2011年6月13日月曜日

問題29 社会の構想

 今回の「問題」はシンプルです。「日本社会をどうしたいか」について考えたい。

 今回は、細かいアイディアではなく、その大元となる根本的なコンセプト、「社会理論」、「共同体の構想」を聞きたい。意識化して文章にしたことがあるかどうかはともかく、たとえば何かものを売る人なら「こういうものが売れる社会になってほしい」というようなかたちで、絵画や映画が好きな人なら「こういう絵/映画が生み出される/受け容れられる社会になってほしい」というようなかたちで、またデザインや編集をなりわいとする人は言うまでもなく、自分が理想とする社会像がどこかに育まれているはずです。

 1)個人が抱く理想像と、2)その理想像における個人の役割、の関係も重要なポイントですが、今回はひとまず、その社会(を実現する過程)で自分がどのような役割を果たすか、という問題は度外視してよいことにしましょう。「そんなこと言ってお前になにかできるの?」というツッコミはなし、ということです。「我々は夢を見ることを恐れてはなりません」、なんてね。

 そういうことは言葉で語れるものではなく、わたしにとっては作品としてしか表現できないものだ、という意見もあるかもしれない。しかしそれは両方必要わけだから、直接的な言葉は直接的な言葉でつくっていくべきだと考えます。

 今回は、場合によっては一人の参加者につき一回しか書きこまないくらいでもいいかなと思います。刺激の頻度よりも質を大切にして、できれば一度で語り切ってほしいと思います。複数回で「連載」してもいいけどね。お互いの質問等のやり取りは、もちろん自由にやりましょう。

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 さて、それではまずぼくから。

 ぼくは日本社会における「時間」の感覚がもっと豊かになってほしい。豊かな時間感覚をもつ社会にしたい。そのためには、死んだひとを大切にすること、そして自分の未来を自分で決めることが大事だと考えます。

 日本社会はいつからか、時間感覚が極めて貧弱な社会になってしまったと思う。たとえば、2回の原爆とその死者たち、被爆者/被曝者たちのことを忘れないことができていたら、原発のリスクを認識しつつそれを推進/看過することはできなかったのではなかろうか。

 戦争に至った原因をエネルギー政策に求め、それを繰り返さないために戦後は原子力発電を推進したというのは事実だろうけど、それは「今生きているひと」のための考え方。「今生きているひと」のために動くと、必ず現実的な利害関係が生まれ、権益が生じ、物事が本来の理念と離れたところで自動化されてゆく。そもそも、理念の中にもすでにさまざまな思惑が入り込む。また、何が決定されても常に反転されうる。それは現在も変わらない。

 他方、死んだひとは利害関係をもたず、次の選挙で投票もできない。あらゆる現実的な利害を離れた死者たちを媒介にすることでしか、共同体は成り立たないのではないかと思う。日本はさまざまな祭祀や能のような芸能において、「死者の側からものを見る」技術を伝統的に受け継いできた国。今回の震災では「復旧・復興」ばかりで、いまだ数も確定できない莫大な数の死んだひとたちをどう供養するか=これからの共同体の基盤になってもらうかという議論は聞かれない。それは死者が次の選挙で投票できないからだとぼくは思う。生きているひとしか投票できないから、生きているひとしか大事にされない。死んだひとよりも生き残っているひとのほうが多いから、生きているひとしか大事にされない。それでは利害争いが続くだけ。死んだひとに見せても恥ずかしくない世の中をつくるということが、日本でも可能な倫理ではないかと考える。

 ところで、「時間」は過去と現在だけでなく、未来をもっている。ぼくは「死者」=過去との関係を変えると同時に、未来との関係も変えなければならないと思う。

 たとえば、菅首相。彼が浜岡原発を止め、いわゆる「自然エネルギー」へのシフトを表明し、サミットで「2020年代の早い時期に『自然エネルギー』20%以上に」と宣言して支持されたけど、忘れてはいけないのは、彼は早ければあと1、2ヶ月、最長でもあと半年でいなくなる首相だということ。あと半年以内に権限も責任もすべて失うひとが、今後数年、あるいは数十年に影響を与える決定ができる(もしくは決定したような見せかけをつくれる)システムはおかしい。「2020年」なんて空虚にしか響かない。

 原発政策のように、「政治家の寿命」と「政策の寿命」という二つの時間が決定的にずれてしまう場合は、そのうちいなくなる政治家に決定を委ねてはならないと思う。その決定が政策として実現するときも、決定を下したときと同じ立場にある人間しか、そうした決定はできないと思う。そして国政においてそのような決定主体は「国民」しかありえないから、ぼくは日本でも国民投票が実現することを期待する。未来は、未来において責任をとることのできる主体が決定すべきだ。

