2009年12月29日火曜日

メモ:プラクティカル

茂木健一郎 クオリア日記
2009/12/29

プラクティカルなアドヴァイス

ここのところ何をしている
時間が一番楽しいかといえば、
「勉強」ということになろうか。

際限がない。昨日移動しながら
読んでいたのはOrigin of Species
とThe Greatest show on earth。

夜からはLeo TolstoyのThe Gospel in Briefを
読み始めた。

これは、Wittgensteinが読んで、
感激し、とにかく周囲の人に
勧めて回ったので、一時期「福音書の男」
と言われたといういわくつきの本である。

塩谷賢のお師匠さんだった
廣松渉さんには、一度だけ
お目にかかったことがある。

その御著書の、きわめて難解な
印象とは異なり、
まるで春風のようにさわやかな人だった。

その廣松さんが、塩谷に、
「勉強というのは、一日三千頁読まないと
ダメだ」
と言ったそうである。

それを聞いて、ぼくは「うへー」と驚いたが、
本当に学問をやろうとしたら、
そんなものなのかもしれない。

たとえば、Immanuel Kant本人の著作を
読むだけでも、大変である。

その上、Kantについていろいろな
人がいろいろなことを言う。
さまざまな研究書がある。

Kantをある程度わかったとしても、
Hegelだ、Schaupenhaur だ、Nietszcheだ、
なんだと言っていたら、
読むべき本が増える。

西洋哲学をある程度押さえたとしても、
廣松さんのように相対性理論や量子力学にも
興味を持っていたり、
あるいは数学基礎論、言語哲学、
心の哲学、あるいは東洋思想、
文学、音楽、絵画史、
政治史、などなどと考えていったら、
この世の森羅万象を理解するのに
いったいどれくらいの本を読まなければならないか。

これは、しかも、基礎をつけるに必要な
最小限というだけであって、
その上に独自の体系を展開するしたら、
実に気が遠くなるじゃないか、諸君!

塩谷が、18歳の春から延々と
変わらずに分厚い本を何冊も
一澤帆布の中に入れて持ち歩き、
付箋をして、線を引きながら読んでいるのは、
実に師である廣松渉氏の教えを守っていると
言えよう。

そうして、学問というものは、
基本的に「無償」のものだと思う。

いくら勉強したからと言って、
別に誰も褒めてくれるわけでもないし、
社会が認めてくれるわけでもない。

たとえ、賞賛されることが
あったとしても、それは「ボーナス」
のようなもの。

塩谷賢を見たまえ。あれだけ学識を
ため込んでいながら、大きくなったのは
ペタンペタンとたたくと
お餅のようで気持ちがいいお腹だけだよ。

現代において一つ良いことは、
インターネットに接続できさえすれば、
誰でも、無限の学びを続ける
状況が整ったこと。

その時に何よりも必要なのは
「語学」であろう。

「語学をやりたまえ」というのが、
おそらくは、現代の学問における
もっともプラクティカルなアドヴァイスでは
ないか。

「語学」の中には、数学が含まれる。

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