題にした価値がない。

     議論が一般的・抽象的すぎるのかもしれない。もう少し個別具体的にしようか。

     複数の物事の組み合わせが価値を生むのだとして、じゃあどんな物事同士を組み合わせればいいんだろう? 「価値のある組み合わせ」とは何か? 蓮沼くんの言葉で言えば、「編集」=「人格づくり」が面白くなる物事の組み合わせとはどんなものか? ゴーダの言う「試してみたら面白い関係性(組み合わせ)」とは何か? 太田くんが考える「新たな価値を生み出す」「素材と素材の組み合わせ」とは例えばどんなものか? もちろん各自の主観でいいし、ある場合にしかあてはまらないような例でいいと思う。

     さらに言えば、組み合わせてどうするのか? 映画にするのか、本にするのか、写真になるのか、ビジネスになるのか、あるいは組み合わせを「人格」にして生きていくということか? ロマンチックに夢を語れということではないよ。本気じゃなくて空想、妄想、構想でいいんです。過去の実例でもいいけど、できればまだやったことのないことの方がいいと思う。「人為的な組み合わせ=編集は重要なこと」という一般論で終わらせないために、もう一歩進めたいのです。ぼく自身も具体的なアイディアを出したいと思う。まだわからないので、とりあえずこの問題7’(プライム)を再提出します。

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  12. 6’(プライム)だ。6ね。7は金曜日に太田くんが提出してくれる予定。

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  13. ちょっと料理の話を。
    料理は組み合わせです。「鴨」と「葱」の組み合わせで、個別で食べるよりも美味しくなったりします。
    ただし組み合わせ(レシピ)を数多く知っていたとしても、それは知識であり、それだけでは美味しいご飯をつくるのに不十分です。
    では、なにを捉えるのかというと、素材そのものです。口に入れるそのものです。その素材の状態があって、ようやくレシピへ移行できるのではないでしょうか。

    美味しんぼから近い話を引用すると…
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    「またしてもお前は基本を外した…料理は技法に走ったらダメだ。材料に惚れ込んで、その素材の魅力の素晴らしさを一つでも多く引き出してやることなんだ!」「料理は仕掛けに走ったらダメだ」

    「…そこが料理の考え方というものだ。これだけいいカブを手に入れると得てして凡庸な料理人は間違いを犯しやすい。例えばいいだしをとってそれだけでサッと炊くだけ、という料理をつくったりする。しかしそこに誤りがある。というのはカブの風味には土臭い匂いが残っている。その匂いが問題なんだ。カブの風味はそれ自体味わい深いものだが相性の良いものと組み合わせると単独の場合よりもはるかに引き立つのだ。私はここでマッシュルームを選んでみた」

    参考『美味しんぼ「究極vs至高 対決!!野菜編」』 
    http://www.youtube.com/watch?v=BpF811P8ywk
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    ここから飛躍するんですが、素材を加工して新しい素材を生み出すことが、いい編集の仕事ではないでしょうか。編集と素材は繰り返していくのではないでしょうか。と今考えています。

    林くんのコメントの
    >「価値のある組み合わせ」とは何か?

    この問いに対して「素材を組み合わせて新しい素材を世に提出する」という言えるかどうか。
    そしてそれを踏まえて次の問いに発展できたらと思います。
    >「蓮沼昌宏」をどんなふうに編集しているのか。あるいは今後編集して提示していこうとプロジェクトしているのか。

    編集可能性へ向けた、中間のコメントでした。

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  14. >「価値のある組み合わせ」とは何か?

    これまでの議論の中で、ものづくりにおいては、素材での勝負、さらにその組み合わせの可能性を最大限まで追求するというのは当然であるから、さらにその先大きな文脈をどこまで追い込んで作っていけるかが焦点となっているように思いました。

    「価値のある組み合わせ」を考えたとき、どんな文脈において価値があるのか。その組み合わせが価値である文脈をつくることも編集です。編集には必ず小さなところと大きなところがあります。どちらも重要です。たとえば料理だったら素材を生かして出来上がった1つのメニューがある。そしてその1メニューを生かすための副菜なり、コースメニューなり、沢庵なりがある(その組み合わせは同じくらい重要)。それからそれを食べる文脈、例えば空気が澄んだ山でとれたての野菜を、凝ったソースを雰囲気のいいレストランで・・・、なんでもいいけれど、その文脈が豊かであればあるほど世界は広がっていくし、美味しさが増す。