 以上のように、ぼくは過去および未来との関係を再考、再構築したうえで、具体的で豊かな時間感覚をもつ日本社会にしたいと思う。

 そのチャンスはインターネットにあると思う。大雑把に言えばインターネットは過去と現在と未来が同時にあらわれてくる空間だ。インターネット空間を、死者と生者と未来の子供が混じり合う場、あるいはそれらの区別が融け合う場にすることが、社会の時間感覚にとってひとつの可能性ではないかと考える。

 最後に、自分の考えに含まれている問題点を自分で指摘する。

 1)死者は「悪用」できる。死者の声を「代弁する」とき、そこには「悪用」の可能性が生まれる。たとえば、「死者は原発に反対するはずだ」という理屈が成り立つとき、同様に「死者はアメリカに復讐するために日本が軍事大国になることを望んでいるはずだ」という理屈も原理的に成り立つ。すると、死者を基盤とするといっても、死者を基盤とするためのさらなる基盤が必要なのか、という議論になり、これは永遠にメタ化されてしまう。これにどう答えるか。

 2)結局のところ政治家や官僚やシステムをどこからどうやって変えればいいのか。

 以上、荒っぽい議論だが、ぼくの「時間社会論」の素描としたい。ご意見、ご感想ぜひください。

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 というわけで、文量はどうでもいいし、ぼくみたいに政治のこととか絡める必要はまったくないから、とにかく自分の専門分野を相手にするのではなく、「社会」みたいな大きな相手に向かって語る言葉を出してもらえたら嬉しいです。

 今回は盛り上がらなくてもいいと思う。じっくり練った「本気」を見たい。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。それではよろしく。

4 件のコメント:

  1. 「不思議の余地を残す社会」が私の構想する社会です。
    何の不思議を思い出すのかというと「言葉が通じること」「同じだと分かること」「ルールを共有できること」などです。これらは社会を形成する上で欠かせない要素だと言えるでしょう。考えの異なる個人同士が同じ共同体をつくれる、そのことの不思議を忘れないことが、今の社会に付加したいことです。

    反対に不思議ではないことは「言葉が通じないこと」「同じだと分からないこと」「ルールを共有できないこと」です。できなくて当たり前でしょう。できてミラクルではないでしょうか? 言葉が通じるということは、つまり出してはいけない音や書いてはいけない文字などがあるのです。いくつかの禁止事項を設けることで、通じ合う言葉が誕生します。その人だけの言葉ではその人だけです。社会形成には共有をしないとならないはずです。しかし有象無象の世の中で「あなたのバナナ」と「わたしのバナナ」は同じバナナであると共有できることは驚きです。違う木に実っていたバナナでも、フィリピン産でも台湾産でも同じバナナ。さらにこの手に持っている物質をなぜ「バナナ」と呼ぶのかと考えたら、もう共有はむりなはず。そのように考えると「同じだと分からないこと」は当たり前なのかもしれません。象徴を抜かして見たら違うのですから。赤ちゃんや幼児のころは分からなかったはずです。いつしか発達過程を経て、絵のバナナもスーパーのバナナも台湾産バナナも食べているバナナも同じ「バナナ」だと分かるようになります。差には眼をつぶれるようになります。

    さて話はちょっと代わります。私が「苦手だなぁ」と思う人について書きます。
    どんな人が苦手かと言うと「つっこめない人」です。なんでやねんです。つっめない人とは…なんというのかな…決まっている人、と形容しようかな。決まっているとは、自分とはこういう人であると完全に自認しているかのようなこと。つまり、自分の基盤を揺るがす他のルールや他の人には眼をつぶってしまう人。バナナはバナナとだけ言う人。
    そんな人と会話していると、いかに自分が凄いかを教えてくれることがある。
    主な項目は家柄、学歴、収入、実績など。どうだ!凄いでしょう!と言われるともう閉口してしまう。
    きっとこの人にはつっこんでも無理なんだろうなと私はへこむ。
    私のつっこみたい項目は
    ・常識というのは底が抜けておりますなぁ、
    ・それは括弧付けの価値ですよね、
    ・人は誰しも狂うことはありますよね、
    ・バナナになる前はバナナは何だったのでしょう
    …などです。

