出典:
Bernd Sucher (Hrg.)
Theaterlexikon Band 2 Epochen, Ensembles, Figuren, Spielformen, Begriffe, Theorien.
München, Deutscher Taschenbuchverlag, 1996.
ドラマトゥルク(Dramaturg)
語義的(ギリシア語のdramaturgein=ドラマを書く)には、劇場に従事しており、上演されるべき戯曲の評価と選定にあたる文芸の専門家。また、劇場と観客のあいだを取り持つ機能を担う者。
18世紀後半以降これに該当していたのが、ゴットシェードの改革によって導入された劇場詩人(Theaterdichter)である。劇場詩人たちは、自らの戯曲を提供し、前口上(Prologe)や祝辞(Festreden)を述べるだけでなく、劇場書記(Theatersekretär)として改作や脚色、翻訳にあたることもあった(例えば、1797−98年にウィーンのブルク劇場で雇用されていたアウグスト・フォン・コッツェブー(August von Kotzebue)はそうした兼務をこなした)。
19世紀に入ると、提出された戯曲を審査するために俳優や演出家たちによってつくられていた査読委員会(Lesekomitees)や査読協会(Lesevereine)に、劇作家たちが入ってくるようになった。世紀が進むにつれ、書記たち(Sekretäre)がこの役割を担うようになり、彼らは劇場運営者たちの助言者として、演目構成に関して独立して責任を負うようになった。
ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing)は、1767年、「ドラマトゥルク兼顧問(Konsulent)」として、ハンブルク国民劇場(Nationaltheater)に招かれた。彼はここで、劇場創建の理念に則り、ドイツ国民劇の規則を打ち立てようとした。と同時に、上演に対する批評を通じて(1769『ハンブルク演劇論(ドラマトゥルギー)』)、(当時の用語に従うなら)「規則に準じた」、つまり芸術のあらゆる規則に従って書かれた市民劇の適切な上演とはいかなるものか、その指針を示そうとした。劇場を文学の模範的舞台へ高めようとしたこの試みが挫折したのは、当初から経営難につきまとわれた劇場の経済的困難のためだけではない。批評家としてのレッシングの活動は、本来であればそれによって劇芸術が鍛えられるべきものであったのだが、彼の批評によって気分を害した俳優たちの激しい抵抗により、まもなく中断を余儀なくされたのである。そのため彼は、ドラマトゥルギーに関する論考の中では戯曲に関する問題を検討するだけにとどめている。
それ以来、この時期に創設された国民劇場で作家たちが指導的な任務を託されるということは、個々のケースに過ぎなくなった(例えばドレスデン宮廷劇場における1825〜47年のルートヴィヒ・ティークや、1848/49年のカール・グツコー(Karl Gutzkow))。
ようやく19世紀も40年代に入ると、高まる市民解放運動と相俟って、「芸術施設」としての劇場を求める声が(おもにオランデンブルクの芸術監督フリードリヒ・フォン・ガル(Friedrich von Gall)によって)あらためて高まった。再び知識人たち(大学で学んだ文学の専門家や批評家、例えばマグデブルクのフェオドア・ヴェール(Feodor Wehl)やハンブルクのローベルト・プルッツ(Robert Prutz))が舞台の「文学的良心」の審級を担うべきとされた。中には(ウィーンのブルク劇場におけるハインリヒ・ラウベ(Heinrich Laube)やフランツ・フォン・ディンゲルシュテット(Franz von Dingelstedt)、あるいはデュッセルドルフのカール・レーベレヒト・インマーマン(Karl Leberecht Immermann)のように)みずから劇場長(Theaterleiter)となる者もあった。19世紀末のドラマトゥルクたちは、—もっとも有名な例は自由劇場とドイツ座で活動したオットー・ブラーム(Otto Brahm)であるが—劇場監督(Direktor)と演出家(Regisseur)を兼務し、それによってレパートリーを現代劇へと解放し、また現代劇にふさわしい演出と演技の方法を支持したのである。
今日のドラマトゥルクは、戯曲を読むことや劇作家たちとの共同作業、そして劇場運営における学芸面での助言と並んで、特に広報活動を担う。プレスリリースや当日パンフレット(プログラム冊子)の編集、自治体の委員会に対する演目案の説明、演劇に関心をもつ公衆向けの講演会、観客とのディスカッションなどをドラマトゥルクが引き受ける。それ以外にも、劇場管理において様々な、しかしながら部分的には曖昧にしか輪郭を描きえないような機能を果たす。60年代、劇場運営に進出しつつあった若い演出家たちの地位が高まり、また共同作業という考え方の重要性が増すのと平行して、ドラマトゥルクはより広汎な新しい使命と権利を獲得してきたのである。
ドラマトゥルクは、ブレヒトのベルリナー・アンサンブルのドラマトゥルクたち(例えばペーター・パリッチュ(Peter Palitzsch)やヨアヒム・テンシャート(Joachim Tenschert))を模範として、大劇場の演目の中で長期間にわたり、特定のテーマと結びついた特集を組み立てるようになった。また、個々の企画の準備に直接関与できるようになった。ドラマトゥルクは、解釈やコンセプトの提案、ゼミナールの開催、俳優や演出家との議論、そして定期的に稽古を訪れたりなどするようになったのである。長期にわたる演出家との協力関係の中で、そうした「制作ドラマトゥルクたち(Produktionsdramaturgen)」は、—例えばペーター・シュタインと仕事をしたハレ河岸シャウビューネのボート・シュトラウスやディーター・シュトゥルム(Dieter Sturm)、ケルンとハンブルクでユルゲン・フィルムやユルゲン・ゴッシュと働いたヴォルフガング・ヴィーンス(Wolfgang Wiens)、そしてシュトゥットガルトやボーフム劇場、ウィーンのブルク劇場でクラウス・パイマンと共同作業をしていたヘルマン・バイル(Hermann Beil)のように—演出過程に重要な貢献を果たした。
1953年には、演劇、映画、ラジオ、テレビの分野で活動しているドラマトゥルクたちが連合し、ベルリンを本部とするドラマトゥルク協会が設立された。そのフォーラムがドラマトゥルク大会(Dramaturgentag)である。これは、毎年異なる都市で開かれ、年次のテーマに関する公演やディスカッションを伴う、会員の大会である。
この職業の成立が国民劇場の思想と密接に関連しているドイツ語圏と異なり、ヨーロッパの他の国々の劇場は、少数の例外(ロンドンのナショナル・シアター・カンパニーにおける「litarary editor」としてのケネス・タイナン(Kenneth Tynan)や、1974年から1983年まで、ベルリンのシャウビューネを模範にジャン・ピエール・ヴァンサン(Jean-Pierre Vincent)のストラスブール国立劇場(Nationalthater Straßburg)で設けられていたドラマトゥルギー部門)を除き、これに対応するようなポジションをもたない。
参考文献:W. ハウスマン、『ドラマトゥルクという職業 1800年以降のドラマトゥルクの職務とドラマトゥルクの人格』、博士論文、ケルン、1954年.
W. Hausmann, Der Dramaturgenberuf. Dramaturgenamt und Dramaturgenpersönlichkeit seit 1800. Diss. Köln 1954.
ドラマトゥルク協会報(1953年より)
Schriften der Dramaturgischen Gesellschaft (seit 1953).
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