    「文脈と合致すること」は、たとえば「映画はなぜ120分か」という問の答えのヒントにもなるように思います。既存の文脈によりそって、いい素材をつくるだけでは上手くいかない。5分の映画を、300分の映画を、5分で、300分で、最大に味わう文脈ってなんだろう。そんなことを見つけたいというモチベーションで、私はこの編集問題に取り組んでいます。

    たぶんそれぞれ皆の活動にも、文脈づくりのビジョンがあると思うので、それを聞いてみたいです。

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  15.  ネット環境が不安定だったものでレスポンスが遅くなり申し訳ない。

     さて、蓮沼くんの話はちょっと高度すぎる印象。ぼくが聞きたかったのは、ずばり「鴨と葱を組み合わせるとよい」というような答えです。素材の性質を見極めて加工し、組み合わせて価値を高めるというのは、「鴨と葱」が決まったあとの高度な技術ではないかと思う。しかしやっぱり偉いのは「鴨と葱」の組み合わせを発見した人ではないか。まずはそういうことを考えたい。

     次にゴーダの書いてくれたことに関しては、ぼくは「文脈」の話は全然していないし、したいとも思わない。というか、すぐそういうメタレベルの抽象的な議論に走るのをやめようっていう話だったんだよね。「文脈が重要だ」なんて誰でも言える。特にものを作らない人、実際にはその「文脈」に影響を受けも与えもしない人ほど言う。それで大事なことを言ったっぽい雰囲気を漂わせるのはもうダサイと思う。思いっきりベタに「鴨と葱を組み合わせたらいいんじゃないか」とか提案する方が価値がある。少なくとも役立つ。しかも物事が動いて楽しい。

     文脈づくりが重要だとして、今のゴーダにどんな文脈がつくれるだろう? 自分の身の丈に合ったところから始めませんか。例えばぼくが「文化立国が重要だ」とか言っても虚しいわけです。無力感を感じるしかない。そんなのは外野から飛ばす野次です。プレーにも試合にも自分にも何の変化ももたらさない。何も変えないことほど安全なポジションをキープして言える。そういうのはもうやめませんか。「文化」という言葉に近いような「文脈」なんて、少なくともぼくは今の自分が考えるべき対象ではないと思う。

     例えばWikiLeaksがやったことはインターネットと機密情報公開の組み合わせです。複数の物事を取り出して組み合わせた編集です。ツイッターはネットと時間(リアルタイム)とコミュニケーションです。ぼくも2010年は芸術と外務省の組み合わせみたいなことを試みました(失敗したけど…)。われながらしょぼい組み合わせ=編集で泣けますが、まあやってみた。

     どんな要素を組み合わせて映画をつくったら面白いかとか、美術作品とか本とかビジネスとか、なんでもいいんです。蓮沼くんの「映画カフェ」でも「銭湯+映画館」でもいいんです。抽象的な空中戦をちょろちょろっとやることを「議論」と呼ぶのはやめて、具体的に物事が動き始める場にしませんか。本当はそれこそ「議論」なのではないか。リスクはやや高いです。試されるから。でもそういうものでなければわざわざ時間をとって公開したいとは思わない。

     一つポイントになるのは、この「問題集」プロジェクトの発端とも関係するけど、具体的な問題に対して文句を言い、その解決策を考えることだと思う。フェイスブックでもツイッターでもWikiLeaksでも、すべて具体的現実的に「この問題を解決したい」っていうところから始まっていると思う。「もっと思いっきり情報公開したい」とか、「ネット上でもリアルタイムでコミュニケーションしたい」とか。「情報とは何か」とか「コミュニケーションとは何か」を議論する中からそれらが生まれたとは思えない。だから個々人の生活や問題意識にヒントがあると思う。ぼくだったら「仕事したいけど何をすればいいかわからない」とか「引っ越したいけどお金がかかりすぎる」とか「子供が生まれたら友達にいろいろ手伝ってほしいけど東京だとお互い遠すぎる」とか。それを解決するために何と組み合わせればいいのか、それが「編集」の可能性ではないか。

     まあ可能性なんてどうでもいいので、そういうふうにまずは動かせるものから動かし始めようぜ、ということ。長くなったのでまずはこのへんで。反論があればもちろん受けます。

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  16. 今さらになってしまうのですが・・・、

    「価値のある組み合わせ」ですが、単体ではあまり価値がないもの同士が組み合わせられることで、価値のあるものになるというのがあると思います。(-)×(-)=(+)みたいなイメージです。具体的な例として、ピンとくるものがないのですが・・・。何かヒントになるようなものが隠れている気がするのであげてみます。
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  17.  いいね! たしかに面白そうな組み合わせ。そういうのを聞きたいんです。太田くん自身のアイディアが聞けたらなお面白いです。全然今さらじゃないヨ。