    本当は「うるさい、面白くない!」と場を壊せたら私の健康には一番いいのでしょう。しかし勇気がなくて言えない。そんなときにふと思うのが「不思議の余地を残してほしい」なんです。
    偉いステージにいるあなたかも知れないが偉くはないかもしれない。そもそもが有象無象の中から意味を取りだしているのだから、取り出した先のルール以外にも、いろんな前提の世界は拡がっているでしょう。その不思議の上に成り立っているのですから。と思うのです。意味やルールだけ占めるのではなく余白を残していて欲しいな。

    いや…自分でも変なことを書いているなと思います。しかし言いたいのは「国民皆平等」とかではありません。ステージの高い人の暮らしぶりは私の暮らしぶりと違うでしょう。それにいかに自分は凄いのかと私に知らしめるくらいの差はあったりするでしょう。長らく身分制度はありましたし、全員平等というルールの方が無理あるでしょうとか思っていますよ。
    その、なんというか、自分だけのルールで完結しないで欲しいなぁという訴えであるんですけどね。相手にはまったく異なる世界が拡がっているかも知れないのに、それなのに、共有出来る凄さってのがありますよね、と言いたい。
    そしてそういうのが壊れる場合もありますよね…と。

    社会も都市型になると、共有出来ない人は排除と管理をしてきた歴史があります。狂人や働かない人は都市社会に意味をなさないので閉じ込めたり。都市の治安を守るために座敷牢にいれたり。最近では病院や施設へ預けて地域へ戻さないなど。
    解剖学者の養老孟司さんは脳化社会と言っていた。すべてコントロールしようとする。人の頭の中で完結させようとする。なのでコントロールできない土はアスファルトにしたりする。それで養老さんは1年の内何ヶ月は農村へ行って畑仕事をせよと提案していた。参勤交代。手に負えない自然を体験せよということだ。
    私はこれを社会のルールだけが全てじゃないという意味を受け取った。コントロール出来ないこともある。コントロールできると誇大広告をうっていた原子力発電所は、コントロールできなくなったときの対処をぜんぜん考えていなかった。林くんの生きている人だけではなく、死んだ人を大切にしてほしいには共感する。

    死を見ないようにするのも、共有できない人を見ないようにするのも、自分だけのルールしか見ないのも問題がある。みんな平等に致死率100%を持っているわけだ。発達障害や重度の精神疾患、認知症など脳機能がどうなるかなんてわからない、それは肺がんになったり、盲腸になったり、風邪をひいてしまうのと同じ意味でいつまでも今の機能を保っていられるかどうか分からない。地震はこれからも起こるだろうし、津波はこれからも起こるだろうし、火山保有も世界一の国なのだ。社会が成り立つ不思議を忘れるといびつだ。なぜなら共有の社会が全てではないのだから。不思議の余地を残すためにどうすればいいか、がこれからの課題です。

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  2. ところで他にも誰かコメントするのかな?
    もしするなら意思表示を。

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  3.  蓮沼くん、いいっすね。またぼくも書きます。

     助友さん、再来週はさすがに遠いっすね。蓮沼くんが参加してくれて流れが出てきたので、もし書いてもらえるなら、やはり近日中の方がいいように思います。

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  4.  私が構想する社会は、「終わりのある社会」です。

     具体的な例を挙げます。今のところ、人間はいつか必ず死にます。命が終わります。でも、その「死」(=終わり)が怖い。だから死なないために、何かを発明したりしようとする。その動き自体には何も問題はなくて、むしろもっともっと人間の生の可能性が広がることに期待したい。ここで取り上げたいのは、「終わり」をなくしてしまうことに専念するよりも、「終わり」があるから、そこに向かってどう時間を過ごしていくのか、ここがしっかり考えられる社会になればいいということです。

     「死」という例を取り上げましたが、このことはもっと広く考えられることで、例えば何かのプロジェクトもそうだし、物を買うこともそうだし、あるいは「1日」という時間もそうです。「終わり」があります。「終わり」を意識していなかったものに、突然「終わり」が見えると、それまでの時間が一変します。「終わり」までの時間を計算しながら、残された時間でどう過ごそうか考えるわけです。そういう時間の波があって、何かが終わると同時に新しく何かが生まれたりするわけです。
     もし私が永遠の命を手に入れたとしても、どう過ごしていけばよいかわからないまま、いつまでもだらだらと時間を費やしてしまうでしょう。永遠に続くことが決まっているプロジェクトがあれば、どう進めていっていいのかわからないまま、ずるずると進んでいくでしょう。
     桜は散ってしまうから美しいんだ、とは全く同じではありませんが、「終わり」があるからこその時間の波、盛り上がり、リズムがあって、それが存在している、生きている社会でありたい、あってほしいと思います。

    (と言いつつも、私はやっぱり死が怖い。)

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