     「編集可能性」とは、物事の組み合わせの可能性を①確認しつつ②拡張することではないでしょうか。だからまずは自分にどれだけ物事を組み合わせる力があるのか/ないのかを自覚することが必要で、そこはとりあえずノーガードでぶつかっていくしかないと思う。

     芸術+外務省というぼくの「編集」の失敗は、やっぱり抽象的な思考に由来していたことだった。具体的現実的な問題としてどうしても外務省に入りたいとか入らないといけないことはなかった。そこがまずかった。抽象的な思考から何かを続けることはできないし、物事/自分を動かすことはできないことがよくわかりました。

     と言っても、「わたしが抱えている具体的問題」を公衆の面前で告白しろって言ってるわけじゃないよ。なんというか、面白いプロジェクトを事業化している人たちは、プライベートな問題の解決策をパブリックなものにしていくのが上手だと思う。逆に言えば、公共的なものとの関係で私的なものを考えているのかもしれない。だから単なる苦悩の告白ではなく、役立つ問題設定とその解決策をつくり出せるのでしょう。

     プライベートな領域とパブリックな領域の接続のさせ方、そこにも「編集」の可能性があると思う(ただしプライベートとパブリックがどこまで明確に区別できるかは別問題)。そのとき「パブリックに重要な問題」からスタートするよりも「プライベートで困っていること」から出発したほうが強くなるんじゃないかということ。しかしそれは何度も言うようにじめじめした「わたしの問題」とは違う。

     ぼくだったらやはり仕事、お金、子育て、住環境とかかな。たぶん流れに身を任せるばかりでは「編集」はできないのだろうね。物事を自分で解決しようとする意志や自分(たち)の利益をとことん考え抜くエゴがあったほうが強い。そういう意味では、われわれはもっと自分のことを考えて、勝手なプロジェクトをしまくらなければいけないのかもしれない。

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  18. 「銭湯」と「映画館」。

    裸で観る映画!
    湯船に浸かって観るハリウッド。
    サウナしながら、岩盤浴で寝ながら鑑賞も可。
    風呂場にはテーブルと椅子もあって給水もできます。
    高い天井には投影される映像の光と、湯煙が交わってきれいな質感を演出します。
    町おこしにもいいですよ。

    と、こんな案を出してみた。そして気づいたけど「プラットフォームの編集」だ。銭湯と映画館って。
    富士山の絵画と銭湯という前例もあるね。

    どこかの銭湯でやらせてくれないかな。

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  19.  突然かつての議論に発言を追加してみる…。

     「旅行」と「電子書籍」は価値の高い組み合わせです。ガイドブックはたいてい重い。地図は見づらい。カラーの地図を拡大表示したり、同時にネット検索できることが当たり前になってほしい。

     この用途だとキンドルはだめです。マルチタスクで検索できないし、モノクロだし、画像の表示に適していない。やはりタブレットですね。

     いま外国にいるので実感をもって思うのですが、異国の体験はもっと面白くなるチャンスがあると思う。スマートフォンやタブレットをもつのが当たり前になって、通信料金が低額になれば、歴史的名所にいながら自分で情報を調べて学んだり、現在地の近くでおいしいレストランを検索したり、旅行中に読む本も電子書籍で軽量化できるし、何の準備もしないでふらっと海外に出かけられるようになる。グーグルマップやグーグル翻訳は外国の街中でこそ役立つ。旅行に対する敷居は下がり、外国旅行はますます「軽く」なり、しかし充実度は上がる。「日本人の内向化」を打破したいなら精神を説くより技術で支援すべきです。

     これは「外国」と「ネット環境の常態化」の組み合わせと言ってもいい。どの国にいても廉価で常時ネット接続できてほしい。

     ところでそれは、政治的にもけっこう重要かもしれない。いまエジプトでツイッターが使えなくなっているらしいけど、ネット環境が最終的に国家単位でコントロール可能なものであるということは、ネットにも「国境」があるということ。通常は不可視で、例外事態において可視化する境界線。「外国」のネット環境が問題になるのは、ネットという「領土」よりも国家の「領土」が優先しているから。この関係が揺るがされたらどうなるのか。国家がネット環境の内部に境界線を引けないようになって、誰でもどこでもネットに常時接続できるようになったらどんな世界になるのか。

     話が脱線しました。「ネット環境の常態化」と「旅行」を結びつけるつもりが、昨今の情勢と関係付けて飛躍した。

     あまりわたし自身の活動に関係する「編集」の例ではないけど、今現在の状況から書いてみました。また別の話題を追加したいです。

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